第伍頁 高野長英 蛮社の獄………史上最も強引な脱獄?

脱出者高野長英
包囲者小伝馬町牢役人
事件蛮社の獄
手引者牢役人栄蔵
脱出手段放火による切り放し
影響翻訳活動の継続
事件と重囲 この高野長英の脱出劇は前頁までとは少し様相が異なる。前頁までは(規模は違えど)戦場に関連した兵による包囲からの脱出だったが、長英の場合は「脱出」というより明らかに「脱獄」である。
 というのも、長英の身柄拘束は天保一〇(1839)年五月の蛮社の獄と云う言論弾圧事件にて幕政(具体的には異国船打ち払い令とそれによるモリソン号砲撃)を批判した咎で小伝馬町牢獄に投獄されていた。

 江戸南町奉行鳥居耀蔵は蘭学者を目の敵にしているかのように苛烈に弾圧を指揮した。裁きの結果、長英小伝馬町牢獄にて永牢(終身刑)となった。
 入牢前の長英は、自らの才能を鼻に掛ける傾向があり、その才を尊敬されつつも人としてはどちらかと云えば嫌われていたが、牢内での長英は囚人達が不衛生な環境で病気に苦しむのを医師としての知識と技量で救うことで人望を得、忽ちの内に牢名主(現代の刑務所で云えば部屋長みたいなもの)となった。



脱出 だが、高野長英は獄中で生涯を終える気はなかった。
 そもそも長英が洋書翻訳に勤しみ、幕政批判を辞さなかったのは憂国の情によるものだった。天保年間の日本は二〇〇年に及ぶ鎖国から技術面で西洋列国に大きく差を開けられ、国際情勢(欧米列強がアジア諸国を次々に植民地化していた)にも疎く、ぼやぼやしていては侵略の魔手が日本に及ぶのは時間の問題と見る蘭学者は少なくなかった。
 当時の幕閣の多くが頑迷な一方で、蛮社の獄以前も以後も、「このままではいけない。西洋に学ばなくては。」と考える者は学者の中にも、一部の幕閣や開明的な大名の中にも存在し、長英は牢を脱してそれらの人々に訴えて日本を変えなくてはと考えていた。

 とはいえ、永牢の身ではただ服役しているだけでは文字通り一生牢を出られない。長英も好き好んで違法行為をしたい訳ではなく、当初は蘭学者仲間による働きかけや、開明派の幕臣が自らの才を認めることで牢を出る日を期待していた。
 だが、異常な蘭学嫌いで頑迷な鳥居耀蔵が老中でいる内は丸でその期待が持てないと見た長英は合法的な出牢を諦め、入牢六年目の弘化元(1844)年六月三〇日、彼を慕っていた牢役人の栄蔵放火させ、火災時の「切り放し」に乗じて脱獄した。

 動機はどうあれ、これはとんでも無い重罪だった。
 ただでさえ永牢の身である長英の罪が重くなるとすれば死罪しかなかった。まして放火は火炙りが当時の御定法だった(実際、栄蔵は二年後に捕まって火刑に処された)。
 また、前述の「切り放し」だが、これは牢獄が不測の事態である火災に遭った際に、囚人達の命を守る為に採られた非常措置だった。
 つまり囚人が火災で焼け死ぬのを防ぐ為に行われた一時的な釈放で、当然釈放時には三日以内に所定の場所に集合して服役し直すことが命ぜられた。そして定められた通りに集合すれば罪一等減じるが、逃げれば問答無用で死罪とした。

 切り放しが最初に行われたのは明暦の大火(明暦三年(1657年)の時で、牢屋奉行石出吉深の独断によるものだった。当時火災時における規定はなく、そのままでは囚人達は全員焼死を免れないところだった。
 吉深は囚人達に対し、「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する。」と述べ、猛火が迫る中で死刑囚を含む数百人余りの「切り放ち」を行った。
 囚人達は涙を流し、手を合わせて吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきた。吉深も前言通りに老中に対して囚人達の減刑を嘆願した。
 幕府も、「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる。」と云う吉深の言を容れ、囚人全員の減刑を実行。以後、切り放しは幕閣の追認するところとなり、明文化こそされなかったが、以後江戸期を通じて「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)」とする制度として不文律として慣例化された。

 かかる美談を経て生まれた切り放しだったが、脱獄目的に放火させた長英が戻ることは勿論なかった。
 七月三日の暮れ六つ時が集合の最終期限だったが、長英を含む七名が戻らなかった。七名の内、四名が打ち首となり、一名は土地不案内で間に合わなかったことが認められ、奇跡的に不問とされた(←こうしてみると江戸時代の刑罰は現代と比べても意外と柔軟性が有った)。



脱出の影響 高野長英の生涯と脱獄・逃亡の詳細は過去作『没落者たちの流浪』を参照して頂きたい(注:制作した薩摩守が呆れるほど冗長であることを予め御承知下さい(苦笑))。

 長英が脱獄してまで流浪し続けた目的は、洋書の翻訳を続け、西洋の知識・技術・施策を受け入れることを訴えんが為で、長英は旧知の蘭学者を頼って地方を転々として、時には伊予宇和島藩主伊達宗城に匿って貰って洋書の翻訳を続けた。
 だが、それでも探索の手は執拗で、終には硝酸で顔を焼いて人相を変え、江戸で沢三泊の偽名で生活の為に医師をしつつ翻訳を続けたが、翻訳の腕から足がつき、捕り方に踏み込まれて自害を図るも死に切れず、護送の途中か、その直後に落命した。

 過去作でも書いたが、長英の脱出・逃亡を是とするか、非とするかは微妙である。病的なまでに外国嫌いな鳥居燿蔵に目を付けられ、罪人とされたことには同情するが、火事に弱い江戸の町にて放火と云う暴挙で何人もの人間を刑死に追いやったことは感心しない(しかもあと少し我慢していれば鳥居は失脚していた)。
 ただ、それでも多くの人々が連座覚悟で長英を匿い、その知識・翻訳の腕を必要としたのは間違いなく、開国・国防・改革を考える人々にとって、長英が牢獄内に留まらず、逃げ続けてくれることはある意味、新しい時代が到来しつつあることを見せつけていると捉えたのではあるまいか?

 ちなみに日本開国のきっかけとなるペリー来航長英の死の三年後で、明治まで生きた鳥居は終生その考えを変えることなく、幕府が滅びたのは自分の考えに従わなかったからだと嘯き続けた。


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令和三(2021)年一月四日 最終更新