第壱頁 三大飢饉概略……大飢饉の原因と犠牲

 まず、歴史上の人物と江戸時代の大飢饉との戦いを見る前に、大飢饉の概略を見ておきたい。大飢饉そのものは古代から近代まで無数に存在し、一つ一つを検証すればそれだけで一つのサイトになってしまう。故に大飢饉を江戸時代に発生したものに限定した。
 江戸時代は全期を通じて現代よりも寒冷な時代であったらしく、中期以降は百姓一揆打ちこわしが頻発した様に、凶作や飢饉が絶えなかった。本作ではその中から代表的な江戸四大飢饉に絞り、更に寛永の大飢饉を除いた江戸三大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉)を対象とし、その惨禍に歯止めを掛けるのに尽力した人達に注目した。

 そこでこの第壱頁では第弐頁以降を分かり易くする為に、江戸三大飢饉の概略を解説したい。
享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)
時期享保一七(1732)年
被害地域中国・四国・九州地方の西日本各地(特に瀬戸内海沿岸一帯)
時の征夷大将軍徳川吉宗
原因冷夏と虫害
犠牲『日本災異志』では一万二一七二人、『徳川実記』によると九六万九九〇〇
 享保一六(1731)年末より天候が悪く、享保一七(1732)年の夏は梅雨からの二ヶ月間にも及び長雨が冷夏をもたらした。更にイナゴ・ウンカ等の害虫が大発生し、大きな被害(特に稲作)が中国、四国、九州地方を席巻し、中でも瀬戸内海沿岸一帯がひどい凶作に見舞われた。

 被害の有った西日本諸藩は四六藩。本来なら四六藩の総石高は二三六万石だが、この年の収穫は二割七分の六三万石程度にしかならなかった。
 飢餓に苦しんだ者は二五〇万人に及び、これを悪用した米商人の買い占めで米価が高騰。困窮した江戸町民によって享保一八(1733)年一月、享保の打ちこわしが勃発した。



天明の大飢饉(てんめいのだいききん)
時期天明二(1782)年〜天明七(1787)年
被害地域全国、特に東北地方
時の征夷大将軍徳川家治
原因浅間山等の噴火、エルニーニョ現象による冷害
犠牲餓死者以外に疫病・洪水・噴火の犠牲も含めると一〇〇万人余
 享保の大飢饉から丁度五〇年後に発生。
 一〇年前後以前の明和・安永の頃(1770年代)から既に東北地方では悪天候や冷害により農作物の収穫激減が見られていた。そんな中、天明三(1783)年に岩木山が、同年七月六日に浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。
 上空に拡散した火山灰は日光を遮り、日射量低下による冷害をもたらし、農作物に壊滅的な被害を生ぜしめた。
 加えて天明二(1782)年から三年間、冬には異様に暖かい日が続いた(大型のエルニーニョが1789〜1793年に発生したのが原因と思われている)。
 これは当時から見て約三〇年前の宝暦年間(1751〜1763年)の宝暦四(1754)年、宝暦五(1755)年、宝暦一三(1763)年の凶作時の天候と酷似していて、世の人々を不安に陥れた。

 被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死。『後見草』(杉田玄白著)によると、死者の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、通路に死人が山を為したとの有様だった。しかも、諸藩は失政を咎められて改易に処されることを恐れ、被害を少なく報告した可能性が高く、陸奥弘前藩における実質的犠牲者数は十数万人に達したとの説もある。
 勿論まともに年貢を収められる筈が無く、逃散した者も含めると弘前藩は人口の半数近くを失ったと推測されている。

 被害は飢餓による餓死者のみに留まらず、同時発生した疫病の流行でし、全国で安永九(1780)年〜天明六(1786)年の間の人口減は九二万人余りに及んだとされている。
 更に飢えから逃れんとして農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化。折悪しく天明六(1786)年に江戸にて異常乾燥と洪水(行き過ぎた新田開発、耕地灌漑の悪影響と思われる)が発生していた事も重なって、天明七(1787年) 五月には米屋への打ちこわしが起こり、一〇〇〇軒の米屋と八〇〇〇軒以上の商家が襲われ、無法状態が三日間続いたと云う。
 打ちこわしはその後全国各地へ波及し、大坂でも大規模な打ちこわしが勃発した。

 間の悪いことに当時、田沼意次による重商主義政策により、商業的農業の公認による年貢増徴策が実践されており、諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行き過ぎた奨励で収穫量増を図った結果、冷害に脆弱になった。更に備蓄米を払底して江戸への廻米に向けたことも裏目に出た。ために大凶作の一方で米価の上昇に歯止めが掛からず、全国規模での飢餓輸出となってしまった。

 結果、天明の大飢饉江戸三大飢饉の中でも様々な点で最大規模の飢饉になってしまった。



天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)
時期天保四(1833)年〜天保一〇(1839)年
被害地域全国、特に東北の陸奥・出羽
時の征夷大将軍徳川家斉・徳川家慶
原因大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に降雪が記録されている)
犠牲推定で二〇〜三〇万人。内東北地方だけで一〇万人と推定されている。
 当時既に「大飢饉は五〇年ごとに起きる。」と伝わっており、享保の大飢饉から一〇一年後、天明の大飢饉から五一年後となる天保四(1833)年、大雨による洪水や冷害で大凶作となった。
 天明の大飢饉に続き、東北地方(特に陸奥と出羽)の被害が最も大きく、仙台藩も新田開発の奨励で実高一〇〇万石を超える石高を有しながら、米作に偏った政策が祟って甚大な被害が出た。
 享保の大飢饉天明の大飢饉からの教訓もあって、凶作対策が行われていたため、死者の数は少なく済んだ。但し、商品作物の普及で農村に貧富の差が拡大していたため、貧農の犠牲が大きかった。
 幕府では救済の為、江戸市中二一ヶ所に御救小屋を設置したが、極度の飢餓状態に慌てて粥を掻き込んだため、ショック死する者が後を絶たなかった。
 この時も米価急騰が起き、それに伴って各地で百姓一揆打ちこわしが頻発。幕府直轄領甲斐で一国規模の天保騒動が起き、大坂では大塩平八郎の乱の原因にもなった(大坂では毎日約一五〇〜二〇〇人を超える餓死者を出していた)。

 一方、田原藩や米沢藩等では上手く過去に学んだことから義倉の整備や救荒作物の手引きから餓死者を出さなかった。他にも餓死者を大幅に抑え込んだ藩も多く、藩によって領民の命運は大きく左右されたとも云える。



 江戸三大飢饉に次ぐものとして、家光時代の寛永の大飢饉(寛永一九(1642)年〜寛永二〇(1643)年)、家綱時代の延宝の飢饉(延宝二(1674)年〜延宝三(1675)年)、綱吉時代の天和の飢饉(天和二(1682)年〜天和三(1683)年)、元禄の飢饉(元禄四(1691)年〜元禄八(1695)年)、家重時代の宝暦の飢饉(宝暦三(1753)年〜宝暦七(1757)年)があり、大きな被害が出たと云う。
 勿論餓死だけが犠牲ではない。餓死を逃れんとして暴徒と化した者、それに伴う暴力的な犠牲、「口減らし」の為に赤子の間引き、女児の身売りと云った痛ましい犠牲が相次いだであろうことは想像に難くない。
 その様な悲劇を少しでも防ぐ為、史上の人々が如何なる奮闘をしたかを次頁以降で見て行きたい。


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令和三(2021)年六月七日 最終更新