第弐頁 下見吉十郎……「生き仏」ならぬ「生き地蔵」?甘藷地蔵ここにあり

名前下見吉十郎秀譽(あさみきちじゅうろうひでたか)
生没年寛文一三(1673)年〜宝暦五(1755)年八月一日
職業僧侶
通称・尊称伊予の三農、古岩独釣、甘藷地蔵(いも地蔵、芋地蔵)
対抗した飢饉享保の大飢饉
飢饉対抗手段サツマイモ栽培普及
略歴 伊予の豪族河野氏の子孫で、寛文一三(1673)年に大三島の瀬戸村で生まれた。  四人の子供を儲けたが、全員に幼くして先立たれる不幸に見舞われ、正徳元(1711)年六月二三日に六部僧として大三島から諸国行脚に発った。

 旅立って五ヶ月後の同年一一月二二日、薩摩伊集院村の農民・土兵衛宅で一宿した際に、甘藷(サツマイモ)と出会った。吉十郎は甘藷が痩せた土地でも簡単に栽培出来ることを知ると、故郷の大三島でこれを育てたいと考え、土兵衛に種芋を譲ってくれるよう頼み込んだ。  芋の藩外への持ち出しは薩摩藩によって禁じられていたので土兵衛は最初断ったが、吉十郎は再三必死に頼み込んで遂にこれを譲り受け、種芋を持っての帰国に成功した。

 帰国後、吉十郎は持ち帰った種芋から甘藷の栽培に成功し、これを大三島及び周辺の島々にも広め、島民達の生活を安定させたばかりか、享保の大飢饉において餓死者を一人も出さないという成果をもたらした。

 宝暦五(1755)年八月一日に逝去。下見吉十郎秀譽享年八三歳。


飢饉に直面して 下見吉十郎がやったことは、救荒作物として有望な甘藷に着目し、これを普及させた、という単純な事である。だが単純でも為した意義は極めて大きく、その背景は「単純」で語るには危険な物も含んでいた。

 ここで少し救荒作物であるサツマイモについて語っておきたい。
 薩摩は保水力の弱いシラス台地で、稲作に不向きで、七二万石の大身でありながら飢饉でない年ですら毎年餓死者を出していた。それゆえ痩せた土地でも栽培可能で、飢饉に強い甘藷が琉球から伝わるとこれを重宝し、それがために「サツマイモ」の名が生まれた。

 余談だが、薩摩では甘藷を「リュウキュウイモ」と呼び、琉球では甘藷を「カライモ」(唐芋)と呼ばれたというから、伝来ルートが分かり易い(笑)。
 薩摩同様、地形や気候などが独特な瀬戸内地方も大規模な飢饉に見舞われることが多い地域で、それゆえ吉十郎は甘藷を故郷で育てたいと切望した。だが薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁じていた。それゆえ当初は土兵衛も吉十郎の頼みを断った。
 それに対して吉十郎は文字通り泣いて頼んだ。再三に渡る必死の懇願に土兵衛も遂に折れて種芋を譲り渡した。
 吉十郎は仏像に穴を空けてそこに種芋を隠し、薩摩から持ち出したが、勿論これは命懸けの行為で、この時の想いを吉十郎は後に「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」と記した。

 かくして吉十郎は種芋を大三島へ持ち帰り、栽培に成功。島の農民達に配って栽培法を伝授した。甘藷の栽培と拡大・普及は順調に進み、吉十郎の栽培した甘藷は大三島から近隣の島々に広まり、それまで飢饉に苦しんでいた島民の生活は安定し出した。
 そして瀬戸内地方を中心に一〇〇万人に及ぶ餓死者を出した享保の大飢饉時に大三島の周辺では一人の餓死者も出さず、逆に苦しむ伊予松山藩に米七〇〇俵を献上出来たほどだった。


後世への影響 一〇〇万人余の犠牲者を出した享保の大飢饉に一人の犠牲者も出さなかったことに島民達は改めて下見吉十郎を深く慕い、向雲寺(現・愛媛県今治市上浦町瀬戸)に「甘藷地蔵」として祀った。向雲寺以外でも島内の明光寺、宝珠寺、永久庵、更に周辺の伯方島、生口島、因島等も合せて二〇体以上の地蔵菩薩が作られた。

 また、多くの人々を飢餓から救った甘藷の救荒作物としての優秀性も広く伝わり、次頁以降の井戸正明、青木昆陽達がこれに注目したのも吉十郎の尽力と無縁であるまい。

 時代は下って、大正九(1920)年、下見吉十郎彰徳碑が建立され、昭和二三(1948)年には「甘藷地蔵」が愛媛県の指定史跡となった。吉十郎の子孫は現在も向雲寺の近辺に在住で、毎年吉十郎の命日には甘藷地蔵祭が催されたり、いも地蔵をモチーフにした土産用の和菓子が作られたり、と島民に広く親しまれている。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

平成二八(2016)年三月一三日 最終更新