第壱頁 黒田官兵衛&竹中半兵衛………累代の恩義をもたらした友情

前置き 黒田官兵衛は「黒田如水」とも「黒田孝高」とも名乗っており、竹中半兵衛も「竹中重治」と呼ばれることもありますが、「秀吉の二兵衛」と並び称された者達の友情を語る趣旨から、前者を「官兵衛」、後者を「半兵衛」で統一して記します。


黒田官兵衛略歴 名は孝高(よしたか)。天文一五(1546)年一一月二九日、黒田職隆の嫡男として、播磨姫路に生まれた、幼名は万吉
 永禄四(1561)年より父と共に小寺政職の近習として仕え、永禄一〇(1567)年頃、父から家督と小寺家の家老職を継いだ。

 永禄一一(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると畿内、姫路周辺、中国地方にかけて織田と毛利の対立に小寺家も翻弄され出し、天正三(1575)年に信長が長篠の戦いで武田勝頼を打ち破ると政職に織田氏への臣従を進言した。
 同年七月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、天正五(1577)年に信長が播磨諸侯に人質の提出を命じた際に、政職の嫡男が病弱だったため名代として自分の嫡男松寿丸(長政)を信長の元へ送った。

 同年一〇月に信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した信長は秀吉を播磨に進駐させ、官兵衛は居城であった姫路城本丸を秀吉に提供。自らは二の丸に住み、この頃から本格的に秀吉の参謀として活躍するようになった。
 備前の宇喜多直家の調略等に活躍した官兵衛だったが、天正六(1578)年信長重臣で摂津有岡城主だった荒木村重が信長に対して謀反。政職も村重に呼応しようとしたために、村重を説得するべく有岡城に乗り込んだが、説得成らず、逆に幽閉された。
 このことは織田方には伏せられたため、信長は官兵衛が裏切ったと断定し、松寿丸を殺すよう秀吉に命じた(詳細後述)。
 約一年半後の天正七(1579)年一〇月一九日、有岡城は陥落し、官兵衛は家臣達に救出され、監禁の後遺症で足が不自由になったものの織田家への帰参が叶った。

 天正八(1580)年一月、秀吉は別所長治の三木城を陥とし、同時に政職も、織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、大名としての小寺氏は滅び、ここに及んで官兵衛は完全に秀吉の重臣となった。
 その後、秀吉の中国征伐に従軍するが、天正一〇(1582)年六月二日に本能寺の変が勃発し、信長が横死。明智光秀が毛利輝元に送った密使を捕らえたことで変を知った秀吉は愕然として滂沱に暮れたが、官兵衛はこれこそが好機であることを説いた。結果、秀吉は中国大返しと呼ばれる旧撤退の後に山崎の戦いで明智光秀を破り、事実上信長の後継者としての地位を確保し、天下人への地歩を固めたのだが、秀吉には終生警戒されることとなった。

 とはいえ、その後も官兵衛が参謀として活躍したことに変わりはなく、それに比例して豊臣家での地位も上がり、小牧・長久手の戦い後には播磨宍粟五万石の大名となり、天正一四(1586)年には従五位下・勘解由次官に叙任。
 九州征伐後には石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督し、これが縁で豊前六郡一二万石が与えられ、中津城主となった。
 天正一七(1589)年五月、家督を長政に譲り、自身は秀吉の側近とし猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点とし、国元は長政に任せた。

 拙房でも多くの例を挙げているのと同様、官兵衛も隠居は隠居にあらずで(苦笑)、天正一八(1590)年の小田原征伐でも北条氏政・氏直父子の小田原城開城を説得し、これに成功したことで秀吉の大いに褒められた。
 朝鮮出兵でも軍艦として参戦・渡海したが、加藤清正・小西行長・石田三成・増田長盛等と反りが合わず、渡海と帰国を繰り返した。
 慶長三(1598)年八月一八日豊臣秀吉が薨去。官兵衛は最後の大乱が起きるであろうことを予想。慶長五(1600)年六月二日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じ、長政が六月一六日に長政が家康と共に出陣すると中津に帰国していた官兵衛は家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結んだ。

 石田三成の挙兵を知らされると官兵衛は中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった九〇〇〇人ほどの速成軍を作り上げた。
 官兵衛は東西両軍の戦いは長期に及ぶと睨んでいて、その間に第三勢力を組織することで最後の天下取りを目論んだのだったが、東西老軍が激突した関ヶ原の戦いはたった一日で東軍の大勝利に終わり、皮肉にもそれに大きく貢献したのは息子・長政だった。

 戦功により長政は豊前中津一二万石から筑前福岡五二万石の大大名へと大躍進した。井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、官兵衛にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示したが、官兵衛はこれを辞退し、完全な隠居生活に入った。慶長九(1604)年三月二〇日、京都伏見藩邸にて死去。黒田官兵衛孝高享年五九歳。


竹中半兵衛略歴 名は重治(しげはる)。天文一三(1544)年、美濃斎藤氏の家臣で同国大野郡大御堂城(現:岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として生まれた。
 弘治二(1556)年、斎藤道三と義龍の父子相克である長良川の戦いにて初陣。道三に味方したが、父の代わりに大将を務め、籠城戦にて義龍軍を退けた。
 だが戦いは義龍側の勝利に終わり、永禄三(1560)年に家督を相続し、菩提山城主として義龍に、その義龍が翌年に死去すると、その息子・龍興に仕えた。

 義龍の死去により、若年の龍興が治める美濃に動揺が走るも半兵衛は美濃を良く守った。しかし龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して半兵衛や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。
 これを憤った半兵衛は永禄七(1564)年二月六日、岳父・安藤守就(←西美濃三人衆の一人でもある)と共に稲葉山城を襲い、龍興を一時的に追い出した(八月に龍興に奪還されたとも、返還したとも云われている)。 

 その後は若くして隠遁生活を送っていたが、永禄一〇(1567)年に織田信長の侵攻により龍興が稲葉山城を追われると斎藤家を辞し、北近江の浅井長政の客分として仕えたが、一年ほどで旧領の岩手へと帰り、再び隠棲した。
 そんな半兵衛の噂を聞きつけた信長はこれを家臣として家臣として登用したいと考え、美濃攻めに活躍した木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で半兵衛を仕えさせたと云われている。
 簡単に応じなかった半兵衛だったが、秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる。

 その後、将軍足利義昭によって信長包囲網が形成されると、信長は義弟の浅井長政と敵対関係になった。これに対して半兵衛は一時仕えていた浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍し、浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせた。
 そして秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、半兵衛もこれに従い、天正六(1578)年五月二四日、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城さた。
 同年、信長に謀反を起こした荒木村重に対して同僚の黒田官兵衛が有岡城へ赴き、翻意させんとしたが官兵衛は捕らえられ、監禁されたため、秀吉麾下唯一の参謀となった。

 天正七(1579)年四月、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、同年六月二二日に若くして死去した。竹中半兵衛重治享年三六歳。



共に過ごした時間 黒田官兵衛竹中半兵衛が行動を共にしたのは、両者が木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕えたことに端を発する。
 豊臣秀吉と云えば、低い身分から天下を取った人物の中では日本史を代表する人物と云っても過言ではない。当然、織田信長に仕え始めた頃には家臣らしい家臣もいなかった。当初は兵站を担っていたが、その手腕や清州城修復工事での手際を買われ、足軽大将になることで部下を持つようになったが、その時点では舎弟・小一郎(豊臣秀長)、地元身内の縁者であった加藤虎之助(清正)・福島市松(正則)、妻の実家縁者に限られ(後の世で呼ばれた「子飼い」である)、現代企業で云えば一族経営の小企業に等しかった。
 勿論、織田家中で頭角を現すにつれて地位が上がり、それに否定して家臣も増えた訳だがそれが本格化したのは浅井家を滅ぼした後に長浜城主となった後のことだった。そんな秀吉に半兵衛はその中間地点で仕え出し、官兵衛は秀吉が一大名になってから仕え始めたた。

 「略歴」で書いたように、半兵衛は永禄一一(1568)年、官兵衛は天正三(1575)年に仕え始めた。半兵衛が仕え始めた時の秀吉はまだ「木下藤吉郎」で、官兵衛が仕える頃には「羽柴筑前」となっており、この時点では子飼い以外にも近江派と呼ばれる者も仕えており、官兵衛は秀吉陣営では新参に近かった。
 そして天正六(1578)年に荒木村重を説得する為に羽柴陣を発った官兵衛は村重に監禁され、一年半後に救出された時には半兵衛は病没していた。つまり両者が共に秀吉麾下にいた時間は四年に満たなかった。
 しかもこの間、秀吉麾下の家臣達は様々な毛色の者が次々と参入している。そんな中で官兵衛半兵衛は共に「兵衛」が名に付いていたことから「秀吉の二兵衛」または「秀吉の両兵衛」と並び称されたのだから、両者はともに智謀に優れ、それを家中の誰しもが認めたのだろう。

 時代が飛ぶが、秀吉の家中は御世辞にも一枚岩とは云い難く、秀吉死後に家中の団結の無さを巧みに徳川家康に操られ、秀吉遺臣達は一致団結して秀頼を盛り立てるに至らなかった。
 秀吉死後に豊臣家中をまとめているとともに唯一人家康に比肩し得た前田利家が亡くなった途端に石田三成と仲の悪かった加藤清正・福島正則等の七将が三成を襲撃しており、これには官兵衛の息子・長政も加わっていた。
 勿論一代の傑物である秀吉は、「武断派VS文治派」、「尾張派VS近江派」、「北政所派VS淀殿派」といった対立が家中にあるのを充分承知していたことだろうし、生前自分がそれを完全に抑えられていなかったことを承知していたからこそ、外様である利家や家康に後事を託したのだろう。

 時代を戻すが、四年足らずの間とは云え、官兵衛半兵衛は押しも押されもせず秀吉の両腕として羽柴家中を一枚岩ならしめた。これには両者の才覚もあったのは勿論だが、同時に二人の息が合い、秀吉にとっての両腕・両翼・両輪に等しいコンビネーションを発揮すればこそだろう。
 もし両者が不仲であったり、妙な野心を抱いて相手に対してマウントを取ろうなどと考えたりしてていれば、半兵衛が長生きしたとしても豊臣家中に半兵衛派・官兵衛派というもう一つの対立の火種を為していたのではないかと思われる。

 最終的に天下を取り、栄耀栄華を極めた豊臣秀吉だったが、思うに秀吉にとって家中全体が最も団結し、互いを信頼し合っていたのは官兵衛半兵衛が両腕として家中を率いていたこの時期だったのではあるまいか?
 秀吉の生涯には織田信長、豊臣秀長と云った様々な人物の死が人生の転機となっているのが見て取れる。勿論重要人物の死がある人間の人生を左右するのは良くあることだが、半兵衛の死もその一つでありながら、四ヶ月後に官兵衛が復帰したことがその痛手を軽減させ、信長や秀長を亡くした時ほどの衝撃を表面化させなかったように思われてならない。



不滅の友情 前述したが、何かと対立の多かった羽柴秀吉麾下を黒田官兵衛竹中半兵衛がまとめ上げ、秀吉をして織田四天王の一人として柴田勝家や明智光秀に劣らぬ存在たらしめることが出来たのも、官兵衛半兵衛の息が合えばこそだったと思われる。
 勿論、官兵衛半兵衛も聡明な人物だから、両者の仲が悪かったとしても益なき対立や無駄な争いを展開したとは思えないが、腹の中で対立していればいつか豊臣家中を分断させた可能性は決して低くないと見る。

 前述したし、過去作『大恩忘れじ』でも取り上げたが、官兵衛が荒木村重の説得に失敗し、有岡城内の土牢に監禁された時、その詳細は織田方には一切伝わらなかったため、官兵衛は「消息不明」としか断じようがなく、「裏切った!」と思った者もいれば、「殺された!」と思った者もいたことだろう。
 そして最悪なことに総大将である織田信長が「裏切ったに違いない!」と思い込み、人質となっていた松寿丸(長政)の処刑を命じた。そんな一大事に半兵衛「主命に逆らう。」と云うリスクを冒して松寿丸を匿った

 勿論、半兵衛には様々な想定があったことだろう。
 官兵衛が生きていれば(実際生きていたのだが)、松寿丸処刑は取り返しのつかない事態を生む。仮に生きていなくても、官兵衛が織田家への忠節を尽くして殺されていたのなら松寿丸処刑はやはり間違った判断と云うことになるし、殿様と若様を一挙に失った黒田家中はどんなに秀吉に従ったとしても面従腹背を疑わなければならなくなる。
 とはいえ、天上天下唯我独尊タイプである信長の事、官兵衛の生死に関係なく、「松寿丸を斬れ!」という命令に従っていなかったことが発覚すれば秀吉家中に苛斂誅求を課す可能性は充分である(まあ、実際には官兵衛が生きていたことにおのれの間違いを認め、松寿丸を殺さなかったことも許したのだが)。

 そういったことを考えれば、半兵衛に如何なる計算があったとしても、半兵衛官兵衛への友情・好意・是認と云ったものが無ければ松寿丸を救うのは渡るのが躊躇われる危ない橋だったことだろう。

 官兵衛半兵衛の関係を想うとき、この松寿丸隠匿を想うといつも言葉が無い。
 官兵衛が有岡城に向かって行方を絶ってから、織田家中に官兵衛の状況が不明だったように、有無を云わさず土牢に監禁された官兵衛もまた黒田家中・羽柴家中で何が起きているか知る由も無かった。
 自分が行方不明となったことで息子の命が危機に曝されていたことも、それを半兵衛が救ってくれたことも、そして助けてくれた恩人・半兵衛が四ヶ月前に病没していたことも、すべては救出されて初めて知ったことだった。
 信長が横死を遂げた時でさえ、「君の運の開け給うとき」と云ってのけたり、自らの臨終に際しては家臣を口喧しく罵って自分の死後に家臣達が喜んで従うように仕向けたり、と誰かの死さええげつなく利用する官兵衛を薩摩守は幾度となく、「最も敵に回したくない男」と評してきた。
 だが、さしもの官兵衛もこのときばかりは半兵衛に対する感謝と、それを返せないまま逝かれてしまったことに半狂乱になって号泣したと云う(←だから、薩摩守は「恐ろしい男」でも、官兵衛は「好きな人物の一人」と思っている)。
 まあ、これに恩義や感謝を感じなければ人間ではないのだが(苦笑)、このことは官兵衛だけでなく松寿丸=長政もい痛い程感謝しており、後年関ヶ原の戦いにおいて長政は半兵衛の息子・竹中重門が当初西軍に付いていたのを東軍に味方させるのに尽力した。
 長政が多くの西軍諸将を徳川方に就かせるために尽力したのは有名だが、その多くは打算だった訳だが重門に対しては完全に打算抜きだった。
 結果、豊臣家中の諸将・諸大名が戦前戦中戦後とタイミングは違えど様々な局面で家康に従った。だが、臣従・降伏のタイミングを間違えた者は戦後に減封や改易の憂き目を見た者が少なくなかったし、大幅な加増を受けた者も「豊臣恩顧」と見られたものは東北・四国・中国・九州、といった(江戸や大坂から見て)遠隔地に封じられた。
 そんな中、重門は本領を安堵され、更には戦場となった関ヶ原が重門の領地だったことから、「迷惑料」までが家康から下賜された。この厚遇に「黒田家との交流や長政の尽力は関係ない!」と叫ぶ者がいれば、正気を疑われることだろう(笑)。

 松寿丸隠匿における「恩義」としての度合いが大き過ぎるので官兵衛半兵衛の間柄は「友情」よりも「報恩」の色合いが濃くなってしまうが、半兵衛が松寿丸を助けたのも、長政が重門への便宜を取り計らったのも、損得だけを考えればかなり危ない橋を渡っており、そこにはやはり戦国の世にも左右されない友情があり、それは代を重ねても続いたと薩摩守は考えるのである。



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令和四(2022)年一二月三一日 最終更新