第弐頁 羽柴秀吉&前田利家………身分の変遷を超えて

羽柴秀吉略歴 所謂、豊臣秀吉の事である。いつもの様に、超有名人物に付き、「略」(笑)。


前田利家略歴 天文七(1539)年一二月二五日、尾張海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の土豪・前田利春の四男として生まれた。幼名・犬千代

 天文二〇(1551)年頃に織田信長に小姓として仕え、翌年信長と清洲城主・織田信友との戦い(萱津の戦い)で初陣し、その後、元服して前田又左衞門利家と名乗った。
 信長に感化されたのか、元々派手好みで血気盛んだったためか、青年時代の利家は戦場を所狭しと大暴れし、「槍の又左」との異名を取った。
 永禄元(1558)年頃に新設された母衣衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の一つである赤母衣衆筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、一〇〇貫の加増を受けた(もう一つの黒母衣衆筆頭は佐々成政)が、その気性故に信長の寵臣・拾阿弥と諍いを起こして斬殺したことで一時は織田家を出奔する程の荒くれものだった。
 翌永禄三(1560)年の桶狭間の戦い、翌々年の永禄四(1561)年森部の戦いに(いずれも無断で)参戦し、いずれの戦場でも複数の首級を上げて帰参を果たした。

 この間、父・利春が死去し、家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄一二(1569)年に信長からの命令で突如利家は前田家の家督を継ぐこととなった(利久が病弱で、実子がいなかった為とも云われているが詳細不明)。
 以後信長に従って、各地を転戦。有名どころの戦いにはほぼ例外なく参戦し、天正二(1574)年には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆鎮圧を皮切りに北陸方面の従軍することが多くなった(北陸ばかりではなく、長篠の戦いや機内での様々な戦いにも従軍していた)。

 歴戦の功績もあって、天正九(1581)年信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり二三万石を領有する一端の大名となった。
 だが、勝家に従って上杉景勝討伐に従軍していた天正一〇(1582)年六月二日、本能寺の変で信長が横死。これを知った利家は柴田勝家とともに急ぎ戻らんとしたが、越中魚津城を攻略中であり、すぐには撤退出来ず、その間に羽柴秀吉によって光秀は討たれた。

 同年六月二七日、信長とその嫡男信忠を失った織田家の家督相続と遺領配分を巡って清洲会議が開催され、秀吉と勝家が対立。利家は勝家の与力であったが、同時に若き頃から秀吉とも親交があったことで板挟みに苦しんだ。
 結局、秀吉と勝家は軍事衝突に及び、天正一一(1583)年四月、賤ヶ岳の戦いが勃発。利家は約五〇〇〇の兵を率いて柴田軍に加わっていたが、戦わない内に戦線を放棄するような動きがあり、この動きには謎が多いが、この撤退が羽柴軍の勝利を決定づけた面は大きかった。
 その後、利家は越前府中城(現:福井県武生市)に籠るが、その後、府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国の内二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移した。

 天正一二(1584)年の小牧・長久手の戦いでも秀吉方として戦った。もっとも利家の戦場は北陸で、徳川家康に味方した佐々成政が加賀・能登に侵攻したのを受け、末森城でこれを防ぎ、八月に利家の先導を受けて秀吉が一〇万の大軍を率いて越中に攻め込むと、さしもの成政も降伏。秀吉から利家の嫡男・利長に越中の砺波・射水・婦負の三郡が加増され、前田家の石高は七六万五〇〇〇石に達した。

 その後も秀吉の天下統一に協力し、利長と共に各地を転戦し、天下統一の締めとなる小田原征伐に際しては奥州の伊達政宗に対して上洛を求める交渉役や、北国勢(上杉景勝・真田昌幸等)の総指揮、北条氏降伏後の奥羽の鎮圧に努めた。

 朝鮮出兵においては肥前名護屋にて秀吉を補佐しつつ、家康と共にその渡海を戒めた。そして文禄元(1592)年七月二二日に秀吉が母・大政所危篤の報を受けて急ぎ帰京した際には約三ヶ月間名護屋にて秀吉の代理を務めた。

 慶長三(1598)年、健康の衰えを痛感した利家は四月二〇日に利長に家督を譲り隠居。利家本人は完全に隠居するつもりだったが、利家同様かそれ以上に体の衰えを痛感していた秀吉がそれを許さなかった。
 湯治の為に赴いていた草津より戻ったところで利家は、五大老の一人、それも家康と並ぶ首座に命じられた。
 そして八月一八日に豊臣秀吉は薨去し、臨終時に秀頼の行く末を頼み込まれた利家は慶長四(1599)年元旦、伏見城にて秀頼傅役として病身を押して秀頼を抱いて着座し、諸大名からの年賀の礼を受けた。
 二月、家康が亡き秀吉の定めた法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めたのに対して利家は他の三大老(毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)。五奉行(浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)とともにこれを詰問。
 利家の余命が幾ばくも無いと見た家康はこの時点で前田家と事を構えることを得策とせず、婚儀の許可は届け出ていたが、手違いがあって届いていなかったようだ、と惚け、四大老・五奉行と誓紙を交換し、秀吉の遺命に逆らわないと誓い、利家と和解した。

だが、ここまでが限界で、同年閏三月三日大坂の自邸で病没した。前田利家享年六二歳。



共に過ごした時間 両者の「友情」を綴るのが主眼なので、豊臣秀吉を敢えて羽柴秀吉としているが、それは両者が同格・同僚としての交流が最も色濃かった時期を尊重したのもので、織田家中及び天下統一後の前田利家との関係は多種多様だが、それでも秀吉利家は友好関係を保ち続けた。

 両者の邂逅は当然織田家家臣としてのものだった。
 利家は尾張の土豪出身で、秀吉も農民の出ではあったが、尾張中村(現:名古屋市中村区)の出身で、秀吉が草履取りとして信長に仕え出した、まだ木下藤吉郎と名乗っていた頃から交流があった。
 低い身分ながら信長の傍近くに侍った藤吉郎と、親衛隊とも云える立場で、信長と肉体関係もあった(らしい)利家が知遇を得たのは必然で、清州城下での住居が近所だったこともあって、両者は家族ぐるみの付き合いを持った(秀吉の妻・おね(高台院)と利家の妻・まつは婚姻前から昵懇だった)。

 具体的には、利家とまつとの婚姻ではおねが仲人を務めた。利家とまつは従兄妹同士で、その婚姻はかなり幼少の頃から確定事項も同然だったのだがその仲人を託されたのだから、おね自身秀吉同等か、それ以上に前田家と昵懇だったことが伺える。
 また、まつが利家との間に二男九女を産んだのに対し、秀吉とおねとの間には子が出来ず(一度出来たが、夭折したとの説もある)、秀吉利家の四女・豪姫を養女に貰っている。
 豪姫の養女入りは彼女がまだ二歳にもならぬ内で、両者の間に深い夫婦ぐるみの交流なくしてはあり得ない話だった。実際、秀吉は(元々養子を可愛がる傾向が強かったが)豪姫を溺愛し、実の娘同然に育て、猶子(相続権の無い養子)であった宇喜多秀家に娶せている。
 秀吉の養子の中には、実子・秀頼の誕生後に対抗馬となることを恐れて冷遇される様になった者も少なくなかったが、秀家と豪姫は愛され続け、二人も良くその愛情に応えた。

 やがて秀吉は長浜城主・羽柴筑前守秀吉として城持ちの身分となり、利家は柴田勝家の副将的な立場で主に北陸方面での軍事に従事し、中国攻めを命じられた秀吉とは行動を異にするようになったが、本能寺の変賤ヶ岳の戦いを経て、両者は盟友に復した。
 直後、秀吉は関白・豊臣秀吉となったことで、利家は織田家中にて同格だった秀吉に使える身となったが、「身内・子飼い・長浜領主時代からの直臣」・「元同僚の織田家中」・「外様大名」といった毛色の異なる臣下を持つ様になった秀吉にとって、本来なら同格―人によっては元上司―でもあった織田家家臣を率いるのはなかなかに難しい問題だった。
 そんな中、利家と丹羽長秀が秀吉を支えたことは大きかった。秀吉ならずとも様々な毛色を持つ家臣を統べるには硬軟両面を織り交ぜ、時に飴を時に鞭を振るう必要があった訳で、中でも重視されたのが利家と徳川家康だったのは余人の言を待たないことだろう。

 小田原征伐の時点で利家と家康は共に大納言の官位についており、豊臣政権下においてもともに五大老に列した。残る三人は毛利輝元・宇喜田秀家・小早川隆景(隆景死後は上杉景勝)で、謂わば利家だけが旧知だった。
 臣従するようになった経緯や元の立場を考えれば家康も毛利も景勝も油断ならず、その五人の中に盟友・利家と猶子・秀家が義理の親子として他の三人に睨みを利かせてくれたのは秀吉としても心強かったことだろう。

 天正一九(1591)年、秀吉の異父弟・豊臣秀長の死を皮切りに秀吉は徐々に暴走する様になり、実の甥にして養子で関白の座を譲った豊臣秀次や、文化と政治で彼を支えた千利休を死に追いやり、朝鮮出兵に及んだが、それでも利家との友誼は変わらず、肥前名護屋でも家康と共に近侍させた。
 そして慶長三(1598)年に臨終を迎えた秀吉が、諸大名にみっともない程に涙を流しながら秀頼の行く末を懇願したのは有名だが、特に強く頼み込んだのが家康と利家だった。そしてその遺言に従って家康が政務を、利家は秀頼の傅役となった。



不滅の友情 豊臣秀吉はその智謀(だけではないのだが)をもって織田家中で頭角を現し、信長存命中に城持ち大名となり、中国征伐の総大将に任じられるまでに至った。信長横死後の天下取りは別格にしても、草履取りから織田家の重臣に至った段階で、相当な立身出世を遂げていた。
 かかる出世は多くの人間の尊敬を集めるが、時としてそれ以上の妬みも招く。勿論妬み一辺倒ですべての行動が決まるほど人間は単純ではないのだが、柴田勝家などは仲良く出来なかった筆頭だろう。そんな秀吉と勝家双方と仲が良かった前田利家はかなり稀有な存在だったと云える。
 そして立場を変われど、秀吉と昵懇で在り続けたこともまた稀有で、その様な関係にあったのは利家以外には皆無であった。

 秀吉利家が知り合ってから死に別れるまでの時間は約四〇年に及び、その間の友誼を詳細に書けばそれだけで一つのサイトになりかねないので、薩摩守的に注目したい場面を二つほど上げたい。

 一つは賤ヶ岳の戦い直後で、利家が柴田勝家と袂を分かち、秀吉についた時の事である。織田軍の北陸方面侵攻軍の総司令的な立場にあった勝家と、佐々成政と共にその副将格にあった利家は軍事上の重要な仲間同士だった。
 ただでさえ命を懸けて戦うのに軍隊内の団結は欠かせない、まして北陸方面の対戦相手は強敵・上杉や加賀一向一揆だった。実際、勝家の指揮下にあった秀吉は軍議の席で勝家に反発して独断で戦線離脱すると云うとんでも行為をしたことがあり、この時は秀吉も信長から厳罰を受けることを覚悟したと伝わっている。
 そんな中、利家は勝家と行動を共にし続けた訳で、軍務上は秀吉よりも勝家との繋がりの方が強かったと見て良いだろう。

 それ故、賤ヶ岳の戦いに前後する利家の行動は、勝家側から見れば裏切りに等しい行為だった。利家は賤ケ岳で後詰を行わなかったばかりか、実にあっさり秀吉に降伏し、勝家の居城である北ノ庄城攻めの先鋒まで担った。歴史に「if」をを云い出せばキリがないが、信長家中で最強の猛将とも云われた柴田勝家があっさり滅びたことに対する利家の影響は小さくないだろう。
 だだ、史実とは断定出来ないが『賤岳合戦記』によると、賤ケ岳から北ノ庄城へ逃れる途中勝家は越前府中城に籠る利家を訪ね、これまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話がある。

 普通に考えるとこの話は出来過ぎである。

 勝家の立場に立てば、利家は極めて重要な戦機で勝家を裏切っているに等しい。そんな勝家が訪ねて来たからと云って利家が城門を空けたとは考え難い。
 下手に城門を空ければ気性の激しい勝家の事、即座の報復に出る可能性は充分にあっただろう。同時に、勝家にしても自分を裏切った利家を訪ねれば饗応を受けて油断しているところで首を取られる可能性だってあったことだろう。
 それを考えると勝家が利家を訪ねたのも変なら、利家が勝家を招き入れたのも変だし、両者が遺恨を全く持たずに名残を惜しんだのも変に映る。

 故に薩摩守はこの話を史実と受け止めていないのだが、「全くの作り話」・「全くあり得ない話」とも思ってはいない。そもそも「出来過ぎた話」程、「そういうことがあってもおかしくない素地が実在した。」と思ってもいるので、頭からはねのけることは慎んでいる。
 「略歴」に書いたように、利家利家で武勇一辺倒ではなかっただけで、信長・勝家・成政並みに気性の激しい人物だったので、勝家とは馬が合ったのだろう。一方で、家族ぐるみの交流があった秀吉とも馬が合ったのだろう。
 清洲会議から北ノ庄攻めにおける柴田勝家滅亡の時まで、秀吉と勝家の争いに誰よりも利家が心を痛めたであろうことは想像に難くない。そんな利家に対して、男気溢れる勝家がその立場を慮り、利家秀吉との友誼を重んじたことに理解を示したと云うことは可能性としては有り得る話だとも思う。

 もう一つの友情を巡る場面は秀吉死後の事である。
 周知の通り、利家秀吉薨去から半年チョットで後を追うように世を去った。徳川家康が遺命違反を四大老・五奉行から詰問された折にあっさりと矛先を引っ込めたのも、余命幾ばくもない利家の死を待った方が得策と思ったからで、当然そのことは利家自身も自覚していたことだろう。
 それ故利家は息子・利長に三年間は加賀に帰らず秀頼を傍近くで補佐するよう遺言し、見舞いに訪れた家康に対しては息子達の行く末を託していた。

 後世に生きる我々は、利長が遺言を守らず、家康に叛意ありとして攻められかけ、芳松院(まつ)が人質として江戸に下向することで窮地を脱し、利常(利長異母弟)が徳川家から珠姫(秀忠次女)を正室に迎えるなどして、前田家は加賀百二〇万石という全大名中最大の石高を誇る大大名として存続したと云う結果を知っている。
 だが、あくまで結果であって、利長が利家の遺言を堅守していたり、或いは家康に対して徹底抗戦したりしていれば歴史はどう転んだか誰にも分からない。可能性で云えば家康が勝ったと思われるが、一〇〇万石を超える前田家が死力を尽くして抵抗すれば徳川方も大きく損耗していたことだろう。そうなると毛利や上杉や島津や黒田がどう動いたかということまで考えると本当に歴史は偶然の積み重ねであることを思い知らされる。

 ともあれ、利家没後の前田家は家康と争わず、天下は取れなかったが大大名としての立場を保った。利家の見立ては正しかった訳だが、一方で利長に秀頼の元を離れないことを命じ、一方で家康に前田家の後事を託していた訳だから、利家にしてみれば、「前田家を確実に存続させることを考えれば利長を家康と争わせたくないが、豊臣家を見捨てたくない。」と云う心境だったことだろう。
 つまり現実を見れば徳川に従うべきで、実際にそうなった訳だが、その一方で豊臣家の行く末を案じていた訳だから、やはり秀吉利家には損得を超えた友情が存在し続けたと思われる次第である。


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令和五(2023)年一月二日 最終更新