Last File 不肖の息子から亡父へ

最終考察T 昭和・平成・令和……立ち位置の変遷
 第1頁から第8頁まで、主人公である仮面ライダーに変身する人物の父親達をクローズアップしてきた。閲覧者の方々の中には、「何故『仮面ライダーリバイス』五十嵐元太(戸次重幸)を採り上げていないんだ?」と疑問に思い、中には憤りを感じている方々もおられることと思う。
 念の為に補足しておくと、決して五十嵐元太を軽視した訳ではない。それどころか元太程の存在になると「主人公の身内」と云う範疇に収まり切らず、「父親」と云う側面だけで語るのは不適切と思われたからである。何せ、長男一輝(前田健太郎)・次男大二(日向亘)・長女さくら(井本彩花)と子供全員が仮面ライダーとなり、本作終了後も本人を主人公としたスピンオフ作品が生まれたり、劇場版作品で三男・幸四郎が生まれたりしているから、五十嵐元太及び五十嵐ファミリーの奥深さはまだまだ拡大しそうで令和5(2023)年10月20日現在の時点では下手に触れられないのである(苦笑)。

 ただ、昭和・平成・令和核時代の作品を振り返って、思うのだが、仮面ライダーとなったヒーローの父親は時代を経るごとに間違いなくその出番と存在感を増したと感じている。
 というか、昭和時代は仮面ライダーに限らず、ヒーロー番組において主人公の「親」の存在が色濃いことは稀だった。「既に死亡」の一言で片付けられ、作中に存在感もなく、影響もない存在が珍しくなかった。
 『仮面ライダーV3』『仮面ライダーX』では冒頭に登場した者のすぐに殺されてしまったし、『仮面ライダーBLACK』では主人公が生まれすぐに、ゴルゴムに暗殺されており、『仮面ライダーストロンガー』『仮面ライダースーパー1』に至っては実の親が如何なるものだったのか遂に分からなかった(城茂(荒木しげる)と沖一也(高杉俊价)は捨て子だった)。
 『仮面ライダー(スカイライダー)』は例外中の例外と云えよう。

 これは思うに、「悪の組織と戦う者は、本人のみならずその家族も危険に曝される。」という状況想定が働いたからではなかろうか?

『ブラックエンジェルズ』と云う漫画の一コマに以下のシーンがある。

 雪藤洋士「巨大な組織を敵にまわしたときどれほどの地獄をみるか…その本当のこわさを あんたたちはまだしらない…自分の命だけじゃない…肉親の命さえも危険にさらされる…その覚悟があるのですか」

 これは主人公が悪の組織(表向きは関東を壊滅さえる大地震後に発足した新政府)を敵に回し、なし崩し的に行動を共にしていた牙亮・飛鳥を前にした台詞である。

 牙は天涯孤独の身だったが、飛鳥には勘当を食らったとはいえ、家族がいた。雪藤の言葉に不安を覚え、両親の身を案じて実家に駆け付けた飛鳥が見たのは、血塗れの惨殺体と化していた両親と妹だった(妹は見た目の推定でまだ女子高生になるかならないかの年頃だった)。


 目的の為に手段を択ばない悪の組織は主人公の大切な人々を人質に取るという卑怯な振る舞いを何度も行った。相手の抵抗を封じるのに人質、それも相手の大切な肉親や恩人は格好のターゲットで、主人公は悪の組織壊滅まで家族の身を案じ続けなければならない。『仮面ライダーV3』で当初風見志郎が珠純子(小野ひずる)に対して邪険にしていたのも、純子が巻き添えを食うことを懸念すればこそだった。
 実際、昭和ライダーの作中に登場した主人公の親はタイミングの違いはあれど全員が命を落とした。そんな過去の例から、平成12(2000)年に『仮面ライダークウガ』が始まり、主人公五代雄介(オダギリジョー)の両親は既に故人の設定だったが、妹の五代みのり(葵若菜)がレギュラー出演していたことに対し、「どこかでみのりは殺されてしまうのでは………。」と最終回までやきもきしていた

 だが、時代の流れか、頭から両親が登場しない設定でなければ「主人公の親」がそれなりに幅を利かす様になった。まあ考えてみれば分からない話ではない。性格や生き様は個々に異なれど、主人公として仮面ライダーとなる者は多かれ少なかれ一風変わっている。ライダー作品も30作を超えているから、主人公が個性的になるのは代を重ねれば重ねるほど必然であるから、そんな主人公の人格形成に大きな影響を与えた親が軽視されるのも変だし、どいつもこいつもが「天涯孤独」なのも変だろう。
 勿論主人公自体がその出自が詳らかでない者もいるから、親が全く触れられないケースもある。ただ、仮面ライダーが昭和ほど孤独な存在ではなくなったことで、家族の出て来る幅は増え、両親が出て来ない作品でも姉や妹が出る作品は多い(逆に兄や弟が出てくる作品は少ないが)。

 上述した様に『仮面ライダーリバイス』では主人公は一家で戦い続けた。現在放映中の『仮面ライダーガッチャード』では主人公・一ノ瀬宝太郎(本島純政)の母親・一ノ瀬珠美(南野陽子)が食堂を経営しつつ、作中の出来事には直に関わらずとも息子を温かく見回り、息子に絡む人物を温かく迎え、肝っ玉母さん振りで宝太郎の心の支えを演じる一方で、父親は冒険家と云う設定で第7話時点では名前さえ出ていないが、冒険家と云う特殊性から出て来ないままと云うことは無いと思われ、どんな父親ぶりを発揮するかが楽しみである。

 こうして振り返ってみると、ヒーローの親が経たされた立場は重んじられるとともに多様性を増したとも思われる。まあ昭和時代の様に息子の目の前で殺されるシーンが描かれて欲しくはないのだが。



最終考察U 「親」ならぬ「親的存在」
 「おぎゃあ!」と産声を上げて生まれてきた赤ん坊は極めて無力な存在である。誰かが母乳を初めとする糧を与え、誰かが衣服を着せ、誰かが安眠できる場所を提供しないと忽ちその命を落とす。
 そう、ある程度の年齢まで成長した上は、少なくとも「育ての親」が存在しないものは存在しない。

 「育ての親」と云う言葉が出て来たのは『仮面ライダーストロンガー』の最終回である。

 マシーン大元帥「見たか7人のライダーども! デルザー軍団はいまだ滅びずだ!まだ人質をとってあるのを忘れるな。」
 ヨロイ騎士「うぬらの育ての親だ。」

 このようなサイトを閲覧される方には説明不要だと思うが、勿論立花藤兵衛(小林昭二)のことである。

 そして『仮面ライダースーパー1』の主人公・沖一也が惑星開発用改造人間への手術を受ける間際に、国際宇宙開発研究所の所長で、一也の育ての親でもあったヘンリー博士(大月ウルフ)は、一也が自分を育ててくれた恩義から、我が身を犠牲にしようとしているのではないか?と懸念していた。
 一也は赤ん坊の砌に研究所の前に捨てられていたが、彼にはヘンリー博士以外にも玄海老師(幸田宗丸)と云った育ての親もいて、作中それらの人々を殺害されてしまったが、後日譚となる『新仮面ライダーSPIRITS』ではバダンシンドロームに罹患して変身不能になり、玄海老師と弁慶(西山健司)の幻影を見た一也を案じる谷源次郎(塚本信夫)とチョロ(佐藤輝昭)に対して、「今 俺の師はあなたであり、友は チョロ お前なのだから。」と述べていた。

 こうして見ると、如何に天涯孤独の身になったとしても、血縁者だけを見るのではなく、一個人が生物として生存し、一人の人間として人格を形成してきた過程には必ず親の役割を果たす者が存在することが良く分かる。
 乳飲み子の時分に飛行機事故で南米のジャングルに放り出され、野生児として生きたアマゾン(岡崎徹)にさえ、長老バゴー(明石潮)という存在がいて、誰一人知る者のいない日本でも高坂教授(北原義郎)が殺された時には怒りと悲しみを露わにし、後には藤兵衛が育ての親となった。

 現実の世界に生きる我々も、自分と云う人間を振り返り、その人格を見つめ直す際には自分を育ててくれた親(あるいは親代わりとなった人物)と向かい合うことが時に大切であろう。



最終考察V 亡父へ

 以下の文章は、本作品の制作を通じて、改めて「父親」と云う存在を考察したシルバータイタンが亡父に捧げ、贈るものです。
 つまり閲覧者の方々には何の関係もない、自己満足の文章です。シルバータイタンの作った作品に興味はあっても、シルバータイタンに興味のない人が見る必要はありません。
 また、シルバータイタンは身内に拙サイトの存在を一切知らせていないので、亡父は勿論、母や妹が見ることもありませんし、妻子に至っては令和5年10月20日時点で存在していません(泣笑)。
 誰も読むことのない文章かも知れませんが、亡父への想いを何らかの形で残したくて身勝手に綴っています。「親」や「家族」と云うものを考察する参考になるようでしたら閲覧していただくことに意味があるかも知れませんが、改めて極めて個人的な駄文であることを明言しておきます。

亡き父上へ。
 平成26(2014)年12月11日の小雨降りしきる朝、貴方は妻と私を含む一男二女、そして二人の孫と二人の義理の息子を残し、この世を去りました。

 心肺停止状態で救急車にて病院に搬送され、蘇生措置が取られ、二度蘇生しましたが、既に体は自力で生命活動を行えない状態にあり、最期には三度目の蘇生措置が見送られたことで私と母と娘と義理の弟と義理の姪が見守る中で臨終が告げられました。享年69歳で、6人いた兄弟の中でまさか四男である貴方が最初にこの世を去るとは思ってもいませんでした。

 体躯に恵まれずとも身体能力に優れ、家庭事情から学歴を身につけることが出来ずとも、一生懸命に働き、息子である私に対して教育に相当金を掛け、大卒の学歴と持ち家と自家用車を残してくれました。
 「70まで働いたら、後は好きなことをする。」と云っていた矢先に体が自力で動かせなくなり、70歳まであと半年足らず、と云った年齢で逝かなければならなかったことは無念だったと思います。

 何より、不肖の息子である私はせっかく高学歴を授けられながら就いた職で出世することもなく、転職を繰り返し、世に名を成すでもなく、妻子さえ持たずに、孫の顔を見せることもなく貴方に逝かれました。
 あれからまもなく9年の歳月が過ぎようとしています。母は数々の体調不良を訴えながらもまだそれなりに元気ではありますが、私は五十路を迎えて尚、独り者で出世もしていません。

 貴方は幼少の頃から身体能力で常人に大幅に劣る息子を育てていく中、体を動かすことで人に勝てない息子に対して勉学で人の上に立つことを命じ、心底息子の無難な人生を望み、時として私の望みや可能性を次々否定する言葉を口にし、時に私はそれに反発し、その言に従わぬこともしばしばありました。
 そんな貴方の身体能力や人望を息子である私は丸で受け継がず、告別式にて最後の別れの際に、「心残りが沢山あるだろうから、いつでも化けて出てくれ。」と私は告げましたが、夢で数回再会しただけでした。

 能力と云い、人格と云い、私は貴方にとって本当に不肖の息子です。
 今のままの私が天寿を全うして、あの世で再会する折には、情けない生涯を責め、平手の二、三発も打たれる事でしょう。
 不肖の息子は貴方に教え育てられたことを軽んじてはいませんが、何から何まで忠実でもありません。それでも貴方に育てられたこと、貴方に教え導かれたことを人生における大切なことと捉える故に、親と云う存在をかかるサイトでも考察しています。
 恐らく今ここに貴方がいれば、親の身にもなっていないのに、親を語ることを詮無きことと罵るでしょう。それでも私は現実であれ、フィクションであれ、過去・現在・未来を通じて親子・兄弟・一族の絆を重んじ、日々考察しています。

 私は貴方に似ず、身体能力で人に劣り、人望もなく、酒にも弱い、「親に似ぬ子は鬼子」を地で良く不肖の息子です。ただあなたに似たところも所々在り、その一つに「諦めの悪さ」があります。
 私は世に名を為せていないことを恥じていますが、それはそれが私の生涯の野望の一つだからです。自信も根拠もありませんが、私は今自分が為せていないことを諦めてはいません。
 五十路を超えた私も恐らくは今の年齢と同じ時間が過ぎる前にはこの世を去り、貴方との再会の時を迎えると思います。
 その時も不肖の息子であるか、否かを、断じて頂きたく存じます。今は出世どころか職の存続すら覚束ない三流サラリーマンですが、それでも大望を捨てたことはありません。
 少なくとも、真剣に生きています。結果は分からずとも、この世を去るその時まで悪足掻きを続けます。
 丸で自慢にならない決意表明と呼ぶもおこがましい駄文ですが、不肖の息子はそれでも生前の貴方から与えられた愛情を感謝し、それを重んじ続けることを宣しつつ、この作品を貴方に捧げたく存じます。

令和5(2023)年10月20日
亡父昭へ
特撮房シルバータイタン



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令和五(2023)年一〇月二〇日 最終更新