第壱頁 羽柴秀勝(真の秀吉長子)



羽柴秀勝(はしばひでかつ)
生没年元亀元(1570)年〜天正四(1576)年一〇月一四日
実父木下藤吉郎秀吉
縁組前の秀吉との関係始めから秀吉の子
略歴 豊臣秀吉がまだ羽柴姓も名乗らぬ木下藤吉郎の時代、姉川の戦いの年に側室・南殿(淀殿に次ぐ寵愛を得た松の丸殿が生母との説もあるが、年齢的に少し考えにくい)との間に生まれた。幼名は石松丸

 竹生島奉加帳と長浜妙法寺の秀勝廟以外に記録らしい記録も残らず、謎が多い。
 木下藤吉郎が織田信長より浅井長政の旧領・近江長浜を与えられ、羽柴筑前守秀吉となった三年後の天正四(1576)年一〇月一四日に夭折。享年七歳。法名は本光院朝覚居士

 当時の成人(正確にはその儀式である元服とそれに伴う成人としての扱い)が今より格段に早いとはいえ、七歳で元服したとは考え難い。後年豊臣秀頼は五歳で元服しているが、これは既に太閤になった秀吉の臨終間際と云う例外的ケースと云えるだろう。
 ともあれ、秀勝の名は死後に送られた可能性が高く、生前は一貫して石松丸と呼ばれたと考えるのが妥当と薩摩守は見る。


歴史的存在感 羽柴秀勝こと石松丸の歴史的存在感は薄い様で薄くない様でもあり、濃い様で濃くない様でもある。
 そもそも戦国時代史上、否、日本史上の超有名人物豊臣秀吉の長子にしては生母・生年・生い立ち等に諸説紛紛で秀吉を主人公にしたドラマ・伝記・漫画でさえその名が登場しない事が珍しくない。

 ひどい時には実在さえ疑われるが、いくら長浜城主時以前の秀吉が妻・ねねに浮気を睨まれていた(信長に愚痴った書状が実在する)とはいえ、この時代側室を迎えることは侍大将クラスでは珍しいことではない。
 不義密通や場の勢いで出来てしまった子供が認知されるのは現在でも起こり得る事であるから、墓や文献が残っている事からも実在まで疑うのは暴論だろう。

 秀勝の歴史的意義の最たるものは、後々秀吉が二人の養子(信長四男・於次丸と姉の子・小吉)に「秀勝」の名を与えた点に尽きる。
 学ぶ立場から云えば「ややこしい事しやがって…。」とぼやきたくなるが(苦笑)、子煩悩男・秀吉の原点は紛れもなくこの秀勝にあったと云って良い。
 勿論、数多くの養子・猶子を迎えた秀吉のこと、全員に「秀勝」を名乗らせた訳ではなく(同時点で養子が何人もいた時の方が長い)、多くは秀吉の「秀」に実父の偏諱とを足したケースが多いのだが、それ故に「秀勝」の名に秀吉の最初の子であり、彼の子煩悩に拍車を掛けた重みというものが見て取れる。


秀吉の溺愛 秀吉秀勝を溺愛した証拠となる秀勝生前の文献は見当たらない。
 これは、秀勝夭折時点での秀吉の身分が(大勢力とはいえ)一大名である織田信長の(城持ちとはいえ、)一部将に過ぎなかった為、身分的に残された文献が少ないからであろう。
 少し考えるだけでも秀吉秀勝を溺愛した事は想像に難くない。

 時代による価値観の相違があるとはいえ、夭折した子の名を新たな子に名乗らせるとは、普通なら「縁起が悪い。」と云いたくなる(皮肉にも後年二人の秀勝も夭折している)。
 それを敢えて二人の養子に名乗らせたのだから相当な執着である。そしてその執着を呼ぶ要因は溺愛以外には考えられない。

 かつて道場主がNHKの大河ドラマで聴いたナレーションを参考にするなら、徳川吉宗の時代(一七〇〇年代前半)で乳幼児の死亡率は六割もあった。
 最初の子に夭折された例は枚挙に暇がない。つまり秀吉同様の初子の不幸はいくらでもあるであろう中で秀吉のみが初子の名に執着し続けたのは紛れもなく秀吉固有の性格である。

 悪い見方をすれば「異常な執着」だが、身内同士で殺し合う事が珍しくなく、我が子に取って代わられる事を警戒して愛情をなくした父親も多くいたこの時代にあって、秀吉の溺愛振りは一個人として好ましい事として薩摩守は見たいと思う。
 同時に、一人の父にそこまで愛されれば不幸にして夭折した秀勝の魂も幾分かは浮かばれると思いたいものである。



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新