第弐頁 羽柴秀勝(織田信長四男)



羽柴秀勝(はしばひでかつ)
生没年永禄一一(1568)年〜 天正一三(1586)年一二月一〇日
実父織田信長
縁組前の秀吉との関係主君の子
略歴 織田信長の四男に生まれ、幼名は於次丸(おつぎまる)と云い、天正七(1579)年頃に、子の無かった羽柴秀吉の養子となった。

 信長の子は次男・信雄が北畠具教(きたはたけとものり)に、三男・信孝は神戸具盛(かんべとももり)に、五男・勝長は武田信玄に養子入りしていた。
 信長の子に限らず、次男以下の養子入り自体は珍しい話ではない。だが、信雄・信孝が北畠家・神戸家乗っ取りを目的とした養子入りで、勝長が岩村城落城に伴なう人質としての養子入りだったのに対し、秀勝の場合は父親の部下の元に養子入りした意味において他の兄弟達とは対照的であった。

 天正(1582)年六月二日に、実父・信長、実兄・信忠、実弟・勝長が本能寺の変で横死すると、養父・秀吉とともに天王山の戦いに挑み、父と兄弟の仇を討った。
 同年九月一二日に秀吉とともに故信長の百ヶ日忌法会を主催した。
 この法会に先立つ六月二七日に開催された清洲会議信長の後継者と遺領配分を議決)にて信長の後継は嫡孫・三法師(信長嫡男・信忠の嫡男で、後の秀信)に決められており、柴田勝家が信孝を推したのに対し、秀吉秀勝が我が子であることを強調し、会議前に既に信長後継候補に推さないことを宣言していた。
 そしてそんな立場でしかない筈の秀勝が法会を主催する事に納得出来ない、それ以上に秀吉が裏で糸引いて取り仕切る事を嫌い抜いた柴田勝家とお市(信長妹・浅井長政未亡人)は法会を欠席した。

 「信長の四男」としての名分を弔い合戦に、葬儀にて政治的に養父・秀吉に最大限利用された形になった秀勝清洲会議で決められた丹波亀山城(明智光秀旧領)という京都に近い要地を与えられたが、病弱が災いしてしばしば病床につく日々を送った。
 そしてこれと云った目立った動きを見せないまま、小牧・長久手の戦い後の秀吉−家康の間に鬱々たる空気の流れる中、天正一三(1585)年一二月一〇日、享年一八歳で病のために薨去した。最終官位は従三位中納言だった。
 秀吉の豊臣姓下賜はその丁度一年後の事なので、秀勝は織田姓→羽柴姓→藤原姓を辿りはしたが、豊臣の姓を知らずに世を去っており、「豊臣秀勝」と云えばこの頁の秀勝ではなく、第伍頁の秀勝である事が自ずと見分けられる。


歴史的存在感 嫌な見方をすれば羽柴秀勝の一生は羽柴秀吉が、織田家中における勢力拡大を図って織田信長に頼み込んで始まった養父都合の生涯とも取れる。
 もっとも、それは結果論で、秀勝の養子行きにしてもいまいち信長サイドのメリットが見えない。

 子のない秀吉に恩と縁で君臣の結び付きを強めるメリットが見えない訳ではないが、いざとなると情など簡単に(と云うと語弊があるが)斬り捨てる信長の性格を考えると決定的な拠り所にはなり難い。
 故に秀勝の存在意義にはどうしても秀吉の政治的意図が目立ってしまう。

 歴史に禁物の「if」を敢えて論じるなら、秀勝信長の継嗣に立てられていれば、秀吉は藤原道長や平清盛のように外祖父的存在として大義と権力を得て、黒幕的に織田政権の実質的後継者となる道も充分に有り得た。
 だが、前述した様に清洲会議直前に秀吉秀勝信長後継を否定しており、秀勝の死の五ヶ月前に自らの才覚と戦績で関白の座を掴んでいた。
 となると織田家出身の名分は秀吉にとってこれといった武器としての機能を要していなかった事が分かる。
 秀吉が実権だけでなく、黒幕宰相的に信長の後継者として秀勝を立てていれば秀勝の歴史的存在感も大いに異なった展開を見せていただろう。
 秀勝の夭折を見ると、息災で長生きすることも歴史上の存在意義に大きく影響する重要ファクターである事が改めて良く分かる。


秀吉の溺愛 信長の四男であったことをさんざっぱら利用された感のある羽柴秀勝だったが、子煩悩男秀吉秀勝を可愛がらなかった訳ではない。
 そもそも秀吉於次丸に「秀勝」の名を与えたのも、長浜領主時代に夭折した実子同様に可愛がらん、との意志の表れで、秀吉は三人の子に「秀勝」を名乗らせている。
 最初の実子に対する執念にも似た愛があり、それを於次丸に注いで生まれ得た羽柴秀勝である事がうかがえる。

 秀吉秀勝を我が子として慈しんでいた証拠は清洲会議にも見られる。
 主君の仇・明智光秀追討を果たした功績をもって会議の発言権を得た秀吉が、柴田勝家が信孝を後継者に推したのを退けて三法師を信長後継者とすることに成功したのは前述した通りである。  この直前、信孝もまた秀吉軍に合流して仇討ちに貢献した功績でもって信長後継者に推されたことを考えれば、秀吉秀勝を押すことは充分に可能だった(「父・信長の仇討ちを果たした。」という行動には秀勝も加わっていた)。
 だが、これも前述した様に、秀吉清州会議前に既に秀勝の君位継承権放棄を宣言していた。
 まだ三歳の三法師の方が御し易く、露骨に秀勝を推せば徒に織田家中に政敵を生むことを計算した上での宣言であった可能性は充分だが、秀勝をいつまでも我が子としておきたかったと云う気持ちが秀吉にあった可能性を考えれば、秀勝の継承権放棄発言はあながち建て前ばかりではなかったと薩摩守は見る。
 主君から譲り受けた養子でも「最大限に利用する貪欲さ」と、「目先の権力より我が子として迎えた日々を大事にする愛情」とを矛盾なく持つ男、それが羽柴秀吉という男である。



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新