秀吉の子供達

 豊臣秀吉……彼は道場主が最初にその伝記を読んだ戦国武将である。
 かれこれ三〇年以上昔の話になり、今思えば『絵本太閤記』の影響を受けた伝を鵜呑みにしたところも多く、当初抱いていた秀吉のイメージは時を重ね、様々な書物を読む中で少しずつ修正されていった。それは今後も続くだろう(それが本当に正しいかどうかは断言出来ないが)。

 だが変わらないイメージも多い。
 豊臣秀吉は日本史上最も出世に成功した男で、知恵者であり、人たらしの名人であるとのイメージは些かも衰えていない。
 そして秀吉の変わり得ぬイメージの一つに「子煩悩」である事がある。
 死の直前の秀吉が五大老を初めとする諸大名にみっともないほど必死に秀頼の行く末を懇願する姿は然程戦国史に詳しくない人でも充分に知っている有名な場面だろう。

 勿論、貧賤の身から体と知力と数名の身内の力のみを元手に成り上がり(←褒めているのだ)、源頼朝の木像を前に「天下友達」とのたまった秀吉が只者である筈がなく、必要とあらば女・子供・身内に対しても非情になり切れる男でもあった。
 だが、永く実子というものに恵まれなかった秀吉は基本的には血の繋がりに関係なく、「我が子」となった者達を溺愛した。
 親・兄弟・子孫・側近にさえ心許せず、それなり世に名を為した戦国大名の大半は身内を手にかけたり、不遇な死に追いやったり、そこまでしなくても何人もいる子供に無関心だったり、人質になっているのを見殺し(実際に殺されるかどうかは別として)にしたりする中で、全くの例外とは云えないにしても秀吉は身内−特に子供を大切にした男であった。


 平和な現代にあってさえ、「遠くの身内より近くの他人」、「兄弟は他人の始まり」と囁かれ、身内を手にかける凶悪犯罪、時には「身内を困らせたくて…。」と云う犠牲者には極めて理不尽な理由で行われる犯罪が頻々と起こる状況には心悼むものがある。
 特に親の再婚相手に幼児が虐待される事件には「貴様等、秀吉の爪の垢を煎じて飲め!!」と云いたくなる。

 だからこそ秀吉の子煩悩性には多少(ケースによってはかなりの)の行き過ぎや、「可愛さ余って憎さ百倍」になった時の恐ろしさがあるものの、身内にも油断のならない戦国時代にあって一服の清涼剤的なものを感じるし、様々な意味において考えさせられるものが存在する。
 彼が継父の竹阿弥と折り合いが悪く、家出同然に実家を出奔しながらも母並びに異父弟妹を可愛がった事実もそれに拍車をかけているだろう。

 本作では、豊臣秀吉の養子・実子達に注目し、その子煩悩性とそこに潜む人間の在り様並びに時代背景に注目したい。


参考−主な戦国大名の骨肉の争い状況
織田信長……実弟・信行を殺害(一度は許している事に注意)。
徳川家康……正室・築山殿を殺害し、嫡男・信康を切腹させた。
武田信玄……父・信虎を国外追放。
上杉謙信……姉婿・長尾政景(景勝の実父)の水死に関わった疑惑がある。
伊達政宗……同母弟・竺丸を自ら斬り、母・保春院を追放(後に和解して迎え入れている)。
毛利元就……甥(兄・興元の嫡男)・幸松丸の夭折と弟・相合元綱の死に疑惑あり。


秀吉の子供達
 第壱頁 羽柴秀勝(真の秀吉長子)
 第弐頁 羽柴秀勝(織田信長四男)
 第参頁 豪姫(前田利家四女)
 第肆頁 宇喜多秀家(宇喜多直家嫡男)
 第伍頁 豊臣秀勝(秀吉の姉とも次男)
 第陸頁 小早川秀秋(秀吉の正室おね(高台院)の甥)
 第漆頁 結城秀康(徳川家康の次男)
 第捌頁 八条宮智仁親王(誠仁親王第六皇子)
 第玖頁 豊臣鶴松(秀吉嫡男)
 第拾頁 豊臣秀次(秀吉の姉とも嫡男)
 第拾壱頁 豊臣秀頼(秀吉次男)
 第拾弐頁 子煩悩男の死後と子供達



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令和三(2021)年五月一九日 最終更新