第拾弐頁 子煩悩男の死後と子供達
まずは豊臣秀吉とその子供達の今生の別れについてまとめた。
年月日 父子の死別と養子達の死去 没年齢 天正四(1576)年一〇月一四日 羽柴秀勝(石松丸)夭折 享年七 天正一三(1586)年一二月一〇日 羽柴秀勝(於次丸)逝去 享年一九 天正一九(1591)八月五日 豊臣鶴松夭折 享年三 文禄元(1592)年九月九日 豊臣秀勝(小吉)陣没 享年二四 文禄四(1595)年七月一五日 豊臣秀次切腹 享年二八 慶長三(1598)年八月一八日 豊臣秀吉薨去 享年六三 慶長七(1602)年一〇月一八日 小早川秀詮怪死 享年二一 慶長一二(1607)年閏四月八日 松平秀康逝去 享年三四 慶長二〇(1615)年五月八日 豊臣秀頼切腹 享年二三 寛永六(1629)年四月七日 八条宮智仁親王薨去 享年五一 寛永一一(1634)年五月二三日 宇喜多豪 享年六一 明暦元(1655)年一一月二〇日 宇喜多秀家逝去 享年八三 ※姓名は死亡当時のもので表記
実に秀吉は二人の実子と二人の養子に先立たれ、一人を自らの手で死に追いやり、自らの死後とは云え、二人の養子が若死にし、唯一人の実子が盟友によってその母(つまり自分にとっての妻)とともに自害に追い込まれ、一人が流刑者として最果ての地に没し、一人は夫・息子との生き別れの中で寂しく没し、ごく普通に往生した者は一人しかいない。
感情的な行き過ぎはあるにせよ、これほど子煩悩な男がなかなか我が子に恵まれず、実子・養子問わずその大半がロクな死に方をしていない事に愛情の空しさすら感じずにはいられない。
勿論愛情を注げば必ず幸せな人生を送るとは限らないし、肉親の愛を得れずとも立身出世・長命長生の人生を送る事もある。一概にどちらが幸せかとは云い切れない。
秀吉の子煩悩にしても、「子煩悩なのに子供並びに子供の幸福に恵まれないなんて…。」と思う一方で、「子供並びに子供の幸福に恵まれなかったからこそ子煩悩になった。」とも云え、こうなると妙な意味での「卵が先か?鶏が先か?」になってしまう。
だが、それでも薩摩守は親にその出生を疎まれたり、時には害せられる事もあった戦国時代という日本人がその生を送るのに最悪だった時代に対して思う。
「過剰なまでの父の愛を得られた秀吉の子供になったということは、子供達にとって幸福に類することだった。」
と。
勿論、無条件に「善し」としている訳ではなく、関白・太閤という武家としても公家としても最高権力者の子となった故に翻弄されたその後の人生もあるにはあるが、満たされた物も決して小さからず、単純に父性愛だけでも稀有なものを得たと見ているのだ。
冒頭や途中にも書いたが、本当に子供を虐待したり、養育費を酒・ギャンブル・麻薬等の依存症で潰したり、自らの好き勝手な行動のために教育を放棄して子供の為した悪事に責任逃れの言しか吐かない世の馬鹿親どもに秀吉の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
慶長五年(1598)年八月一八日に太閤・太政大臣豊臣秀吉は六歳の秀頼、一七歳の小早川秀秋、二〇歳の八条宮智仁親王、二五歳の結城秀康、二五歳の豪姫、二六歳の宇喜多秀家を残して、自身は六三歳で薨去した。
年を食ってからの子は可愛いと一般に云われるが、年齢を比較してみてみると、秀吉の子供達の大半は秀吉を父と呼ぶにしては若年だった(そういう年齢差の父子が取りたてて珍しかったわけではないが)。
秀吉が子煩悩に走ったのも分からないでもないし、加藤清正や福島正則といった少年豪傑達に糟糠の妻・おねとともに父母の如く接した事実を見ても秀吉自身の資質とも云えるし、その双方によるものとも云える。
だが秀吉並の権力者や秀吉に準ずる権力者で溺愛とも云える愛情や翻弄されるほどの御し難いまでの境遇を一体戦国武将の誰が養子にまで与えただろうか?はっきり云って上杉謙信ぐらいしか思い当たらない(対象者:上杉景虎=北条氏秀)。
やはり薩摩守は秀吉の子煩悩を基本的な彼の人間性と云う意味において好ましく思う。
また、最終的に徳川秀忠の御台所となったお江の様に、政略結婚の過程で一時的に秀吉の養女となった例や薩摩守の調査不足(苦笑)まで挙げると一体秀吉が何人の子持ちになるのか正確な把握は不可能になるのだが(苦笑)、逆にそうならそれで明らかに溺愛の根拠が見える養子が五人(小吉秀勝・秀次・秀家・秀秋・秀康)いる秀吉の父性愛の強さはクローズアップこそされど、色褪せることはない。
そんな秀吉の子煩悩の中で唯一、ダークな面を残すのが秀次一族に対する大量虐殺が珠に瑕である(秀次が秀吉と血の繋がったれっきとした身内だけに余計に)。それ故に薩摩守は秀吉の溺愛を手放しで褒めはしないが、片手落ちを戒める事をモットーとするこの房の主旨に照らしても、長所が短所を上回る形で薩摩守は秀吉の子煩悩を称えたい。
さて、その秀吉の死後だが、一代で農民から関白に上り詰めた一人の男の壮大過ぎる人生はその死後に常人には御し切れない余波を残し、その余波は容赦なく子供達に牙を剥いた。
そうなると人の世の、身に余る、御し切れないほどの権力の暴走の怖さと、「可愛さ余って憎さ百倍」の言葉にも通じる過剰な愛情の奔流が故人に与える影響の大きさにも切なさを禁じ得ないのだが、改めて思うのは、
「豊臣秀吉の死から豊臣家の滅亡に至るまでもやはり世の中はしっかりと戦国時代だった。」
という事である。
薩摩守は親子が殺し合う事も珍しくなかった戦国時代は本当にひどい時代で、そんな時代を独り善がりな視点で片手間に綴っていられる現代の平和を本当に尊く、在り難い物だと思っている。
だが、当たり前に慣れてそんな平和や愛情の尊さを忘れているのか、既得権益や馬鹿な国粋主義に戦争を迎合する空気の生まれや、愛ではなく快楽で子を為したり、無責任で生まれた子供に更に無責任や無慈悲を重ねる愚か者どもの続出に怒りと悲しみを禁じ得ない。
戦国というひどい時代に現れた子煩悩男・豊臣秀吉。
その子煩悩に「父性愛」を見るも、「独裁者の狂気」を見るも、「登り詰めた男の老い」を見るも自由だが、「生半可な愛情の持ち主でなかった」ということだけは血生臭い時代の一服の清涼剤として見落としたくない物である。
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令和三(2021)年五月一九日 最終更新