第拾壱頁 豊臣秀頼(秀吉次男)



豊臣秀頼
生没年文禄二(1593)年八月三日〜慶長二〇(1615)年五月八日
実父豊臣秀吉
縁組前の秀吉との関係最初から秀吉の子
略歴 実子・養子を含めて豊臣秀吉最後の子・豊臣秀頼は文禄二(1593)年八月三日に生まれ、肥前に名護屋にてその朗報を聞いた秀吉は八月二二日に驚いて帰坂した。

 五四歳にして授かった鶴松を五六歳で亡くした秀吉が、五八歳にして再度授かった次男を溺愛しない筈がなく、嫡男の鶴松を「捨て子は育つ」の格言に従って「棄(すて)」と名付けのに対して、「捨て子を再度拾い上げた段階」に因んで、「お拾い」と名付けた。

 お拾いの為に秀吉はその年の内にお拾いと関白職を譲った秀次の娘と婚約させた。
 翌年には(お拾いの為だけではないが)秀次から関白職を剥奪して高野山に追放後、その一族を全滅させ、直後に五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝)達にお拾いへの忠誠を誓わせた。
 そして直後に病んだ秀吉は翌年の慶長元(1596)年の畿内大地震や明国との和議交渉の難航に気を弱くしたのか、お拾いの将来に備える事に砕心するようになり、その年の一二月一七日にまだ四歳のお拾いを元服させ、豊臣秀頼と名乗らせた。

 だが、「せめて秀頼が一五歳になるまで生きて成人を見届けたい…。」と考えた秀吉も、相次ぐ病、肉親の死、朝鮮出兵とその和議、といった数々の出来事での疲れに勝てず、慶長三(1598)年八月一八日に六歳の秀頼を残してこの世を去った。

 死に際して秀吉がみっともないほどに五大老、五奉行、諸大名に秀頼の行く末を頼み込んだのは有名だが、秀頼と婚約させた千姫の祖父にして、最も頼りとした徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍を下すと、秀頼母子に戦の責任はなし、としつつも論功行賞によって、東軍大名加増を理由に秀頼の直轄領二四〇万石を大幅に削り、その石高を摂津・河内・和泉の六五万石という、一大名としては一流だが、天下人には程遠い規模に落とした。

 だが、家康にとっても主筋に当たる秀頼をいきなり粗略にしては豊臣恩顧の大名達の反発を招く恐れもあり、慶長六(1601)年に秀頼を権大納言に推薦(三月に秀忠とともに就任)し、慶長八(1603)年に征夷大将軍となった直後に秀吉との生前の約束通り、孫娘の千姫を秀頼と結婚させる等、権力地盤を固めつつも、表立っては豊臣家を気遣う姿勢を見せ続けた。

 だが慶長一〇(1605)年に秀頼が右大臣になりながら、その四日後に家康が駿府に隠居し、徳川秀忠が二代将軍に就任するに及ぶと、徳川家から秀頼への政権返還は名実ともに拒絶され、秀頼にも上洛した秀忠への祝辞言上の上洛が命ぜられた。
 この命令に母・淀殿のは強く反発し、秀頼を病気と称して上洛させず、代わりに徳川家からは家康六男の松平忠輝(秀頼とは一歳違い)が見舞に大坂城を訪れた。

 名実ともに豊臣と徳川の力関係が逆転した事を豊臣側がなかなか認められずにいる中、家康は豊臣恩顧の大名達を徐々に手懐けつつも、それらの大名達に秀頼が徳川に臣従する様に仕向けた。

 そして慶長一六(1611)年、後水尾天皇即位式(因みに費用は全て徳川家が負担した)出席の為に上洛した家康は、その際に二条城で秀頼に会いたい、と打診した。
 当然の様に淀殿は反対したが、いつまでも強情を張ることは却って徳川の力による介入を生みかねないことを加藤清正、浅野幸長等に説かれ、秀頼は二条城に行く決意を固め、清正と幸長が護衛を兼ねて同行した。

 二条城にて高台院(北政所)とともに家康は秀頼を歓待し、歓談陪食しながら小柄な秀吉よりも祖父・浅井長政の血を受け継いだかのような巨漢に成長した一九歳の秀頼の偉丈夫振りをにこやかに褒め、称賛しつつも、腹の底ではその将来性を恐れた。
 以後、家康によるあざといまでの手練手管により大坂の陣開戦がこぎつけられる事となった。

 二条城会見に前後して、島津義久、浅野長政、真田昌幸、加藤清正といった秀頼にとって頼りになる大名達がこの年、相次いで世を去った。
 殊に二条城に秀頼に同行した清正の死と、その二年後の幸長の若死には徳川方による暗殺説が今も根強く残る程、「如何にも」なタイミングで起きた。
 その間にも家康は淀殿秀頼に方広寺再建を初めとする寺社仏閣の建立を仕切りに勧め、豊臣家の金蔵から秀吉の残した金銀を吐き出させることにも努めた。
 既に義兄・秀康(病死)・秀家(流罪)・秀秋(病死)を失っていた秀頼は次第に人と財を切り取られ、その仕上げは方広寺から起きた。

 所謂、方広寺鐘銘事件で、方広寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽」とあることが「家康」の名を斬って呪い、「豊臣」を「君」として「楽」しむものである、との云い掛かりを極普通に使われる四字熟語に対して行ったのである。
 勿論、権力に物を云わせたもので、その実態は難癖やイチャモンと呼ぶのもおこがましい程、稚拙なものであった(しかもこの鐘は銘文とともに現存している。鐘への難癖は開戦口実に過ぎなかったことがよく分かる)。
 慶長一九(1614)七月に家康によって発せられた怒りの声は秀吉の命日である八月一八日の堂供養を延期させよ、という豊臣家にとって到底受け容れ難い命令となって表された。

 秀頼は片桐且元を駿府に派して釈明に努め、淀殿は大蔵卿局(淀殿乳母・大野治長の母)を同様に駿府へ派遣した。
 老獪な家康は且元には聞く耳持たずの態度を取り、大蔵卿局には歓迎と豊臣家に些かの害意もない旨を伝える二重対応で豊臣家内部の撹乱に成功した。
 一〇月に入って、片桐且元が大坂城を追放同然に退去するに及んで秀頼は巷に溢れる浪人をかき集め、豊臣家恩顧の大名にも合力を要請したが、遂に現役大名格は一人も馳せ参じなかった。

 一二月に遂に大坂冬の陣が勃発。周知の通り、外堀と大筒(大砲)が対峙する中、常高院(京極高次夫人:淀殿の妹にして将軍秀忠正室お江の姉)の仲介で、大坂城の外堀を埋める事で和議が成立した。  そのいざこざに突け込む様に家康は秀頼に家康に対する敵意がないなら大坂城を出て伊勢か大和に移るか、浪人達を追放するかの二者択一を迫ったが、大坂城の経済状態や浪人達の気勢からも双方とも受け容れられない要求だった。
 勿論再開戦の為に家康がごり押しした無理難題であった。

 そして家康の思惑通り、慶長二〇(1615)年四月二七日に野戦による大坂夏の陣が勃発した。
 大坂城に篭もる事も叶わぬ豊臣方は城外に打って出たが、同月二九日に塙団右衛門が討死(←ええ、そりゃ勿論この人の名前は出しますとも!(笑))したのを皮切りに、五月六日には後藤又兵衛、薄田兼相、木村重成といった豪傑達も次々に戦死した。
 五月七日に御宿勘兵衛政友、そして最後の名将・真田幸村が戦死するに及んで豊臣方は組織的抵抗の術をなくし、淀殿と大野治長は最後の手段として秀頼正室の千姫を徳川方に送って秀頼母子の助命に賭けた。
 だが、翌八日に山里曲輪に潜んでいた所を井伊直孝隊の銃撃を受けた秀頼主従は覚悟を決め、毛利勝永の介錯で豊臣秀頼は切腹して果てた。享年二三歳。
 母の淀殿、大野治長、大蔵卿局、毛利勝永、速水守久、他近臣二七名が運命を供にし、秀頼母子に殉じた。

 戦後、大野治房(治長の弟)に伴なわれて城外に脱出した秀頼の遺児国松は京都で捕らえられ、五月二三日に六条河原で斬られる(享年八歳)。
 千姫の助命嘆願が為された一女の奈阿姫は縁切り寺で有名な鎌倉東慶寺に出家することで助命され、天秀尼として豊臣家の菩提を弔い続けて過ごしたが、当然子を成すことがないまま正保二(1645)年二月二七日に享年三七歳で没し、ここに豊臣秀吉の血筋は歴史上から完全に途絶えた。

 大坂夏の陣秀頼は死なずに脱出し、肥後または薩摩に真田幸村と供に逃れたとの説があり、中にはその血筋から天草四郎時貞が生まれたと云う説すらあるが、間違いなくそうだと裏付ける歴史的証拠は今のところない。
 「源義経=ジンギスカン説」、「源為朝=琉球王朝始祖説」、「西郷隆盛ロシア亡命説」、同様の「判官贔屓」と見られる。


歴史的存在感 豊臣秀頼の誕生によって豊臣秀次とその妻子一党が皆殺しとなり、その秀頼の母・淀殿と息子である国松の死でもって戦国時代が完全に終焉を告げた。

 こう書くと何だか秀頼が戦国最後の疫病神か死神みたいに思えてしまうが、もしそうだとしてもそのウェイトは父の秀吉にこそあると云って良い。
 つまりは子なき最高権力者がその権力と権威を残そうとした故に、戦国の権力の在り所を決定付けたのが豊臣秀頼の歴史的役割なのかもしれ…………おっと、これじゃあ生贄だな………。

 勿論豊臣秀頼は単に母・淀殿に甘やかされ、義理の祖父・徳川家康に翻弄された一生を送っただけの道化ではないことは拙房の『菜根版名誉挽回してみませんか』に詳述した。
 豊臣秀吉という日本史上でも稀有な男の末子に生まれ、偉大な父の溺愛と大権を受けたことは必然的に秀頼に平穏な人生を許さなかった。

 秀頼がその資質を充分に開花し、一人立ち出来るようになるまで秀吉が健在だったら?
 或いはそれまでに秀吉に勝るとも劣らぬ巨人・徳川家康が天寿を迎えていたら?
 豊臣秀長が長命で秀吉と秀次が仲違いせずに豊臣家に巨大な一枚岩が完成していたら?

 本来歴史に禁物である「if」は考え出せばキリがないが、それ程の資質と権力的背景がその時を生きた人々とのせめぎ合いの中で後々の歴史に「泰平」と「大いなる教訓」がもたらされた−それこそが大いなる資質を開花することなく若くして逝かざるを得なかった豊臣秀頼が自ら手を下さずとも後世に為した功績にして、そう考えることが彼への最大の供養と考えるのは過言だろうか?


秀吉の溺愛 もう書く必要がないと云って良いだろう。
 豊臣秀吉の溺愛もさることながら、秀吉の死後にその溺愛を受け継いで豊臣秀頼を甘やかしたと目される淀殿の言動を見てもそれは明らかだろう。

 子煩悩男・秀吉が二人の実子・三人の養子に先立たれ、実子が望めない内は血の繋がりに関係なく何人もの養子達を溺愛してきたところに、五八歳にして今度こそ最後の実子を授かったのである
 多くの将兵が朝鮮半島の厳寒の中で泥を啜って戦っている中、多くの桜を無理矢理植えてまで醍醐の花見を為したり、過剰なまでに秀次妻子郎党を族滅した所業には眉を顰めたくなる物も多いが、完全に倫理が盲目になるほどの溺愛が事の是非を越えて「無理もない」と思わせるのが、豊臣秀吉という男の、子煩悩性の真骨頂にして、げに恐ろしき権力の暴走の証左とも云えるのである。

 慶長三(1598)年に伏見城で秀吉が薨じた後、一九歳の時に後水尾天皇即位式参列の為に上洛した徳川家康と二条城似て会見するまで、一三年に渡って豊臣秀頼は大坂を出たことがなかった。
 生まれて初めて牛を見たのが一五歳の時だという。武将よりも女官が近侍する日々は完璧に秀頼を温室に閉じ込めた。
 だが偉大なる父秀吉亡き後、最も頼りになる筈の徳川家康が秀頼をないがしろにして猶、秀頼周辺は決して人無しではなかった。

 家康に逆らわずとも最後まで命を賭して秀頼に忠節尽くした加藤清正
 土壇場で袂を分かったとはいえ敵味方の狭間で最後まで秀頼助命に尽くした片桐且元(公式には病死とされる慶長二〇(1615)年五月二八日の命日は秀頼の三七日に当たるため、追い腹を切ったと唱える者が後を断たない)、
 淀殿の乳兄弟にして秀頼母子の助命に最後まで奔走して運命を供にした大野治長
 その弟で秀頼の一男一女の脱出に尽力して徳川方に殺された大野治房
 秀頼の乳兄弟にして八尾若江に華々しく散った木村長門守重成等々、
 これらの人物が秀頼の周囲に配されていたのもまた、秀吉が生前に残した金銭に代え難い大いなる遺産と云えよう。

 またゆくゆくは関白を継ぐ事を期された秀頼に、武芸はともかく、学問教育為されなかった筈がなく、秀頼は政治家として摂津・和泉・河内の三国を立派に治めるだけの力量を授けられていた。
 秀吉薨去後の二四〇万石には見劣りしても三国六五万石は大大名として大いなる重責があり、この政治がまずければそれをたてに幕府は早々に豊臣家を潰す事も出来たが、秀頼とその側近達は付け入る隙を与えなかった。
 ブレーンにせよ、政治構造にせよ、自分の死後の秀頼の為、外様大名にも若輩奉行にも頭を下げまくった秀吉の生前の準備が働いていない筈が無い。

 秀吉秀頼が溺愛したのは間違いない。過剰な溺愛が最高権力者をして愚行蛮行を生んだのも事実だ。
 だが只の猫可愛がりに終始して「育てる」ということと「守る」ということを無視するほど秀吉は耄碌しておらず、秀頼もまたそんな父の愛を知らずに女官達と遊び呆けるような馬鹿殿に育ったのでは決してなかった。

 親子兄弟の殺し合いが決して珍しくなかったこの時代にここまで父に愛された息子がどれだけいただろうか?
 勿論最高権力者故に目に見える部分も大きかっただろうが、目に見えない周辺状況をチョット探ってみただけでも秀吉が如何に秀頼を愛していたかの証左はこれでもかという程出てくる。
 偏に愛を注ぐ側にも、愛を受ける側にもその愛を御し切れない程の権力と立場を持ち過ぎてしまった事だけが悔やまれる。



次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月一九日 最終更新