第壱頁 アテルイと平安朝廷……踏み躙られた武士の節義

反故にされた人物アテルイ(阿弖流爲)・モレ(母礼)
反故にした人物坂上田村麻呂(実際には平安貴族)
反故にされた瞬間延暦二一(802)年八月一三日
反故にした背景異民族蔑視からくる不信と不安
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケその後三〇〇年以上奥羽は治まらず
不幸な対決 時は平安時代、桓武天皇の御世(在位:天応元(781)年四月一五日〜延暦二五(806)年三月一七日)。平安朝では蝦夷討伐の為に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された(延暦一二(793)年)。

 平安朝、つまり大和朝廷による蝦夷討伐とは、「討伐」という言葉を用いて、天に反する逆賊や悪の集団を退治するかのごとく謳っているが、その実は「侵略」である。
 もっとも、現代とは比較にならないぐらい異民族への理解が乏しかった古代・中世においては侵略を平気で「討伐」と称した例は少なくないのだが(元寇を元・高麗では「日本征伐」と称し、朝鮮出兵を豊臣秀吉は「高麗征伐」と称した)。
 そもそも現在の日本国に住む日本人が古代からの単一民族というのは大きな誤りで、北海道・千島・樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフ、沖縄には琉球民族、九州には隼人、東北地方には蝦夷(えみし)が大和朝廷〜江戸幕府の支配を受けて、日本民族の中に組み込まれてきた(第二次世界大戦に日本が勝利していれば朝鮮人、台湾人、満州族もそうなっていた可能性は高い)。

 殊に大和朝廷対夷狄の戦いは『日本書紀』によると神話の時代に既に存在した事が記されている。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ:九州土着の豪族)征伐以降、毛野氏が蝦夷を征討し、飛鳥時代には宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察される蝦夷に対して大化年間ころから蝦夷開拓が図られ、行われた。
 大化三(647)に新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設されたが、個別の衝突に留まり、両者間にはまだ全面的な戦闘状態はなく、道嶋嶋足(みちしまのしまたり)のように大和朝廷に仕えた蝦夷も記録されている。


 だが奈良時代末期、光仁天皇(桓武天皇の父帝)以降、蝦夷に対する敵視政策が始まり、宝亀五(774)年には按察使(あぜちし)・大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)が蝦夷征討を命じられ、弘仁二(811)年まで『三十八年戦争』とも呼ばれた蝦夷征討の時代となった。
 即ち、第壱期から第肆期までを指す(内容は下記の表を参照)。

 延暦二〇(801)年、征夷大将軍に就任した坂上田村麻呂は出陣した。
 一般に征夷大将軍、と云えば「幕府の首長」を指すことが多く、源頼朝や徳川家康を連想されることが多いが、歴史の授業を古代から学んで、史上最初の将軍として坂上田村麻呂の名を学んだ人も多いだろう。
 実際に初代の征夷大将軍は田村麻呂が副使として従軍した際の総大将・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初代で、田村麻呂の後にも文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が続いている。
 そして「征夷大将軍」の名称の前にも、多治比県守(たじひあがたもり)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、が「持節将軍」・「征東大将軍」の名で軍を率いたり、蝦夷の討伐(=侵略)に向かっているが、この田村麻呂が抜きん出て有名なのは好敵手・阿弖流爲の存在や、武力一辺倒でなく、話し合いや和睦も為した事が大きいだろう。
 だが、そこには田村麻呂の意思に反した謀りと不信と蔑視による悲劇が待っていた。


 『日本書紀』は、誤解を恐れずに云えば大和朝廷皇族による、自らの正統性を史実として主張するプロパガンダ史書である。まあ、洋を問わず古代史史書なんて皆、そうだが。
 何せ勝者が綴る以上、当該王朝のプロパガンダ史書となる方が当たり前で、現代においても史書をプロパガンダ書に作り上げんとする連中はごまんといる。
 そんな古代史書は、概して異民族を蔑視し、「夷狄」として見下された蝦夷や隼人が自らの土地を守る当然の行為も「大和朝廷の王化に従わない暴動」としか見做さなかった。

 くどいが、「征夷」とは自らを正統王朝として異民族−それも自分達より勢力の格段に劣るそれ−を文明を持たない「夷」と決め付けて「征伐」という綺麗事で飾った「侵略」に他ならない。
 誤解ないように言及しておくが、薩摩守はこの件を指して日本と云う国や、日本人と云う民族を悪く云いたいのでは決してない。
 近現代に比べて異民族に対するヒューマニズムが低意識だった当時、大国に従うことは差ほど「恥」とも見ず、小国(←「国」とさえ見やしなかっただろうけれど)を武力で従えることに対する「非」の意識が皆無に近かった。
 現存する国家は、規模の程度や数の違いこそあれ、先ずだ国を滅ぼした経験を持っている(例:韓国人・朝鮮人も、済州島にあった独立国。耽羅国を滅ぼし、完全に自国のものとしている)。
 この傾向は各国・各民族に共通した意識だったこと、或る程度の規模を持つ国家と云うものが多かれ少なかれ中華思想にかぶれていたことが生み出す悲劇は、やる側に罪悪感なき故に性質が悪い。
 この事を見落としては未来においても人類は異民族相手に同じ過ちを繰り返し、後々の世に引きずる禍根を残しかねないことを薩摩守は述べておきたいのである。


 こうした背景があり、延暦二〇(801)年に坂上田村麻呂の「遠征」は始まった。
 延暦一五(796)年に陸奥按察使と陸奥守と鎮守将軍を兼任していた田村麻呂は翌延暦一六(797)年には正式に征夷大将軍に任じられていた。 
 一方の蝦夷軍の大将・阿弖流爲は、延暦八(789)年、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)による遠征時にその名を現し、胆沢にて朝廷軍と戦い、北上川の西にて朝廷軍の内、中軍と後軍の四〇〇〇と蝦夷軍約三〇〇をもって交戦した。
 そして巣伏村で八〇〇の援軍とともに反撃に転じ、後方からも四〇〇の兵を動員し、紀古佐美の遠征を失敗させた。
 坂上田村麻呂との交戦について、大和朝廷による史書は詳細を伝えていないが、結果として田村麻呂は蝦夷勢力を胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)から一掃し、延暦二一(802)年胆沢城を築くに至った。


 『日本紀略』によると同年四月一五日に阿弖流爲母禮(モレ)が五〇〇余人を率いて降伏してきた、と記している。
 田村麻呂は武力による屈服では切りがないと考えていたところに、胆沢城抜き難しと考えた阿弖流爲母禮が和を請うて来たことから田村麻呂は二人を平安京に同道させ、話合うことを提案した。
 これにより、一先ずは大和朝廷軍と蝦夷軍が血を流し合う現状は避けられた。一先ずは……。


参考
回数期間概略
第壱期宝亀九(778)年桃生城主桃生城での蝦夷と鎮守将軍による局地戦。主に出羽が戦場。
第弐期宝亀一一(780)年〜天応元(781)年征東大使・藤原小黒麻呂伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)。紀広純(きのひろずみ)等が殺害され、多賀城が略奪・放火に遭った。
第参期延暦八(789)年征東大使・紀古佐美大規模な蝦夷征討開始。
 衣川から胆沢に向けて軍勢を発し、当初は朝廷軍が優勢だったが、援軍を得た蝦夷側の反撃を受け、壊走。戦死・二五名、矢に当たった者・二四五名、溺死・一〇三六名、の損害を出して遠征失敗(巣伏の戦い)。
第肆期延暦二〇(801)年坂上田村麻呂上記にて前述



理不尽な反故 延暦二一(802)年七月一〇日、坂上田村麻呂阿弖流爲母禮を伴なって平安京に帰京した。
 阿弖流爲母禮にとって平安京への入京は武器と兵のない状態で敵の本拠地に乗り込む極めて危険な行為で、それを可能としたのは命の保障を明言した田村麻呂への信頼だった。
 つまり三者の入京は和を請う蝦夷側の責任者を迎えて、朝廷の責任者を交えて話し合わんとするものだったのだが、平安貴族はそうは見なかった。

 田村麻呂阿弖流爲母禮と約束した通り、両名の降伏を受け入れて助命し、蝦夷の仲間も降伏させるようと提言した。
   しかし、平安貴族は「野性獣心、反復して定まりなし(野生の獣の心で、従ったり背いたりはっきりしない)。」と主張して反対した。
 結局、田村麻呂の助命嘆願も通らず、両名の処刑が決定。阿弖流爲母禮は、八月一三日に河内国椙山で処刑された
 一説によると、田村麻呂阿弖流爲母禮の助命を条件に入京させた事を−つまり武士と武士の信義に−訴えた際に、平安貴族どもは「蝦夷は人に非ず。」として、田村麻呂の訴えを一蹴したといわれている。
 つまり相手を「獣」と見做し、「人」と「人」の約束を守るに値しないとしたのであった。薩摩守に云わせれば「どっちが『人に非ず』だ!?この糞馬鹿野郎ども!!」と云いたくなる。

 相手を自分と同じ人間と見ないと約束も信義も簡単に反故にするのが人間であることの恐ろしさと愚かしさを、このサイトを見ているすべての人に訴えたい。
 現代人も未来人も決して例外とは云い切れないのである。



忌まわしき余波 蝦夷の立場に立ってみよう。
 元々蝦夷側に大和朝廷に対する侵略の意図はない。阿弖流爲の多賀城攻めや安倍頼時を侵略者とした見方もしているが、何てことはない。大和朝廷の方が先に東北地方に攻め入っているのである。
 多賀城攻めにしても自分達の領域に敵の侵略前線基地が出来たから反撃に出たに過ぎない。そして胆沢城が出来たに及んで講和に望んだ阿弖流爲を、結果として坂上田村麻呂の助命約定を反故にして処刑したのである。


素で考えて、こんな国家に従う異民族がいると思えるか?


 実際、田村麻呂公卿達阿弖流爲達と「助命を約して上京させたこと」と、「彼等の協力なくして蝦夷は治まらないこと」を説いた。
 だが、前述した様に公卿達は蝦夷を人と見なさず、不信の念から助命の約束を反故にしたが、人を信用しないものは人から信用されることはない。
 田村麻呂の懸念は的中し、以後も東北蹂躙征伐は難渋を極めた。
 
 それゆえ、延暦二二(803)年には志波城(しわじょう:岩手県盛岡市の西の郊外、中太田・下太田にまたがる地域)を造る必要も生じた。
 志波城築城により、大和朝廷の律令政権は北上川以北にも及んだことにより、坂上田村麻呂の蝦夷征伐は一応の成果を収めたことにはなったが、歴史がこの後、前九年の役後三年の役へと大和民族と蝦夷の戦史を綴ったのは周知の通りである。
 互いが互いを信用出来なかった悲劇の基に阿弖流爲達に対する反故があったのは否めないだろう。



余談 坂上田村麻呂はその後、延暦二三(804)年にも征夷大将軍に再任された。
 しかし、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が軍事と造作が民衆を苦しめていることを奏上し、桓武天皇がこれを認めたことから田村麻呂は蝦夷征伐から離れることとなった。
 その後田村麻呂は、延暦二四(805)年に参議、大同元(806)年に中納言、弘仁(810)元年に大納言、と昇進を重ねた。

 そしてこの年、平城京に隠居していた平城上皇が藤原薬子とその兄・仲成に唆されて天皇への復位を狙った、所謂、薬子の変が勃発したが、嵯峨天皇は田村麻呂に鎮圧を命じ、田村麻呂は見事これに成功した。

 平城上皇は出家し、乱の渦中において薬子は毒を仰ぎ、仲成は射殺された(以後日本では保元の乱まで死刑が事実上廃止された。律令には死刑が記載されていたが死刑に相当する罪でも「温情により罪一等減じ」となって死刑判決が出なかった)。そしてこの事件が田村麻呂最後の出番となった。

 鎮圧出動に際して田村麻呂は嵯峨天皇に、平城上皇と懇意であったことから禁錮されていた戦友・文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)の釈放を願い出、天皇もこれを許した。
 ちなみに綿麻呂は後に征夷大将軍となっている(将軍として特にこれといった戦はなく、貴族政権における最後の征夷大将軍となった)。


 弘仁二(811)年五月二三日、坂上田村麻呂病没。享年五四歳。訃報に接した嵯峨天皇は悲しみにくれて丸一日政務を見ず、田村麻呂を哀惜する漢詩を作った。


 田村麻呂を生んだ坂上氏は東漢系(後漢の霊帝の末裔)とされる渡来人の末裔であり、それゆえに国家が安定しないこと、異民族間交流に信義が大切なことを、戦友同士の友情の重さをよく知っていたのかもしれない。
 そんな田村麻呂の人柄は蝦夷征伐の際にも、薬子の変の際にもよく現れていた。
 そして彼の人格から為された要望が、異民族に対するそれは軽んじられ、戦友に対するそれは重んじられたことに当時の世相と今後への教訓が見られる。

 その後の坂上氏は検非違使を世襲し、戦国時代には伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)の実家・田村家への繋がった(江戸時代も大名家として存続)。



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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新