第弐頁 源頼義と安倍貞任……改名の誠意も通じず

反故にされた人物安倍頼時・安倍貞任
反故にした人物源頼義
反故にされた瞬間天喜四(1056)年某日
反故にした背景清和源氏による侵略欲
卑劣度
騙し度
止む無し度
反故のツケ前九年の役・後三年の役を経ながら奥羽支配非成立
不幸な対決 事の怒りは平安末期に東北地方にて。
 当時、蝦夷(えみし)族は清原氏、奥州藤原氏、安倍氏等の大和朝廷に帰順した諸氏が「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれていた。
 「俘囚」という漢字が「俘虜」の「俘」、「囚人」の「囚」が当てられている様に、これはあからさまな異民族蔑視であった。
 中華思想に凝り固まっていた中国歴代王朝が周辺異民族に「馬台国」・「」・「古」・「匈奴」・「蕃」等、ロクでもない字を当てていたのと同じことをやっていたのであった(もっとも、中国の中華思想を真似て自国より国力の小さい周辺国に尊大に振る舞っていたのは琉球やタイ、逆に中国を支配したモンゴル族・満州族でも同様だったが)。


 そんな中で、清原氏は「俘囚主」を、奥州藤原氏は「俘囚上頭」を、安倍氏は「俘囚長」を称し、安倍頼良(あべのよりよし)は奧六郡(胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手)の郡司を兼任していた。
 そこへ永承六(1051)年に藤原登任(ふじわらのなりとう)が陸奥守として赴任してくると半独立勢力と化していた頼良は軍勢を率いて衣川から登任を攻撃し、鬼切部において国府軍を撃破した。
 朝廷は源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任じ、奥六郡に派兵したが、朝廷において上東門院藤原彰子(藤原道長の娘)の病平癒祈願の為に大赦が行われ、安部氏の反乱もその対象とした。
 「反乱」とは書いたが、安部氏にしてみれば元々自らが統治していた奥六郡に対する独立心の表れとして、登任を攻めたものの、自らの勢力圏外に対して侵略の意図があった訳ではない。
 それゆえ、元々争いを望んでいなかった安倍頼良は喜んで講和に応じ、大和朝廷に対して害意がない証として、寄せ手の大将であった源頼義と名の読みが同じであることに遠慮する姿勢を見せて、安倍頼時(あべのよりとき)と改名した。


 ところが、治まるかに見えたこの講和、意外な所から瓦解した。所謂、阿久利川事件(あくとがわじけん)が起きたのである。
 阿久利川事件とは、源頼義の配下である藤原説貞、その子息・光貞等が阿久利川畔にて賊徒の襲撃を受け、人馬数名が殺傷された事件であった。
 天喜四(1056)年、頼義の陸奥守としての任期が終わる予定にあった。
 前述の大赦以来、二人の娘を頼義配下の藤原経清(ふじわらのつねきよ)と平永衡(たいらのながひら)に娶わしたり、貢物を送るなどして恭順の意を示して来た頼時にとっても、このタイミングでこの暴挙は寝耳に水だった。
 俘囚長としての地位と一族の安泰が約束されようとしていた矢先の出来事で、安倍氏側には頼義配下を襲うメリットは何一つなかった。

 配下が襲撃された頼義は、重傷を負いながらも生き残った藤原光貞の証言から賊徒を安倍頼時の嫡男・貞任(さだとう)と見做して、貞任の身柄引き渡しを頼時に要求した。
 ちなみに光貞が貞任を下手人とした根拠は、貞任が光貞の妹を妻にしたいと願ったが、光貞は卑しい俘囚にはやるまいと拒んだことを逆恨みしたのでは?と推測して証言したもので、この証言を一方的に鵜呑みにした頼義は即座に貞任を下手人と(ロクに吟味もせず)決め付けた

 頼時頼義帰京により奥羽統治を保てるかどうかの大事なときに、それまでの父の苦労を御破算にするような我が子・貞任であるとは思えず、貞任も容疑を否認した。
 まあ動機的に見ても、状況的に見ても源氏サイドの陰謀としか見えない(余談だが、普段薩摩守は「事件は〇〇による陰謀」と云う陰謀論を疑うタイプの人間である)。

 事ここに至って頼時は、例え不利でも全滅覚悟で一族の名誉と依るべき土地のために命を懸けて戦うことを決意し、「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」との回答を為し、衣川の関を閉じて叛旗(?)を翻した。
 ここに安部氏清和源氏に数々の俘囚を交えた前九年の役が始まり、奥羽は流血の大地と化した。



理不尽な反故 敢えて大和朝廷を絶対正義として、阿久利川事件を表面で見ると、

 「陸奥守の奥羽統治に逆らった安倍頼良が朝廷の大赦に対して名前まで変えて恭順と見せかけながら、大赦の恩を忘れて乱暴狼藉を働いた。大赦に始まる和睦を反故にしたのは安倍頼時安倍貞任父子だ。」

 となるが、そう見るのは誠に源氏に都合のいい偏狭史観である。

 かつて『認めたくない英雄達』 でも記したが、前九年の役前から後三年の役、更には鎌倉幕府成立にかけて清和源氏は露骨なまでに奥羽の支配権を欲していた。

 阿久利川事件源頼義方による自作自演の疑いがかなり濃厚である(というか、そうとしか思えん……)。
 実際、安倍頼時にすれば藤原登任を打ち破った軍事力、自領より北部で勢力を持つ清原氏との関係を考えれば、仮に奥六郡やその周囲に野心を持っていたとしても、頼義帰京後の方が、事を図り易かったのである。
 事の是非以前の問題として、余程の馬鹿ではない限りもう少しタイミングというものを考えるだろう。

 そう、つまりこの事件は自衛の為の戦いに和を請い、同名を憚る謙虚さでもって恭順の意を示して争いを避けようとした安倍頼時の気持ちに対して、部下を殺すでっち上げをしてまで和と恭順を源氏側が反故にしたのである
 元より源頼義の胸中に在ったのは奥羽の支配で、安部氏の勢力を残す気は毛頭なかったのである。
 そんな頼義の野心を知ってか、朝廷は安倍頼時を討ち取った(実際には戦傷死)ことに対し、恩賞を出さず、陸奥守の任期を終えた頼義を伊予守に任じる等して、頼義と奥羽を切り離さんとした(←ある意味正しい判断である)。



忌まわしき余波 人を信用しない物は人から信用されず、人を裏切るものは自らが裏切られることに怯えるものである。

 源頼義の父・源頼信は平忠常の乱を戦わずして収め、その武威を尊敬された。
 だが討伐成功による名声よりも、「奥羽の大地」という実利を求めた頼義義家父子には実利故に信義を軽んじて多くの犠牲と無駄を被ったのである。

 安倍頼良頼時と改名して恭順の意を示したとき、頼義の部下である藤原経清と平永衡の二人が頼時の娘を娶っていたので、二人は阿久利川事件で気まずい立場に立たされた。
 直後に永衡が舅・頼時から貰った派手めの鎧を愛用していることを、「安部氏に随身する気だ!」、「派手な鎧はいざ戦が始まったときに安倍軍に射られない為の目印に違いない!」等と讒言され、結果永衡は頼義に処刑された(←ひど過ぎる………)。
 永衡と同じ立場の藤原経清は戦慄し、「猜疑心で殺されるぐらいなら……。」と考えてか、舅との義理を重んじてか、主君に背を向けて頼時に合力を申し出、頼時は狂喜した。
 頼義の反故と、反故を為す故に猜疑心を深めたこと(←さすがは頼朝の先祖だ)は部下の離反という被害をもたらした。


 反故のしっぺ返しは部下だけではなかった。
 恭順の意を示しても滅ぼされようとするぐらいなら命懸けで戦おうとした安倍軍の前に、頼義義家父子は長きに渡る泥沼の戦いの日々を余儀なくされた。伊達に「九年の役」などと呼ばれてはいない。
 和を請う気持ちに対して、でっち上げの殺人事件を持ち出してまでこれを踏み躙った相手への怒りがうなぎ上りとなるのは全くもって自然の理だった。
 当然の如く安倍軍の戦意凄まじく、戦いが始まった天喜四(1056)年に源氏軍は衣川で大敗した。
 翌天喜五(1057)年に頼義は、安倍一族の一派で頼時より北に住む安倍富忠を味方に付けて鳥海柵に頼時を負傷させ、死に至らしめた。だが、それでも貞任が頑強に抵抗を続け、同年一一月には黄海(きふみ)にて源氏は大敗した。
 頼義義家父子は自らを含むたった七騎で敗走する始末だった。


 反故の余波は戦後も続いた。
 頼義は長年の苦労が実って、安倍氏より更に北に勢力を持つ清原武則(きよはらのたけのり)から一万を超える援軍を得て、遂に康平五(1062)年九月一七日に厨川(くりやがわ)に貞任を討ち取り、勝利した。
 そして頼義はえげつない報復に出た。

 討ち取った後に斬首した貞任の首を丸太に釘で打ちつけて晒しものとし、同日、自らを裏切った藤原経清を出来るだけ苦痛を長引かせる為に、錆び刀により鋸引きにして斬首した

 これにて奥羽から敵対勢力が一掃され、源氏の奥羽支配が九年の時を経て完成するかに思われた。
 だが前述した様に、朝廷は源氏の手柄を認めず、頼義を伊予守として、再度奥羽には向かわせなかった。
 安倍氏亡き後の奥羽は、前九年の役で国府軍に協力した俘囚の清原武則に任された。

 この清則の息子の武貞の代に、武貞と先妻の子・真衡(さねひら)、武貞の妻(安倍頼時娘)の連れ子にして藤原経清の遺児・清衡(きよひら)、武貞と再婚した安倍頼時娘が新たに産んだ家衡(いえひら)の三兄弟が奥羽の統治を巡って争いが起きた。
 そこに源義家が介入した(後三年の役)が、結局源氏の勢力拡大を望まない朝廷は後三年の役を「私闘」と決めつけて恩賞を出さず(←倫理的に正しい)、最後には奥羽は三兄弟最後の生き残りの清原清衡が実父の姓である藤原に戻し、藤原清衡が奥州藤原氏の始祖となり、源氏の奥羽支配はそれより一〇〇年以上も後の源頼朝による奥州征伐を待たなければならなかった。

 源頼義義家父子及びその郎党にしてみれば多くの血を流しながら得た「奥羽」という名の「油揚げ」を「清原氏」や「奥州藤原氏」という名の「鳶」にさらわれた形になった訳である。
 だが、恭順を踏み躙ってでっち上げによる和睦を踏み躙る輩に地方における覇道を確立して欲しく無いと考えるのは蝦夷達だけではなく、平将門や藤原純友の例を見てきた朝廷に取っても望まぬことだったのであろう。
 戦乱に巻き込まれて命を落とした源氏軍・安倍軍・清原軍の名も無き兵士並びに東北住民こそいい面の皮だっただろう。


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平成二七(2015)年七月一三日 最終更新