反故にするんじゃねぇ!

 「人類の歴史とは戦争の歴史である。」と断ずる人々が少なからず存在する。
 確かに、近現代まで多くの国々が他国との戦争、もしくは自国での内紛と無関係であり得ず、誠に残念ながら戦史は今日も綴られ続けている。

 「人類史=戦史」の構図は一日も早く廃れて欲しいが、この構図は存在していなかったら、この房は『戦国房』とは名付けられていなかっただろう(苦笑)。
 そして戦争が続く以上、「兵は詭道(騙し)なり」という言葉のように、争いに「騙し」は付き物となっている。

 だが、勝利を得る過程の「騙し」は、ある程度はやむを得ない物としても、「争いを沈める為の話し合い中の謀略」、「争いを終えて和睦した後の騙し」、「争わない為の双方の決まりごとに対する蹂躙」−所謂「反故」は誰が誰に対して行ったものでも薩摩守は怒りを禁じ得ない。
 誰だって和平・和睦・幸福の為に行った約束事が反故にされれば怒髪天となろうし、恨みは骨髄に達する。
 それは騙しその物に対する怒りであり、備え無き痛みに対する怒りでもある。

 以前当房に拙作・『戦国ジェノサイドと因果応報』をアップしたが、そこではジェノサイドを、「降伏を認めない」・「助命を反故にした」・「責任者も一兵卒も同様に処刑」・「無抵抗状態を皆殺しにした」の四点にて定義した。
 本作では残虐さではなく、一度相互に認めたり、決めたりした筈の事に対する約定違反の卑劣性とそれに対する怒りの大きさを説く物として、日本史上、主に権力者が弱者に対して為した「反故」というものに注目した。
 第壱頁 アテルイと平安朝廷…踏み躙られた武士の節義
 第弐頁 源頼義と安倍貞任…改名の誠意も通じず
 第参頁 長田忠致と源頼朝…駄洒落で締め括った酷刑
 第肆頁 長島一向一揆と織田信長…本当にそうするしかなかったのか?
 第伍頁 小山田信茂と織田信忠…それぞれの主想いが裏目に
 第陸頁 吉川広家と徳川家康…報復は二世紀半の時を超えて
 第漆頁 シャクシャインと松前藩…THE・騙まし討ち
 第捌頁 松岡洋右とスターリン…どっちもどっちの反故野郎ども
 第玖頁 満州開拓民と南満州鉄道…置き去りの罪は深し
 最終頁 反故が壊す物と生み出す大過


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新