第壱頁 余豊璋………人質にして留学生にして亡命者にして手駒
人質名簿 壱
名前 余豊璋(よほうしょう) 生没年 不肖 身分 百済国世子 実家 百済王家(父は百済王国国王・義慈) 預け先 大和朝廷 人質名目 友好の証 冷遇度 参 人質生活終焉 王家復興の為の帰国
概略 日本における古墳・飛鳥時代、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三国に別れ、覇を競っており、余豊璋は百済の王族で、第三一代国王にして最後の国王となった義慈(ウィジャ)王の王子だった。正式な姓名は扶余豊璋だが、本作では『日本書紀』の記述に従って、「余豊璋」で通します。
大和朝廷と朝鮮三国の関係及びその背景を詳細に語るととんでもない分量になるので割愛するが(苦笑)、基本的に大和朝廷は三国の中では百済と仲が良く、新羅・高句麗はその時々の局面で友好関係は好転・暗転していた。
有名な話だが、仏教伝来も百済の聖明王(余豊璋にとっては五代前の祖先)によるものである。
その百済は北方にて高句麗と、東方にて新羅と敵対しており、更には隋・唐の圧力もあって三国の中でも最も不利な立場にあり(結果としても最初に滅亡した)、これらの国々と対抗する為にも日本との交流・同盟を重視した。
余豊璋が父・義慈王の何番目の王子で、如何なる育ちをして、いつ来日したかははっきりとしない。『日本書紀』によれば舒明天皇三(631)年三月とされ、『三国史記』(朝鮮半島高麗時代に成立し百済・高句麗・新羅についてしるした史書)では義慈王一三(653)年とある。
異説では皇極天皇元(642)年一月に百済国内での後継者争いに敗れ、世子の地位を異母兄に奪われて、人質として国外追放されたとするものもある。
朝鮮半島において、形勢不利な百済が日本の後援を得る為の人質として大和朝廷に留まった余豊璋ではあったが、一応は同盟国の王子としてそれなりの待遇を得て、朝廷の儀式にも参加していたとされている。
太安万侶の一族の娘を娶り、そのまま帰化に近い形で日本に留まると思われた余豊璋だったが、斉明天皇六(660)年、唐・新羅によって百済を滅ぼし、百済の重臣・鬼室福信が百済を復興すべく挙兵したという知らせがもたらされた。
事実上の最高権力者だった中大兄皇子(天智天皇。この時は皇太子)は大和朝廷の総力を挙げて百済復興を支援することを決定し、斉明天皇と共に筑紫朝倉宮に移った。
斉明天皇八(662)年五月、斉明天皇は余豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵五〇〇〇と軍船一七〇艘を添えて百済へと遣わした。
約三〇年振りに帰国した余豊璋は鬼室福信と合流し、百済王に推戴された。だが、亡命王子だった余豊璋と実権を握っていた鬼室福信との間にも間もなく確執が生まれ、天智天皇二(663)年六月、余豊璋は鬼室福信を誅殺した。
結果的にこの内部分裂は百済復興軍の弱体化を招き、程なく唐・新羅軍が押し寄せた。
余豊璋は拠点とした周留城(現・忠清南道)に籠城して日本からの援軍を待ったが、城兵を見捨てて脱出して大和朝廷軍に合流。八月二七、二八日に白村江で唐・新羅連合軍と水上戦を繰り広げたが、惨敗した(白村江の戦い)。
破れた余豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も六年後に唐に滅ぼされ、余豊璋は高句麗王族等とともに捕らえられ、唐の都・長安に連行された。
その後、高句麗王族は許されて唐の官爵を授けられたが、余豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされ、流刑地にて生涯を終えたが、その詳細は不明である。尚、余豊璋には共に日本に来ていた弟・善光がいて、善光は百済復興運動に参加せず日本国内に留まり、持統天皇期に百済王(くだらのこにきし)の姓を賜って正式に廷臣となって、事実上日本に帰化した。
人質経緯 詳細は不明である。そもそも本当に「人質」だったかも詳らかではない。
というのも、当時の東アジアにおける「人質」の概念が薩摩守の研究不足で詳らかではないからである。
恐らくは、友好を目的に、留学的な形で訪日した際に日本に留まった者と思われる。
訪日経緯については、上述した様に史書によって異なる。また、人質の多くはいずれ帰国するため、その待遇は基本的に丁重だったとされる(冷遇すれば帰国後に外交関係が悪化することになりかねない)。
ただ経緯がどうあれ、余豊璋が長く日本に留まったのは事実である。そして百済が滅ぼされたと知るや、即座の復興支援が朝廷内で決定したことから、やはり留学的な訪日及び滞日であった見られる。
待遇 一般に「人質」と云えば、格上の国家が、格下の国家に対して「裏切らない証」としてその身柄を預けられるイメージがある。
だが、『史記』をみると、秦の始皇帝の父・荘襄王は若き日に趙(←秦より遥かに格下)の人質として冷遇されたことがあり、強国から弱国に差し出されたケースも珍しくない。
一方で、飛鳥時代の日本史において、この余豊璋以外に大和朝廷の「人質」となった人物を薩摩守は寡聞にして知らない。
当時の大和朝廷は、漢・南朝・隋・唐に朝貢した一方で、蝦夷・隼人・渤海から朝貢を受け、時代によっては高句麗・新羅・百済も下手に出ている(乙巳の変における蘇我入鹿暗殺が三韓の使者を迎えた際のものであることは有名)。
そうなると、大和朝廷が様々な国々から人質を取ったり、場合によっては大和朝廷側が人質を差し出したりした例が散見されそうなものだが、本作制作に当って調べてみたが、やはり余豊璋以外の「人質」は見当たらなかった。
そうなると、余豊璋が「人質」だったかはやはり疑わしい。
史書によってははっきり「人質」と書いたものもあるが、それ等の書は概して外国に対して自国である日本を優位に書く傾向の強いものが多い(恐らく韓国や北朝鮮の歴史書では余豊璋を「人質」とは記述しない傾向にあるのではないだろうか?)。
薩摩守の推測が正しいか否かはさておき、当時の大和朝廷において外国の王族を「人質」とすることが一般的ではなかったとするなら、後々の外交関係からも(腹の内はどうあれ)余豊璋への待遇は慎重を期したと思われる。
故に余豊璋はある種の国賓としてそれなりの待遇を与えられたと思われる。大化六(650)年二月一五日、年号が白雉に改元され、造営途中の難波宮で元号の元となった白雉献上の儀式が行われたが、余豊璋はこれに出席している。
上述した様に太安万侶の一族多蒋敷の妹を娶わせたのも、厚遇の一環だったと思われる。思うに、当時大和朝廷は基本的に親百済・反新羅だったので、百済を唐・新羅・高句麗に対する防波堤と考え、百済との友好・同盟関係は今の日米以上に重要だったのだろう。
その為にも余豊璋を優遇して百済王族の心証を良くすれば円滑な外交関係を維持出来るだろうし、もし百済国内が反日的になったり、百済が外国に滅ぼされたりすれば(実際にそうなったのだが)、余豊璋は百済国内に親日王権を樹立させる重要な手駒となる。
史実として、百済が唐・新羅に滅ぼされた時、実権を握っていた中大兄皇子は百済復興支援を即決した。もし、現代において、台湾が中華人民共和国に滅ぼされるようなことがあった場合、台湾重鎮を擁立して中国に攻め込む国家が有るだろうか?
まあ、様々な意味で単純比較する訳にもいかないが、中大兄皇子が余豊璋を外交における重要カードと考えていたのは間違いないだろう。白村江の戦いにおける大敗後、中大兄皇子は慌てて唐・新羅からの報復に置萎えて、戸籍(壬申戸籍)を制定し、水城を築き、衛士・防人を配備した。
この泥縄展開を見ると中大兄皇子が内政家としてはともかく、外交・軍事に対してはその資質に疑いが生じるが、逆の見方をすれば、余豊璋擁立することの効果を過度に期待していたとも見える。
最終的に余豊璋は唐に捕らえられ、連行され、異国の地に果てた。高句麗の王族が唐臣として帰化したのに対し、百済王族がそうなれなかったのも、下手に仕えさせれば日本に味方して、唐に不利な行動を取ると踏まれたと見るのか穿った者の見方だろうか?
個人的には、余豊璋が唐に臣下として迎えられなかったのは彼が親日的な人間と見られたからで、そのことからも大和朝廷は余豊璋を「人質」とよりは、留学生的な客分として遇していたと推測する次第である。
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令和七(2025)年七月八日 最終更新