最終頁 現代に「人質」は本当にないのか?
第壱頁から第拾壱頁に渡って、日本史上における「人質」と云う存在を検証した。
検証前から予想していたことだが、やはり現代における「人質」とは様相が異なり、時代が同じでも人質としての待遇・危険度・惨めさは千差万別だった。
単純比較においても、松平竹千代が織田・今川家の人質だったことに、「可哀想に……。」と思う人もいれば、真田昌幸が人質だったことを知って、「えっ!?そうだったの??」と驚いたことのある人も多いだろう。
また、「人質」と聞いて、竹千代が人質だった頃程には、江戸時代の参勤交代の制において幕府の人質とされた諸大名の妻子を可哀想と思う人は少ないだろう。
ただ、現代社会における「人質」に対するイメージから、やはり一般には、「人質にされた者は可哀想、人質を取るなんて卑怯者。」と考える人は少なくないだろう。それだけ、現代社会における「人質」と云う単語の持つイメージは頗る悪い。
冒頭でも触れたが、現代社会では基本的人権尊重と云う日本国憲法三大柱の概念からも、個人が「人質」となることは許されていない。まかりまちがって人を質札として金を貸すようなことがあった場合、借主は借金を返済することなく人質を貸主から奪還出来る(勿論、倫理的には借りる方も貸す方も厳罰ものである)。
同時に、どんな形であれ、今後の社会に「人質」と呼ばれる存在が生まれることは許されない。「お前の身内を人質に取ったぞ!」と等とほざく奴がいれば、その言葉通りなら、そいつは既に犯罪者である。個人の身柄を人質として拘束する事への刑事罰は決して軽くない。
本作で検証した「人質」とされた者の中には、「人質」と云うよりは「客分」、「信頼の証としての預かり人」に等しい者も少なくなく、現代の「人質」ほどにはイメージの悪くない者も散見された。故に。歴史上における「人質」を現代における「人質」と同一視してはいけないとは思うが、それでも「人質」には身内の側を離れ、時として命の危機に曝されたことから、少なくとも現代・未来においては悪いイメージの言葉であり続けて欲しいと思っている。
ただ、逆を云えば、悪いイメージが抱かれ続けると云う事は、今現在においても「人質」と云う言葉が完全には滅びていないことを意味する。古代のものであれ、戦国時代のものであれ、江戸時代の制度的なものであれ、現代の犯罪に類するものであれ、「人質」と云う存在が存在しない為に、歴史と比較した現代の「人質」を検証し、その様な存在が今後生まれないことを祈念して本作を締めたい。
現代における事実上の「人質」 話が逸れるが、偉大な発明王として人類史上に多くな足跡を残したアルバ・トーマス・エジソンという人物がいる。彼の伝記はつとに有名で、小学生にして低能児と判断され、彼に体罰を加えた学校側にキレた母親が退学させ、以後、彼女が勉強を教えたことは有名だろう。
だが、そんな彼女が一度息子を激しくしかったことがあった。人間が空を飛ぶことを実現せんとして薬品を(当の本人は危険性を全く認識せず、一切の悪気なく)知人の少年に飲ませたときのことである。
当然、空を飛べる筈なく、少年は苦しんだ。幸い異変を察知したエジソンの父が少年が服用した薬品を吐かせたことで事なきを得た訳だが、当然エジソンは両親からこっぴどく叱られた。そしてこの時ばかりはエジソンを溺愛し、いつの時も彼の見方に立った母親までもが激怒し、エジソンに所有していた薬品をすべて捨てるよう命じた。
最終的には事態の重さを悟ったエジソンが泣いて謝ったことで母親は息子が科学実験を続けることを許したのだが、その時条件として出したのが、「尊い人間の体を決して実験には使わないこと。」だった。
「何を当たり前のことを………。」というのは現代の感覚。そもそも「人権」という物が重んじられるようになったのは世界的に見ても一八世紀以降で、それとて現代に至っても不充分との声が絶えない。
現代に生きる我々が「人質」と云う言葉に嫌悪感を示すのも、身柄を預かることでその人質が状況次第では命を奪われることもあり得ることを「非人道的」と考え、そんな「人質」を取ることを「卑怯」と捉えるからであろう。
実際、現代の報道で「人質」と云う言葉を聞けば、真っ先に思い浮かぶ犯罪行為は「立て籠もり」か「営利誘拐」だろう。だが、軽く考えてはいけないのは、縄で縛られたり、一室に監禁されたり、銃器を突きつけられたりすることで拘束状態にあることだけが「人質」と云う訳では無いと云う事である。
例えば、バイクの後部座席に無理やり乗せ、脱出不可能状態で疾走しただけでも逮捕監禁罪は整理する。また身柄を拘束していなくても弱味を握られた者が相手の云いなりにならざるを得ない状態に置かれた場合、それによって大切な家族の自由がままならない状態に置かれていれば「人質」に等しい。
麻薬密売人や振り込め詐欺の闇バイトにて捕まった末端の者から上層部への芋蔓逮捕がなかなか起きないのも、機密を漏らせば家族に危害が及ぶことを恐れて黙んまりを決め込むからと云うケースが多く、これも家族が「人質」にされていると云える。
上述は一例で、結局現代においても人間が「人質」にされるケースは撲滅されていない。
これも上述したが、借金をする際に人間を質札とすることは許されない。しかし、違法な金融業者などは違法を承知の上で法定以上の利息を取り立てる様な輩だから、返済不可能に陥った若い女性を風俗店で無理矢理働かせる…………という例も大いにあり得るだろう。ドラマや漫画などで「娘をソープに売り飛ばして金を作れ!」というのは、江戸時代や昭和初期には実際に「身売り」として普通にあったことで、それが現代にないとは誰も断言出来ない。
性的なサービス業への従事ならずとも、借金絡みで意に沿わぬ重労働を強いられる例は枚挙に暇がない。確かに「借りた方も悪い。」との論が全く無い訳では無いが、貸したことをたてに借主を強制労働に従事させたり、人としての尊厳を踏みにじる性的なサービスに従事させたりする権利は誰も持ち得ない。
一方、犯罪的なものではなくても、「人質外交」や「人質司法」と云う言葉も存在する。
殊に後者は、犯罪者を取り調べる筈の官憲が、拘留期限をたてに容疑者を拘束し続けることを悪とし、不当な拘束・拘留が容疑者の精神を弱らせ、やってもいない罪を自白させる、としてとにかく容疑者を釈放させんとする。
だが、おかしな話である。確かに拷問や、然るべき証拠も無しにただただ自白を求めて交流し続けるのは良くないだろう。自白意外に容疑者・被告に不利な証拠がない場合、有罪とされてはならない。
しかしながら、充分な証拠があり、もし容疑者が反社会的な集団の一員で、釈放することで証拠隠滅や、被害者への報復に走る恐れがある場合の拘留継続は止むを得ないと考える。逆に、証拠隠滅や逃亡の恐れが無い場合は保釈が認められるし、真犯人が捕まるなどして無実が証明されれば釈放される。
取り調べや拘留条件に違法性が有ればそれは幾ら非難しても良い、とうか非難されるべきだ。
だが、釈放を勝ち取りたい一心で拘留自体を「人質」と評するのは如何なものだろうか。
「人質」を許さない為に 尊い人間の身の上が、何の罪もなく事実上の「人質」とされることを阻止する為に何が必要だろうか?
まず、拘束を伴わないものでも、人の弱みを握り、その人を抵抗・逃亡不可能状態に陥らせ、意に沿わない不当な労働に従事させることが如何に卑怯で卑劣であるかを司法と報道がしっかり示すことだろう。
例えば、性的なサービスでも、自らの意思で抵抗なく受け入れ、従事している人もいれば、給金の高さに我慢して従事している人もいよう。さすがにこれは第三者の介入できる問題ではない。だが、その裏に借金や恐喝が潜み、退職の自由が奪われているのであれば、それはしっかり司法が裁き、マスコミも興味本位ではなく、同様の犯罪を防ぐ為にもその卑劣さや、狡猾な罠の例をしっかり報じ、世の安寧に貢献すべきである。
余り詳しく書けないが、道場主もかつて某ブラック企業にて、退職を認められずに給与・労働時間・その他の待遇で不当な扱いを受けたことがあり、諸事情からこれに抵抗出来ずに苦しんだ時期があった(結局その会社は脱走した)。故に、人質・奴隷に等しい労働従事が如何に辛く、屈辱的なものであるか少しは分かるつもりである。
また、「人質司法」についてだが、これを防ぐのは警察・検察・司法関係者による情報開示が肝要と考える。何故に拘留が継続されるのか?という理由を示し、取り調べも可能な限り可視化することで真っ当な取り調べが行われていることが示され、不起訴・釈放となった際も、その理由をはっきりさせれば、「容疑者=犯罪者」との偏見も薄れ、間違っても「容疑者=人質」とはならず、正当な取り調べが阻害されることも減るだろう。
また、「人質」を伴う犯罪にしっかり厳罰を与える事も大切だ。営利誘拐による殺人は死刑か無期懲役しかない厳罰に処されるが、人の弱みを握って己が意に従わせる「恐喝」では一〇年以下の懲役にしか処されない。これでは余り卑劣さは伝わらず、裁かれた側の罪悪感も薄いだろう。
同時にこれは容疑者に味方する弁護士側にも云える。弁護士が容疑者に味方するのは責務で、容疑者に有利な証拠を揃え、不利な証拠の矛盾・薄弱さを突き、不当な取り調べ・拘留を阻止するのは極めて真っ当な業務である。それ故、ただ警察・検察の上げ足を取るのではなく、容疑者が潔白であることを示す事柄は(その人物の名誉やブライバシーの問題もあるとは思うが)可能な限り詳らかにし、世の理解を得るもの大切だと思うが、如何だろうか?
いずれにせよ、「明らかにしない。」が多過ぎるから、世の人々は検察に対しても、弁護士に対してもやきもきしたものが払拭出来ず、取り調べの結果出た不起訴・釈放・無罪に対して両手を広げてこれを受け入れられず、容疑者(とされた者)への白眼視が延々と続く。
確かに、守秘義務もあるし、業務上の機密もあるし、何でもかんでも開示することは法で義務付けられている訳では無い。しかしながら、容疑の認否、不起訴の理由も明らかにしないことを連発して世の信用を欲するのは「おこがましい。」と云わざるを得ない。
明かせない理由の一端を少し述べるだけでもかなり違うとは思うのだが。
ともあれ、歴史上のおける「人質」を現代感覚で語るのは良くないにしても、「人質」と云う単語が悪いイメージを持ち続け、その様な状態にされる人々が一人でも少ない世であって欲しいものである。
令和七(2025)年九月一七日 薩摩守
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る
令和七(2025)年九月一七日 最終更新