第拾壱頁 伊達秀宗………後半生影響した「人質」の日々
人質名簿 拾壱
名前 伊達秀宗(だてひでむね) 生没年 天正一九(1591)年九月二五日〜明暦四(1658)年六月八日 身分 伊達家庶長子 実家 伊達家(父は伊達政宗) 預け先 京都聚楽第(豊臣秀吉) 人質名目 忠誠の証 冷遇度 参 人質生活終焉 別家としての独立
概略 「独眼竜」の異名で有名な伊達政宗を父に、側室・飯坂御前を母に庶長子として天正一九(1591)年九月二五日に陸奥柴田の村田城に生まれた。幼名は兵五郎。
庶長子とはいえ、当時政宗と正室・愛姫(めごひめ)の間に婚姻から一二年を経ながら男児が無く、慶長四(1599)年一二月八日に嫡男・虎菊丸(忠宗)が生まれるまで、殆んど嫡男と見做されていた。
待望の男児を得た政宗だったが、兵五郎が生まれる前年に天下は豊臣秀吉によって統一され、政宗は派手なパフォーマンスを交えた謁見で生き残りに成功し、一廉の人物と認められるとともに、油断のならない人物とも見られていた。
文禄三(1594)年、政宗に伴われて豊臣秀吉に拝謁し、愛姫と共に秀吉に人質として差し出されることになり、伏見城で育った。
翌文禄四(1595)年七月八日に、関白豊臣秀次が謀叛の罪で関白の地位を追われ、一週間後に切腹を命じられた、所謂、秀次事件が勃発。政宗は秀次と親密だったことであわや連座し掛けた。
幸い、徳川家康の取り成しもあって、罪に問われなかった政宗だったが、もし連座した場合は、隠居して家督を兵五郎に譲り、伊予への国替えとなるところだったと云われている。
実際、八月二四日に在京の伊達家重臣一九名の連署による起請文提出を命じられ、万一政宗に逆意があった際には、直ちに隠居させ、兵五郎を当主に立てことを誓約させられた。
文禄五(1596)年五月九日、秀吉の猶子となり、秀吉の元で元服し、「秀」の偏諱と、伊達家の通字である「宗」の偏諱を受けて伊達秀宗と名乗った。同時に従五位下・侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授り、秀頼のお側小姓として取り立てられた。
秀吉が薨去し、慶長五(1600)年、石田三成が徳川家康打倒の兵を挙げると、三成は大坂に在住する諸大名の妻子を人質とした。その際、東軍の有力大名政宗の長男でありながら秀頼の近しい家来である秀宗の扱いに三成も当惑し、宇喜多秀家の邸に預ける形で政宗に対する牽制とした。
幸い、関ヶ原の戦いは徳川方の大勝利で、政宗は二万石の加増を受け、六二万石の大大名となり、長女・五郎八姫(愛姫の娘で忠宗の姉)と家康六男・松平忠輝との婚約も正式に整い、徳川政権下における伊達家の立場は外様ながらその地位を固めた。
秀宗も慶長七(1602)年九月に家康に拝謁し、徳川家の人質として江戸に移ったが、翌慶長八(1603)年一月に政宗が虎菊丸を家康に拝謁させたことで秀宗の立場は微妙のものとなった。この謁見は家康が征夷大将軍に任じられる一ヶ月前のことで、政宗がこの重要な時期に虎菊丸を家康に謁見させたことで虎菊丸の伊達家後継者としての立場を強固にしたと見られる。
謁見の三年後、虎菊丸は家康最後の娘・市姫と婚約し、市姫が不幸にして夭折すると、池田輝政の娘(母は家康の次女)を秀忠養女として婚約が為され、慶長一六(1611)年一二月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗ったことにより、秀宗の伊達家家督相続の可能性は完全に消滅した。
慶長一九(1614)年大坂冬の陣が起きると父と共に参戦し、これが秀宗の初陣となった。
冬の陣後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に伊予宇和島一〇万石が与えられ、秀宗が別家としてこれを嗣ぎ、同年一二月二五日に初代藩主となった。
この一〇万石拝領は大坂の陣の論功行賞では、最多の恩賞だった。だが、政宗が秀宗の宇和島入部に同道させた家臣団は政宗が選んだ者で、秀宗を補佐すると同時に、目付け役でもあった。
元和六(1620)年、秀宗は事あるごとに彼の言動に口を挟む家老山家公頼を誅殺し、一族も皆殺しにした。そしてこのことを幕府にも政宗にも報告しなかったため、政宗は激怒し、秀宗を勘当した。更に政宗は翌元和七(1621)年に老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。
騒動は、利勝の説得を受けて政宗が申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、後継者になれなかった悔しさや、長年の人質生活を送らされていたことから、父を恨むに至った本音を吐露した。政宗も秀宗の気持ちを理解し、勘当を解き、この面会を機に父子関係は和解に向かい、和歌を交歓したり、政宗から茶器や香木が贈られたりもするようになった。
寛永一三(1636)年五月二四日に政宗が死去すると翌六月に仙台覚範寺で営まれた葬儀に次男・宗時と共に参列した。
その後、宇和島藩主として内政に尽力し、寛永一四(1637)年に起きた島原の乱には出陣こそしなかったものの、幕命で藩兵を派兵した。
承応二(1653)年、後継者として期待していた宗時が三九歳で早世し、三男の宗利を世子とし、明暦三(1657)年七月二一日、宗利に家督を譲って隠居した。
明暦四(1658)年六月八日、江戸藩邸にて病没。伊達秀宗享年六八歳。
人質経緯 伊達秀宗が人質となった経緯は特別なものではない。前頁の真田信繁の項でも触れているが、後の世、天下が徳川幕府の統べるところとなった際、全大名の正室・世子は江戸の大名屋敷に留め置かれ、人質とされたが、豊臣秀吉もほぼ同じことをやっており、諸大名の正室・世子は京都聚楽第近辺に住まわされた。
つまり、秀宗と同じ立場の人質はごまんと存在した。また、徳川幕府成立後は家康に謁見した、直後に江戸にて幕政下の人質となった。これまた後々の参勤交代の制の端緒だった。
よって、秀宗が人質となった「経緯」は時代的にも特別視せず、この程度に留める。
待遇 豊臣秀吉並びに徳川家康の政権下で「人質」となった者の中で、薩摩守が伊達秀宗を採り上げたのは、数多く存在する「人質」の中で、彼が独特の存在感を放っていると見たからである。
歴史の結果論だが、羽柴秀吉が天正一三 (1585) 年に関白・豊臣秀吉となった段階で、天下人としての成功は半ばなったも同然だった。既に徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・長曾我部元親といった大大名が臣従し、その後、九州征伐、小田原征伐を経て天下を統一した訳だが、これらは彼等が惣無事令と云う関白の名の下に出された私闘禁止命令に従わなかった咎で行われ、既に臣従していた諸大名が従った。
奥羽統一目前だった伊達政宗が、結局は戦わずして降伏したのも、関白の権威と、既に全国の諸大名が秀吉に服していたと云う事実が大きかった。
降伏した結果、政宗は宿敵・蘆名義広を滅ぼして得た会津を召し上げられた。
だが、降伏を許した秀吉にとっても、政宗は油断ならない手合いだった。
会津は没収したものの、六〇万石の大身として畿内からは遠い奥羽で大勢力を保っていた政宗は、その後も葛西・大崎一揆を扇動した疑惑が付きまとい(実際に先導していたのだが)、母方の伯父である最上義光と手を組めば北条・島津以上の難敵となる。
となると、人質として留め置いた秀宗への待遇は硬軟両面において色々考えざるを得なかった。
京都に人質として差し出された時の秀宗はまだ四歳だった。数え年なので、現在で云えば三歳で、幼稚園にも上がっていない。そして人質の任は正室と嫡男が担わされたので、この時点で政宗唯一の男児だった秀宗は事実上の嫡男とされ、生母と引き離され、父の正室・愛姫とともに異郷の地に過ごすこととなった。四歳児には何かと耐え難いことも多かったことだろう。
一方で秀吉は秀宗を可愛がった。元々秀吉は実子に恵まれなかっただけに、周囲にいる幼児を愛でる傾向が強かった(←変な意味で云っているのではない)が、秀宗のことは相当気に入ったらしく、秀頼の小姓に任じた。外様大名の人質が幼君の小姓などに普通は任じられないだろう。
同時に上述した様に、秀次事件に際しては秀次と昵懇だった政宗を無関係と認める代わりに、万一政宗が叛意を抱いた際には政宗を隠居させ、秀宗を当主とすることを伊達家重臣達に制約させた。普通、謀叛となれば討伐・切腹・改易が当然で、「当主隠居」で済ませる等、寛大過ぎる処置で、秀宗への好意なしには考えられないだろう。
後年、秀宗が別家を立てて伊予宇和島一〇万石の大名となったのは有名だが、これは元々秀吉が、嫡男誕生の折には世子の立場を失うことになる秀宗を慮って、政宗に対して「いずれ独立した大名に取り立てる。」と約束したことが基とされている。
勿論、秀吉が没し、徳川の天下になったことで立ち消えとなる筈だったが、その徳川家の手で宇和島藩主に取り立てられた。これは秀吉同様、政宗を油断ならない存在と見ていた幕府による伊達家懐柔策とも、ほぼ確定的だった世子の座を失った秀宗を不憫に思った政宗の懇願によるものとも云われている。
いずれにせよ、庶長子による別家立てで一〇万石は破格である。
昭和六二(1987)年の大河ドラマ『独眼竜政宗』では、秀宗 (辻野幸一)の宇和島藩主就任を祝う席で、秀宗の生母・飯坂御前(秋吉久美子)は、仙台や江戸から見た宇和島の遠さから、「これは島流しじゃ……。」とぼやいていたが、家臣達は一〇万石と云う石高を指して、厚遇で放って、決して冷遇ではないとしていた。
確かに忠宗が継承する仙台藩六二万石と比べれば格は落ちるが、徳川御三家の支族でさえ、別藩を立てる際は三〜五万石程度だったことを考えると、外様の庶長子に対する待遇としては破格である。結局、飯坂御前は秀宗と共に宇和島に行くこととなって喜んだ(←尚、史実の飯坂御前は秀宗宇和島行き前に死んでます)。
その後の父子での騒動を鑑みれば、秀宗が特別だったと云うよりは、政宗が特別だったと云えばそれまでだが、それでも人質と云う存在が、取られた側のみならず、取った側にとっても何かと難しい存在であることをこの伊達秀宗が教えてくれているのは間違いないだろう。
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令和七(2025)年九月一七日 最終更新