第壱頁 阿倍仲麻呂………有名過ぎる望郷の念

氏名阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
生没年文武天皇二(698)年〜宝亀元(770)年一月
職業遣唐留学生
生まれ故郷大和
逝去場所
望郷の念度
概略 奈良時代の文人である。留学生として遣唐使船に乗って入唐し、唐で科挙に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。

「天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」………『小倉百人一首』に収録されていることで有名なこの短歌で「阿倍仲麻呂」の名を即座に思い浮かべる人は、歴史に然程詳しくない人達の中にも決して少なくないだろう。それほど、故国に替えることが叶わなかった阿倍仲麻呂は有名である(同名の藤原仲麻呂(恵美押勝)よりも)。


略歴 文武天皇二(698)年阿倍船守の長男として大和国に生まれた。祖父は蝦夷討伐で有名な筑紫大宰帥・阿倍比羅夫。

 若くして学才を謳われた。養老元(717)年、多治比県守が率いる第九次遣唐使(有名な吉備真備や玄オも留学生として同船していた)に同行して唐の都・長安に留学。

 唐の大学で学んで科挙に合格し、唐の玄宗皇帝に仕えた。
 中国史を少しでもかじったことのある方なら御存知の様に、科挙に及第するということは人生の栄達を得るに等しい快挙(本人のみならず、一族まで免税特権を得る特権階級に登れた)で、七〇過ぎになってようやく合格するケースもあり、青春を犠牲にするほどの勉学の日々を要し、身分問わず誰でも官吏に任用される平等なシステムの筈だったのに、実質的には幼少の頃から働かずにスパルタ受験勉強に没頭できる貴族や富豪でもなければ及第出来そうにない不平等なシステムだったのは有名である。
 そんな中国人でさえ、人生をかけてようやく及第する科挙に日本人である、しかもまだ二〇代の仲麻呂が合格したのは、「快挙」というより、「怪挙」と云って良かった。これだけで仲麻呂が如何に学問で気に優れた人物であるかが伺えるというものである。

 当然の様にその学才は玄宗皇帝に愛でられ、神亀二(725)年、洛陽の司経局校書として任官、神亀五(728)年に左拾遺、天平三(731)年に左補闕と昇進を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲といった、世界史的にも有名な唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

 天平5年(733年)多治比広成が率いる第一〇次遣唐使が四船にて来唐したが、更に唐での官途を追求するために仲麻呂は帰国しなかった。
 翌年帰国の途に就いた遣唐使一行は第一船(吉備真備と玄オが乗船)のみが種子島に漂着して帰国に成功したが、残りの三船は難破した。
 第二船(副使・中臣名代が乗船)は福建方面に漂着し、一行は止む無く長安に戻った。再度帰国の途に就くも、今度は崑崙(チャンパ王国)に漂着して現地人に捕らえられるという不幸に遭った。一行の中から遣唐使判官・平群広成達四人が脱出してきたが長安に再々度戻ってきた。最終的に広成等は渤海経由で日本に帰国することが出来たが、これには仲麻呂の尽力があった。

 懐かしの日本で大仏の開眼供養が行われた天平勝宝四(752)年、仲麻呂は衛尉少卿に昇進。この年、藤原清河率いる第一二次遣唐使一行が来唐。既に在唐すること三五年に及んでいた仲麻呂は清河等とともに、秘書監・衛尉卿を授けられた上で翌年の帰国を図った。
 この時王維は「秘書監の日本国へ還るを送る」仲麻呂の唐での名前は「晁衡」)の別離の詩を詠んでこれを惜しんだ。

 だが、仲麻呂が清河とともに乗船した第一船は暴風雨に遭って南方へ流された。一時は仲麻呂横死の報も流れ、李白は彼を悼む七言絶句・「哭を詠んだほどだった。
 実際には仲麻呂は死んでおらず、船は以前平群広成等が流されたのとほぼ同じ様に漂流し、ルートをたどり、安南の驩州(現:ベトナム中部ヴィン。当時は唐の支配下にあった)に漂着した。
 結局、仲麻呂一行は二年後の天平勝宝七(755)年に長安に戻った。この年、安禄山の乱が勃発し、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来していたが、唐は行路が危険である事を理由に清河等の帰国を認めなかった。

 仲麻呂は帰国を断念して再び唐朝に仕え、天平宝字四(760)年には左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使として苦い思い出のあるベトナムに赴き、総督を務めた。以後六年間ハノイの安南都護府に在任し、天平神護二(766)年・安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督に昇進したが、結局、日本への帰国は叶わず、宝亀元(770)年一月に逝去した。阿倍仲麻呂享年七三歳。
 共に帰国に失敗した藤原清河も唐にて客死したが、唐で娶った妻との間に生まれた娘が後に来日したと云う。

 なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を充分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。


帰国が叶わなかった事情 早い話、遣唐使船による日本と唐の間を往復する航海が非常に危険なものだったから、の一言に尽きる。だが、これには当時の航海技術よりも、国際情勢が大きく関与していた。
 遣唐使には舒明二(630)年〜寛平六(894)年の、二六四年の歴史があったが、初期と中期以降で航路が大きく異なり、実は初期航路の方が難破による犠牲は少なかった。

 まずは下記のWikipedhiaより転載した図を参照願いたい。
 

 舒明二(630)年の遣唐使開始直後は、朝鮮半島の西岸を沿う様な航路を進んでおり、海上が大荒れに見舞われた際には早々に同盟国でもあった百済に寄港し、その助けを得ることも出来た。
 だが天智天皇二(663)年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗して以降、大和朝廷は新羅とは何かと不仲で、寄港していた百済の港も新羅の港と化していたため、国防策の変更に伴い、それまでの航路は天智天皇四(665)年で終わった。
 天武政権が成立した大宝二(702)年から、大仏開眼の天平勝宝四(752)年までは、遣唐使船は朝鮮半島を避け、奄美大島、阿兒奈波(アジナワ。現・沖縄)を経由しながら、蘇州を目指す航路が採られたが、この航路は台風の進路でもあった
 遣唐使は云うまでもなく唐との外交使節だが、歴代中国の王朝は対等な外交関係など認めていなかった。勿論、歴代王朝の中でも隆盛を極めた部類に入る大唐王朝はコテコテの中華思想の持ち主で、早い話、遣唐使船は「朝貢船」でもあり、その性質上、台風の季節にこの航路を辿った。
 一般に、遣唐使が、「遭難が多く、命懸けの渡航だった。」と見られるのはこの時期のイメージと云える。
 図にもあるように、宝亀四(773)年からは九州北部から蘇州を一直線に横断する航路となったが、同年は桓武天皇が立太子され、天武王朝が終わりを告げた時期でもあった。

 そして、皮肉にも最も危険な航路を取った、最後の航海に阿倍仲麻呂と、次頁の栄叡の友・普照と鑑真が搭乗していた。結果、前述した様に仲麻呂が登場した船は難破して、漂流の果てにベトナムに漂着し、ただ一度臨んだ帰国は叶わなかった。

 他にも、玄宗・粛宗・代宗の皇帝に仕え、特に玄宗皇帝には気に入られ、なかなか帰国許可が降りなかったというのもあるが、これは偏に才を愛でられてのことであった。
 第一二回遣唐使が唐を訪問した際、仲麻呂は玄宗皇帝に日本の使者を高官や貴族でさえ入室を許されない皇室文庫や、神聖な三教殿への案内するよう任された、と云うから並みの信頼ではない。
 かかる対人関係が築かれていれば、玄宗ならずとも仲麻呂に悪いと思いつつも、簡単に帰そうとしなかったであろうことは想像に難くない。

 前述したが、「日本人でありながら科挙に合格した。」というだけで仲麻呂が学才のあった人物であることを示すのは充分である。だが詳しく調べると、科挙の中でも特に屈指の難関を突破していることが分かる。
 唐に来て、長安のおける最高峰学問機関・太学に学んだ訳だが、九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)を修め(←この時点で中国人でも相当な学才を要する)、高等文官試験は、当時最も難しいと云われた進士科に合格していた。

 進士科の競争率は三千倍で、それよりは合格し易かった明経科でも競争率は三百倍だった。一説には、
 「明経科は三〇歳でも年寄り、進士科は五〇歳でも若い方。」

 と云われていた程だった。必然科挙の及第者は尊敬の対象となり、特に進士科の合格者は格別に尊重されていた。
 しかも仲麻呂が養老五(721)年に就いた役職から、二四、二五歳で合格したと考えられているから、唐宮廷の文武百官がその名に注目したことだろう。
 だが、ここで注意して欲しいのは、仲麻呂は単純に学問が出来ただけの男ではなかった。前述と被るが、詩仙・李白、詩聖・杜甫、詩仏・王維といった、さほど中国文化史に詳しくない人でも世界史や漢文を学べばその名前ぐらいは耳にする、中国史上に名高い超一流詩人達との交友も有名である。

 仲麻呂の帰国が叶わず、望郷の念を抱えたまま唐に客死したことは有名だが、薩摩守は、仲麻呂の帰国が叶わなかったことには、「彼自身、潜在意識の中では唐に帰化していたのではないか?」と分析・推測している。
 仲麻呂の生涯は七三年だったが、その内五四年を唐(当時唐の支配下にあったベトナムも含む)で過ごした。現在の年齢でいえば成人もしない内に故郷を離れ、人生の約七割四分を異郷に過ごしたのである。恐らく日本語よりも中国語を口にした割合の方が圧倒的に多かったことだろうし、友人・知人も故国よりも唐の方に多かったことだろう。
 もし仲麻呂に「何が何でも日本に帰るんじゃあ〜!!」と叫ばんばかりの強い帰国意志があれば、一度の渡航失敗で帰国を諦めたとは思えない。やはり阿倍仲麻呂という男は、唐に愛され、唐を愛した人物だったのではなかろうか?
 歴代皇帝や文人達にあれほど迄に愛されれば、望郷の念は消えずとも、唐への気持ちを凌駕するに至らなかった気がする。
 唐という国土と民が愛情で仲麻呂を束縛したとするなら…………少し弱めて欲しかった気がする。それこそ推測に過ぎないが、吉備真備が複数回唐を訪れたように、仲麻呂も再度唐を訪れ、結局は唐の土となったように思われる。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新