第弐頁 栄叡………共に帰る筈の師と友に先立って

氏名栄叡(ようえい)
生没年生年未詳〜天平二一(749)年
職業僧侶
生まれ故郷美濃
逝去場所唐・端州龍興寺
望郷の念度一〇
概略 奈良時代の僧。当時の日本仏教界の腐敗を憂い、浄化の為に戒律を制度化することが大切と考え、同門にして盟友の普照(ふしょう)とともに授戒師となって日本に来てくれる高僧を求めて入唐。
 揚州大明寺で鑑真とその弟子たちの日本動向を取り付けたが、国際情勢と海難で渡海に失敗を重ねる中、病を得て端州龍興寺に客死した。


略歴 栄叡の出身は美濃。奈良でも藤原家の菩提寺として名高い興福寺にて法相教学を学び、天平五(733)年に出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、普照とともに唐へ渡った。

 というのも、当時の仏教界は隆盛を極めるとともに腐敗し切ってもいた。
 飛鳥時代の蘇我氏と物部氏による崇仏派対廃仏派の戦いに蘇我氏が勝利して以降、大和朝廷は仏教国家となり、奈良時代になると、僧侶の組織が官僚組織の一部になり、僧侶は免税権を持つ特権階級ともいえた。
 それゆえ、衛士・防人といった兵役や税金逃れの為に、「私度僧」と呼ばれる自称・僧侶になる者が後を絶たず、朝廷もこれを弾圧した(行基が当初弾圧されたのは有名だが、彼の方が例外で、多くは真面目に修行する筈もなかった)。
 だが、勿論政治や宗教の腐敗が世の常なら、その浄化を志す人間が少なからず出てくるのも世の常である。栄叡、普照は戒律を授ける制度の充実が必要と考え、当時の日本に戒律を授ける、授戒師がいないことに注目。唐から高僧を招き、戒律の厳格化行う旨を調停に上奏した。
 二人の考えは税金逃れの似非僧侶を何とかしたい朝廷の思惑とも一致し、二人は第一〇回遣唐使の船に乗りこみ、唐へ旅立つこととなった。


 唐に着いた二人はまず洛陽大福先寺で具足戒を受けた(日本に授戒師がいなかったのだから、彼らもここで初めて授戒した訳だ。)
 その後首都・長安に赴き、高僧探しに掛かったが、それは困難を極めた。

 当時、大唐帝国は政治・文化のみならず、仏教においても先進国だったが、国家としては国際交流を重んじながらも、許可なき国民の出国を禁じていた (違反は死罪)。
 更に当時の日唐間の航路(前頁参照)は危険な難路で、無事に日本に辿り着ける確率は、五割程度と来ては、見ず知らずの国、日本に罪と危険を冒してまで赴こうとしてくれる高僧を探すのは非常に困難で、ようやく揚州大明寺に鑑真と出会ったのは入唐から九年経過してのことだった。

 当時鑑真は五五歳。仏教徒・僧が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派である律宗・天台宗を学んでおり、四分律に基づく南山律宗の継承者だった。
 しかも授戒を授けた者は四万人以上に達し、弟子の数は一〇〇〇名に及び、その中には名立たる高僧も多かった。
 栄叡と普照の熱心な要請を受けた鑑真は、弟子達に日本に行く気はないかと尋ねたが、弟子達はリスクを恐れた。業を煮やした鑑真は自分が行く、と云い出し、「和上が行くなら…。」となると堰を切った様に、弟子達は「私も」、「拙僧も」、「それがしも」状態となった。
 この流れは有名だが、「御坊達は誠に唐の人ですか?」と云いたくなる、丸で日本人(の国民性を見ている)みたいだ(笑)
 ここで最後の一人が手を挙げたところで、全員が一斉に「どうぞどうぞ!」と云えばダチョ●倶楽部やね(笑)。
 ともあれ、同行することになった鑑真の弟子は二一名に及んだ。
 栄叡と普照は当初授戒の為に「一〇人の高僧を連れて帰国する必要あり。」と踏んでいたが、まずはその倍の人員を確保出来たのだった。
 だがここからが大変だった。


渡航計画一回目。天平一五(743)年夏。
 鑑真、栄叡、普照達は、上海の南にある天台山に参詣すると嘘をついて出発した(←正に「嘘も方便」である(笑))。
 しかし、本音で渡海に乗り気でなかった弟子が、港の役人へ「普照・栄叡は海賊の密偵である。」と虚偽密告をしたため、普照・栄叡が逮捕されて失敗(後に無実と分かって釈放)。

渡航計画二回目。天平一六(744)年一月。
 出航に成功したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なり、失敗。

渡航計画三回目
 鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、失敗(栄叡は病死を装って出獄)。

渡航計画四回目
 江蘇・浙江からの出航は困難だとして、一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かったが、鑑真の弟子・霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。官吏の出航差し止め命令により、失敗。

 渡航計画五回目。天平二〇(748)年六月。
 出航後、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、一一月に日本へ向かい再出航したが、激しい暴風に遭い、一四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。(一行は当地の大雲寺に一年滞留。世話になった例に同島の寺院を修復したり、数々の医薬知識を伝えたりした。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている)。

 天平勝宝三(751)年、鑑真一行は揚州に戻るため海南島を離れた。だがその途上、長年の労苦が祟ったのか、端州の地で栄叡が病に倒れ、逝去した。
 苦楽を共にし、親友でもあった普照は栄叡の最期を看取るや、共に帰国することが叶わなかった絶望もあり、我を忘れて、号泣したと云う。
 鑑真もまた栄叡の病没に激しく動揺し、広州から天竺へ向かおうとしたと云われている(さすがに周囲が止めたが)。尚、鑑真が日本行きに失敗を重ねる中で両眼を失明してしまったのは有名だが、それは栄叡死去程なくのことで、南方の気候や度重なる渡航失敗に心身ともに激しい疲労し、加えて栄叡死去の精神的ショックも影響したのでは?と考え(たくな)るのは薩摩守だけではあるまい。


 栄叡の死後、普照は自分が疫病神なっているかのような心境に陥り、一先ず鑑真一行とも別れた。鑑真は普照に気に病まないことと、決して日本行きを諦めていないことを告げて餞とした。
 そして二年後の天平勝宝五(753)年、最後の渡航計画が実践された。前年に第一二回遣唐使が入唐していた(第一一回は企画倒れで中止)。栄叡と普照が入唐した第一〇回から一九年振りの派遣で、遣唐大使の藤原清河が渡日協力を約束してくれていた。
 だが玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかったため、国際問題になることを恐れた清河が鑑真一行の、密航せんとした決意に応じなかった。
 遣唐使の情報を察知し、吉備真備の船に乗り込んでいた普照は真備から清河が鑑真の乗船を拒否したことを聞かされ大いに落胆した。
 一一月一七日に出航。途中、暴風に遭い、清河と、前頁の阿倍仲麻呂が乗った大使船は南方に流されたが、大伴古麻呂の副使船は持ちこたえ、一二月二〇日に薩摩坊津の秋目に到着した。
 本来の目的を果たせず、呆然とした気持ちで故国の地を踏みしめていた普照だったが、そこに鑑真がいたのを知り、驚愕した。聞けば、副使の古麻呂が密かに乗せてくれたというもので、ここに一〇年目にして、普照の目的は達せられた。「栄叡とともに帰国する。」ということを除いてではあったが。

 その後、鑑真は天平勝宝五(753)年一二月二六日、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行、天平勝宝六(754)年一月、平城京に到着。聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住んで同年四月に、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで四〇〇名に菩薩戒を授けた(日本史上初の登壇授戒)。
 天平宝字三(759)年に、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置。

 天平宝字五(761)年、日本各地で登壇授戒が可能とするべく大宰府観世音寺及び下野薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
 天平宝字七(763)年、享年七六歳で唐招提寺に遷化(死去)した。

 また、普照も帰国後、鑑真とともに東大寺に住み、天平宝字三(759)年に旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上。その後、奈良西大寺の大鎮を務めたが、それ以外の余生と没年は不明。

 注:本来、栄叡の生涯は唐での客死で幕を閉じているが、彼の生きていた時間が引き継がれたことを示す為にも、鑑真と普照と日本到着後についても触れさせていただきました。


帰国が叶わなかった事情 単純に病気である。栄叡の生年は不詳で、恐らく同輩と思われる普照もまた生年が不明なため、唐で授戒師探し並びに帰国手配に奔走していた時の年齢も詳らかではない。ただ、日唐間の往復が命懸けの旅路だったことからも、極端な若僧や老齢者を派したとも考え難い。
 時代は異なるが、弘法大師(空海)様とともに入唐した橘逸勢は、阿闍梨となった御大師様に一緒に帰国することを誘われた際に、「朝廷から目地られた留学期間は二〇年なのに、二年で帰って大丈夫ですか?」と質問していたことからも、唐に渡り、帰ることはそれだけ長期スパンで見られていたことかも、恐らく栄叡と普照は二〇代か三〇代で入唐したと思われる。いずれにせよ、鑑真より年を食っていたとは思えない。

 そう思うと栄叡の病死は早世と云えるのだが、鑑真も失明したほどの激務状態にあって、二度も投獄された心身の衰耗も大きかっただろう。二度目に投獄された際は「病死扱い」で出獄しているから、本当に病身だったのかも知れない(人を騙すには、ある程度の真実が含まれている方が騙し易い)。

 加えて、前頁の阿倍仲麻呂同様、日唐間航路の危険もあったし、鑑真和上の人望が厚過ぎたことも裏目に出た面があった。
 栄叡が日本に戻れなかった様に、鑑真も唐に戻ることはなかった。鑑真和上本人は年齢的にも、使命感的にも揚州大明寺に戻ることを考えておらず、授戒師として日本に骨を埋める覚悟は持っていただろうし、日本行きを弟子の誰も名乗り出なかった際に、「これは仏法のためである!どうして命を惜しもうや(否、惜しみやしない‐反語)。」と述べていたが、弟子や信奉者の中には鑑真の渡日に反対のものも少なくなかった。
 前述した様に、五回の渡航失敗の内、三回は密告によって失敗し、成功した六度目とて、玄宗皇帝は鑑真の出国を許していなかった。
 勿論、自分が日本に渡ることを弟子や、信奉者達が妨害したのは鑑真にとって極めて不本意なことだったが、二度と帰らないと分かる旅路を止めたくなる人情も分からなくはない。
 だからこそ、この時代に真の仏法を広めるために客死の覚悟を厭わなかった栄叡、普照、鑑真には頭が下がる想いである。

 日本で客死した鑑真は有名な鑑真和上像が昭和五五(1980)年に「里帰り」したが、可能なら栄叡の遺骨か遺品の一つでも日本に戻したいものである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新