隠棲の楽しみ方

第漆章 徳川慶喜……多趣味と多産に道場主羨望!!


栄光 栄耀栄華の立場にあって、そこから失脚して生き延びた人を挙げるからどうも徳川家の人間が多くなるな…(苦笑)。
 ともあれ云わずと知れた徳川幕府一五代目にして最後の征夷大将軍である。
 徳川慶喜 (天保八(1837)年九月二九日〜大正二(1913)年一一月二二日)は徳川御三家の一つ水戸徳川藩藩主の子にに生まれた。
 父は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭で、母は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の娘・吉子で、七男に生まれた故に幼名は七郎麿(しちろうまろ) であった。

 某有名時代劇の有名台詞である「貧乏旗本三男坊」じゃないが、徳川御三家と云えども七男とあってはその生まれが将来に繋がる事は殆どなかった。
 ストレートに考えるなら本家を継ぐ可能性は皆無に等しく、次男・三男なら兄が早死にしたり、本家規模では分家する事もあり得るが、七男ではまずは養子の口が妥当な所であった。
 勿論それは作った側も作られた側も百も承知で、父・斉昭は七郎麿が良き養家に恵まれることを期して、彼に英才教育を施した。

 七郎麿は天保一二年(1841)八月一日に斉昭によって仮開館した講道館に七歳の折より登館し、傅役・井上甚三郎を初め、文学は会沢正志斎・青山延光、武は砲術が福地広延、弓術が佐野四郎右衛門、剣術・水泳が雑賀八次郎,馬術が久木直次郎と、優れた師を文武両道に宛がわれた。
 寝相の悪さを直す為に、刃二本を両頬近くに置いた状態で寝させられたエピソードは有名である(勿論傷付けるのが目的ではないので、七郎麿の就寝が確認されたら刃は取り除かれた)。


 英才教育の甲斐あってか、七郎麿は文武に優れた少年に育ち、第一二代将軍徳川家慶から御三卿の一つである一橋家の相続を請われた。
 家慶の父・家斉は一橋家の出で、八代吉宗の嫡孫にして一〇代将軍家治が嗣子なくして没した折に一橋家から御三卿の本家である宗家を継ぐことになったという経緯もあり、家慶にとっても一橋家は大事な実家にも等しい家だった。

 この時点で水戸家の出にして、七郎麿が家慶にとって実の甥(家慶正夫人と斉昭正妻=慶喜実母は、共に有栖川宮家出身の実の姉妹)にあたったとはいえ、七郎麿が如何に将来を嘱望される人物であったかがうかがえる。
 養子入りには時の老中筆頭阿部正弘の強い推薦もあった(いずれ詳しく取り上げたいが、阿部正弘は早世が惜しまれる幕末の英傑の一人、と薩摩守は見ている)。
 そしてその七郎麿は将軍家慶の偏諱を受けて「」の字を賜り、一橋慶喜が誕生した。
 時に弘化四(1847)年九月一日で、慶喜は弱冠一一歳。尚、正式な元服は同年一二月一日のことで、同日、従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任された。


 八年後の安政二(1855)年、慶喜は貞粛院一条の養女となった延(美賀子)と婚姻。黒船来航はその二年前の嘉永六(1853)年で、翌年には日米和親条約が結ばれ、鎖国は既に崩壊していた。
 その渦中で将軍・徳川家慶は病没(同年六月二二日)、混迷極める世相の中、後を継いだ一三代将軍徳川家定は生来病弱(脳性麻痺説があり、数々の奇行が伝えられている)で、幕政を担う能力はおろか、子供を作る力も周囲から見込まれてなかった。
 そしてそこに将軍継嗣問題が持ち上がり、一橋慶喜の名が史上にクローズアップされた。

 つまり家定の直系の先祖である吉宗の古巣、紀伊徳川家から紀州藩第一三代藩主にして、一一代将軍家斉の孫でもあった徳川慶福(とくがわよしとみ)を迎えんとする南紀派(主に尾張家・紀伊家・田安家)が生まれたのに対し、先代家慶の覚えも目出度く、家慶・家定の古巣である一橋家の英明の当主・一橋慶喜を迎えんとする一橋派(主に一橋家・水戸家)の対立が生まれたのである。

 父・斉昭の根回しで老中阿部正弘や島津家の支持も取りつけた慶喜だったが、家定生母・本寿院等が慶喜を嫌い抜き、阿部正弘の早世し、南紀派の井伊直弼が大老に就任したことから形勢不利となった。
 そして新大老・井伊直弼は安政五(1858)年に慶福擁立を独断で決定すした。
 その直後、将軍家定が三五歳で没し、同年一〇月一日、徳川慶福改め徳川家茂が第一四代征夷大将軍・内大臣・右近衛大将・源氏長者に就任した(後継決定直後の家定の病死には様々な説がある)。
 一橋派の野望を挫いた井伊大老は、更に勅許を得ないまま、米国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約を締結するなど強権を発動した。
   
 直弼の強権発動に怒った斉昭は、慶喜・越前福井藩主・松平慶永(春嶽)等とともに不時登城を行って井伊を詰問せんとしたが、却って直弼のために登城停止・隠居謹慎を命じられた(安政の大獄)。
 慶喜最初の失脚だが、彼を貶めた井伊直弼自身、二年後の万延元(1860)年三月三日に水戸藩を脱藩した浪士達に登城中に襲撃され、暗殺された(桜田門の変ことで慶喜は政治の表舞台に返り咲くきっかけを得た(同年九月に慶喜の隠居謹慎が解かれた)。

 二年後の文久二(1862)年に軍勢を率いて上洛した薩摩藩主の父・島津久光が孝明天皇に掛け合い、慶喜を将軍後見職(この時点で慶喜が二六歳だったのに対し、家茂は一七歳の幼さだった)に、松平春嶽を大老にせよとの勅命を引き出した。
 そして勅使・大原重徳の護衛として薩摩軍が江戸へ入り、談判に及び、難色を示した幕臣もついに慶喜を徳川家茂の後見職に、松平春嶽を政事総裁職に就任させることに合意した。時代的に見ても奇跡的な返り咲きであった。

 慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革で松平容保の京都守護職就任、参勤交代制の緩和、軍制改革等を推進した。
 翌文久三(1863)年の家茂の先触れとして上洛して、初めて天皇(孝明天皇)に拝謁した。
 拝謁時に、強硬な攘夷論者であった孝明天皇にその断行を迫られ、勅命を受けて江戸に戻るも、攘夷行動を取らず、生麦事件の賠償金の件では老中・小笠原長行が支払うことを黙認していたといわれている。
 そして尊皇攘夷を掲げ、藩祖毛利元就以来、幕府に面従腹背しながら京都で活動していた長州藩勢力の征伐問題や、家茂と和宮の婚姻による公武合体問題にも尽力し、朝廷のもとで開催された公武合体派、佐幕派諸侯による参与会議に出席の為に再上洛もした。

 だがその会議で横浜港などをめぐる攘夷問題で慶喜と島津久光らが対立した。
 結局、参与会議は解体し、久光は帰郷したため、父・斉昭以来の盟友ともいえる薩摩が幕府に背を向けるきっかけを生んでしまった。
 京都に残った慶喜は朝廷から禁裏御守衛総督に任ぜられ、松平容保らとともに尊皇攘夷派の浪士や過激派の公家の取締りを行った。
 元治(1864)元年に禁門の変(蛤御門の変)で京都の軍事的奪回を図り、慶喜は幕府軍を指揮して長州勢力を駆逐した(後に長州は朝敵とされ、これが第一次長州征伐へ繋がった)。

 第一次長州征伐の後は、長く違勅状態だった日米修好通商条約などの条約の勅許に奔走し、条件付で勅許を得たことで公武双方の顔を立てる等、慶喜は軍事に、政治に、外交に、内政に八面六臂の活躍をし、その活躍振りは後に征夷大将軍として行ったものよりも優れたものと云っても過言ではなかった(歴史的意義という意味においては将軍就任後の行動の方が大きいのだが)。
 間違っても徳川慶喜は臆病者でも暗君でもなかった。

 慶應二(1866)年六月には坂本竜馬を仲立ちで密かに薩摩藩と薩長同盟を結んだ長州藩に対する第二次長州征伐に幕府軍は敗れ、その最中に将軍家茂が大坂城で薨去(同年七月二〇日)し、慶喜は休戦の勅命を引き出さざるを得なかった。
 結果的に敗れた訳だが、これは慶喜よりも薩長と竜馬の方が一枚上手且つ、慶喜に運がなかったと云った方がいいと薩摩守(←「この文の流れで下手に自分の名前出すと話がややこしくなるぞ。」by道場主)は考える。

 勝海舟を厳島へ派して幕長休戦協定が結ぶと家茂の死から一ヶ月後の八月二〇日に徳川宗家を相続(この時点で田安亀之助は僅か四歳、前尾張藩主徳川慶勝は既に隠居の身でふさわしくないとされ、徳川一門に慶喜以外の有力将軍候補者がいなかった)した。
 そして一二月五日に正二位権大納言兼右近衛大将に叙任されると同日、征夷大将軍宣下となり、慶喜は第一五代征夷大将軍に就任した。時に徳川慶喜三〇歳。

 

没落 将軍就任後の徳川慶喜は積極的に欧米の近代的文化の摂取に努めた。
 フランス式の軍隊を編成したのは有名だが、これはフランス公使・ロッシュの助言を得て、軍制改革や外国公使達との会見を行ったりした事によるところが大きいと云えるだろう。
 欧米留学も奨励し、実弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)の留学・万博出席も有名である。

 一方で将軍後見職時以来、条約勅許問題の紛糾により政局の中心は朝廷、京都に移らざるを得ず、天皇は将軍に上洛を要求し、攘夷を迫っており、攘夷の実行に苦慮する幕府は、朝廷との間の調整の必要があった。
 故に慶喜は、文久三(1863)年の入京以来、天狗党追討出陣と数度の大坂下向以外は京都に常在。二条城で行われた将軍宣下の後もそれまで通り京都に滞在し、将軍在職中は江戸に帰ることはなかった。
 故に就任直後の孝明天皇が急死(公式記録は天然痘による病死だが、毒殺説が根強い)は痛恨の極みだった。
 過激な攘夷論者のヒステリックな面が目立つ孝明天皇だが、天皇自身は佐幕派で、天皇の急死は岩倉具視を筆頭とする倒幕派の急速な台頭を招いた。

 慶喜は兵庫開港問題の件でも勅許を得て島津久光らの追及をかわす等の尽力をしていた
 だが、薩長が武力倒幕路線に突き進む中、外交を初めとする諸問題からも政局混乱・社会激動は押さえ難く、外交方針が朝廷と幕府とで食違いを見せること等が問題視され、強力な国家を創る為、政権が一元化されなければならないと認識されるようになった。
 既に幕府に反対勢力を駆逐して実権を回復する力がなく、朝廷を中心とした新政権を樹立することで大名の合議制によって国政を運営に賭けた慶喜は政権を返上し、その後の大名の合議制による政権体制の中で指導力を発揮することに期待を繋がんとした。

 慶應三(1867)年一〇月一四日、土佐藩士後藤象二郎(←勿論坂本龍馬の差し金)の要請を受けた前土佐藩主・山内容堂の説得受けた慶喜は京都二条城において統治権を朝廷へ返還する旨の上奏文を提出した。所謂、大政奉還である。
 翌一五日朝廷は慶喜に参内を命じ、小御所において大政奉還勅許の御沙汰書を渡した。ここに源頼朝以来七〇〇年に及んだ武家政権はその終焉を告げた

 一見、永きに渡る武家政権を終結させた全面降伏に等しい大政奉還だったが、その実、上表書を提出したその日に討幕の密勅を受けた薩長両藩に(同時にその間隙を縫って日本植民地化を進める欧米列強にも)肩透かしを食わせ、要らざる内乱を最小限に食い止めた、優れて高度な政治的判断であった(この際断言してやる)。


 勿論すべてが慶喜の思惑通りに進んだ訳ではない。
 当初慶喜は朝廷には行政能力はないと判断し、徳川を盟主とした新しい政府組織を模索していたと云われている(実際大政奉還直後もイギリス公使パークスは交易に関して慶喜を頼り、フランス公使のロッシュに至っては幕府延命の援助まで申し出ていた)。
 しかし、革命の性で、責任者の血を見ずには治まらない歴史のセオリーなのか、武力討伐路線を望む薩摩の大久保利通・西郷隆盛や野望多き公家の妖怪・岩倉具視等の画策で、新政府一二月九日に王政復古が宣言され、四月一一日慶喜には辞官納地が命じられた。
 これは既に降伏した者に追い討ちをかけるもので、慈悲も正論もない、岩倉並びに薩長のえげつないまでの執念であった。否、武家の総大将故にここまでしないと安心出来なかったのかも知れない。

 慶喜は争いを避けて二条城から大坂城へ退去したが、明治元(1868)年に薩摩による江戸での市内工作や慶喜への仕打ちに怒る会津藩、桑名藩が兵を用いて京都の軍事的封鎖したことから衝突が起こった。
 慶喜の内戦阻止への努力も空しく、鳥羽・伏見の戦いが起った。
 余りの薩摩の露骨な兆発に慶喜も「討薩の表」を作り、「君側の奸を除く」と称して、軍を京に進めたが、薩長軍に「錦の御旗」が与えられ、大義名文を失うに及んで諸大名の離反が相次ぐ中、慶喜もこれ以上の抵抗は無益、と考えた。
 そして松平容保・松平定敬(桑名藩主)、老中・板倉勝静等と幕府軍艦「開陽丸」で大坂を脱出し、江戸城へ入ったのだった。


 降伏した筈の慶喜への追討令まで下る理不尽さに、幕閣では小栗上野介忠順(ただのぶ)等が徹底抗戦も主張した。
 だが、慶喜は彼等を宥め、朝廷への恭順を主張して二月に幕臣・勝海舟に収拾を一任して上野寛永寺の大慈院において謹慎した。

 四月、新政府軍の西郷隆盛と勝との会談で江戸城の無血開城・徳川宗家存続が決定し、慶喜の処遇は水戸謹慎となり、かつて自分自身も学んだ水戸藩校・弘道館において引き続き謹慎を行った。
 七月に水戸から駿府へ移ったが、翌明治二(1869)年に戊辰戦争が終結すると、同年九月に慶喜の謹慎が解除された。時に徳川慶喜三三歳。
 とかく、戦う事を選ばなかった慶喜の決断は長く「敵前逃亡」・「臆病者」の非難・嘲笑を生みもしたが、「韓信の股潜り」並に屈辱に耐えた慶喜の勇気は、要らざる内乱が避け、欧米列強からの干渉を受けずに済ませたとの評価の声も遥か以前から理解する人は理解していた。

 もし慶喜が徳川幕府最高権力者の地位とプライドに固執し、既得権益を手放そうとせずに徹底抗戦を選んでいれば、公武の争いはかなりの確率で欧米列強の干渉を生んだであろうことは想像に難くない。
 前述のフランス公使ロッシュの武力援助の申し出も、下手に応じると日本の一部をフランスに割譲する事にもなりかねない危険性が充分にあった。
 実際、フランスは戊辰戦争後にも五稜郭に共和国を建国せんとした榎本武揚にも援助の交渉を行い、仏軍を日本に介入させようとしていた。
 世界史を紐解けば、個人の権力を守ろうとして内憂の排除に外国の軍隊を頼ったが為に「ひさしを貸して母屋をとられる」の例え通りになりかけた例が腐るほどある。
 屈辱に耐え、抵抗を選ばなかった徳川慶喜の英断に多くの日本人が救われた事は紛れも無い事実で、幕臣でありながら江戸城明け渡しに応じた勝海舟にしても西郷との交渉が決裂した場合に、江戸を焼き払う焦土戦術や、軍艦による英国亡命と云った手段を用いてでも慶喜の首を新政府軍に渡すまいとして会談に臨んでいた。



隠棲 征夷大将軍就任から一年を経ずして将軍位も幕府も失った徳川慶喜を幼き日の道場主は随分可哀想に思った。
 実際、足利義昭の例にも見られる様に、史上多くの亡国のラストキング・ラストエンペラーとは多かれ少なかれ惨めさが付きまとう(ニコライ二世然り、愛深覚羅溥儀然り、ヴィルヘルム二世然り)。勿論慶喜にもそれが全くなかった訳ではないだろう。

 平成一〇(1998)年にNHKで放映された大河ドラマ『徳川慶喜』では最終回にて本木雅弘氏演じる徳川慶喜大政奉還後の謹慎中に面会した若尾文子さん演じる貞芳院(慶喜母)の前で、先祖の偉業を放棄した罪悪感に泣き崩れ、貞芳院は慶喜の苦渋の決断が決して国の為に間違ったものではないと諭し、慰める姿が道場主の脳裏に色濃く焼き付いている。多少の悔しさはあって当然だろう。

 だが、本作で取り上げてきた隠棲者達を見ても明らかな様に、最高権力の座を捨てる事は必ずしも不幸な事となる訳ではない。
 むしろ重圧からの解放を生むことがこの徳川慶喜にも云える事を日本テレビの『知ってるつもり』慶喜を見たかつての道場主は驚嘆しながら覚った。

 日本の独立を守る為、敢えて戦わずに苦渋の謹慎を英断した慶喜の恭順を理解する人は理解していた。
 前述した様に、戊辰戦争終結のその年の内に慶喜の謹慎は解かれ、既に前年の明治元(1868)年閏四月二九日に勅諚に従って徳川宗家当主の座を田安亀之助(家達と改名)に譲位されており、慶喜は政治に関わらず家族と趣味に生きる日々を歩み出した。

 官位こそ明治五(1872)年に従四位、同一三(1880)年に正二位、同二一(1888)年に従一位、と上がり続けるも、慶喜自身は政治に関与しなかった。
 正室美賀子、側室須賀(一色氏)、幸(中根氏)、信(新村氏)との生活の中で一〇男一一女を儲け、趣味は狩猟鷹狩も行った)、謡曲、囲碁写真撮影(作品:「麦刈」・「俵詰」・「弁天島より鉄橋を望む」等。技術は余り発達しなかった模様)、釣り自転車油絵(作品:「日本風景」「西洋風景」「風車のある風景」「蓮華之図」「西洋風景画」「多摩川畔の写生」等)、打毬(だきゅう)、鶴の飼育刺繍能楽、と極めて多趣味に富んだ。

 元武人だけあって、幼き日より修練を積んだ武術でも馬術は飛電・小栗の愛馬に乗って装束・馬具にまで凝り、の鍛錬も欠かさず、手裏剣の腕は達人の域に達していたと伝えられている。
 また、直に血を引いていないとはいえ、光圀の影響を受けたのか、読書『資治通鑑』(しじつがん。北宋の政治家・司馬光の表した史書)、『孫子』(超有名兵法書)に親しみ、「豚一様」(ぶたいちさま・豚肉がお好きな一橋様の意)と呼ばれるほど豚肉を好み(薩摩産が一番の好みだったのは皮肉である)、晩年はパン党に転身するなど、なかなかにグルメでもあった。

 はっきり云って道場主は「権力の座にあった時よりも余程悠々自適の日々を送っているじゃないか!?!羨ましいぞこの野郎(笑)!!」と驚嘆して羨望し、薩摩守は今でも羨ましがっている(苦笑)。


 その後、明治三〇(1897)年一一月一九日に東京巣鴨に移り住み、翌三一(1898)年に皇居に参内して明治天皇に拝謁。明治三五(1902)年六月三日には公爵となった。
 慶喜にとって取り立てての慶事でもなかったが、内政・外交・憲法制定などが落ち着くに及んで、かつての慶喜の恭順が正当に評価され出し、明治政府も華族勢力の懐柔の為にも慶喜優遇は便利な手段だった。

 そして明治四一(1908)年四月三〇日には大政奉還の功により、勲一等旭日大綬章が授与され、当時の英断が名実供に正式に評価された
 その後は小石川へ移り、明治四三(1910)年一二月八日に、徳川宗家より別家して当主となっていた徳川慶喜家の家督を七男・慶久へ譲り隠居、大正二年(1913)一一月二二日に逝去した。徳川慶喜享年七七歳(徳川将軍一五人の中で最も長生きした)。

 葬式に際して、皇室からは大正天皇・皇后・各宮の御使が、海外各国から大使・公使・朝野の名士及び旧幕臣等、会葬者は六〇〇〇〜七〇〇〇人に及び、沿道には拝観の人々が垣をなす有様であった。国葬でもなかったのにここまで彼の死を惜しむ人間が集まったとは大した人気である。
 東京市民は歌舞音曲を停止して哀悼の意を表し、葬儀にて改めて慶喜大政奉還鳥羽・伏見の戦い以後の絶対恭順を、「王政維新の第一の功労者」「明治国家隆盛の基を築いた「歴史中の偉人」」として評価した。



総論 思うところあって、いきなりですが余談を挟みます。
 平成二(1990)年一〇月三日に東西ドイツの統一が成ったとき、道場主の父は両ドイツ統一最大の功労者を東ドイツの責任者・ザビーネ・ベルクマン=ポール暫定国家元首である、としました。
 前年のベルリンの壁崩壊から世界各国の首相・大統領達も驚く速度で成ったドイツの統一は「ポール氏が権力の座に固執せず、西ドイツにすべてを譲ったからである。」と父は云いました。

 「ドイツ再統一はある意味歴史的必然である!」と今なら誰にでも簡単に云えますが、東ドイツ側の重鎮達が統一ドイツにあっても権力の座を欲したとしたら、西ドイツ側の権力者達との間にそれまでとは異なる対立が起こった事でしょう。
 道場主個人はドイツ人は勿論、ソ連型共産主義体制を終息させたゴルバチョフ元大統領やシュワルナゼ外相(ソ連崩壊後、グルジア共和国大統領に就任)の功績の方が広義的には大きい(東西統一の一〇年の記念式典にはゴルバチョフ氏が招かれ、後にグルジア大統領職を失脚したシュワルナゼ氏も「祖国の恩人」としてドイツへの亡命を温かく受け入れられている)と見ていますが、父の言もよく分かります
 既得権益に取りつかれた権力の亡者どもの固執が国政の浄化を妨げている歴史上の例を、嫌というほど見てきた今となってはポール氏に「よくぞ退いてくれた。」との賛辞を送りたくもあります。


 徳川慶喜についても彼が征夷大将軍や、明治新政府重職に固執し、無益な抵抗を断行していたら、と思うと遠い過去の歴史ながら背筋が寒くなります。
 上記の文章を見て、慶喜が「馬鹿」だとか、「低脳」だとかいう人は殆どいないと思います(もし大勢いるようなら道場主は真剣に筆を折らなくてはならないでしょう)。
 慶喜がその気なら徳川幕府第一六代将軍、一七代将軍が誕生したかも知れず、北海道や九州辺りは米英仏露の租借地となっていたかも知れない、という歴史には本来禁物である「If」に付いて考えてしまう事があります。

 慶喜の様に、己が権力を放棄して国益や人民の安全を優先するということを、出来ない政治家や権力者は史上枚挙に暇がないのですが、そんな固執者の大半は政権を失う際にロクな失い方をせず、同時に生き甲斐まで失った者も少なくありません。
 勿論、慶喜とて好き好んで徳川幕府を終らせた訳ではないでしょう。出来得るなら幕府を存続させたかった筈です。
 ですが彼は国家の為、人民の為、権力の座を放棄し、新たな生き甲斐を見つけることに成功しました、それも沢山!!

 徳川慶喜以前の頁で徳川光圀、松平忠輝、松平忠直、と徳川家康の血を引く人物を取り上げてきましたが、慶喜は少しずつ彼等に似ています。
 また判断が付き難かったために取り上げていませんが、尾張徳川家七代藩主徳川宗春も政治指針の対立から吉宗のために隠居謹慎を命ぜられた後は権力闘争にやきもきする必要のない環境で書や画の趣味に余生を過ごしました(謹慎は生涯解けませんでしたが)。
 勿論徳川忠長(家光の弟)のような例外もありますが、概して、織田・今川の両大勢力の狭間に幼くして両親と生き別れになり、城無しの人質生活という最悪のスタートを切りながら、忠烈無比の三河家臣団・優れた師匠の雪斎禅師・実母の密かな援助、とその場その場であるものを最大限に活かして最後に天下を取った初代・家康のDNAが着実に受け継がれていた様に思えてしまいます。

 権力でも財産でも名声でも、人は一度それを得ると、「無い時」に出来た筈の我慢を忘れ、それが失われそうになると恥も外聞もかなぐり捨てて手放すまいと悪足掻きする事が少なくありません。
 権力でも財産でも名声でもある時にこそ、ない時の苦しみを忘れず、万一失われた時にも慌てず対処し、あるものから活かしていく術の重要性を『菜根譚』も説いています。
 失いたくないものが失われそうになった時、それは本当に手放せないものなのか?それに固執することで犠牲になるものは小さく済むものなのか?それに代わる物を得ることは本当に不可能か?
 その判断を誤らないためにも置かれた環境を冷静に見つめ直す心の余裕と自己を見失わない強さの大切さを徳川慶喜以上に教えてくれる人物がいるなら是非なく拙サイトに取り上げたいと道場主は考えています。

 その人物を知る事は多くの人々の為になると信じる故に。



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令和三(2021)年五月一〇日 最終更新