隠棲の楽しみ方

第陸頁 徳川光圀……元祖・御隠居


栄光 所謂水戸黄門である。
 父は常陸国水戸藩初代藩主にして、徳川御三家の当主にして、徳川家康の第一一子・徳川頼房で、母・久子(側室。谷重則の娘)の身分が低かった為にいまだ世子の生まれない尾張家・紀伊家に遠慮して堕胎されかねなかった徳川光圀 (寛永五(1628)六月一〇日〜元禄一三(1700)年一二月六日)は家臣・三木甚兵衛に匿われて、誕生し、鶴千代と命名され、三木家の子として最初は育った。

 生まれこそ父に疎まれた帰来があったが、寛永九(1632)年に五歳で父・頼房に兄・頼重とともに初めて対面して認知され、翌寛永一〇(1633)年には早々と水戸藩第二代藩主と目され、寛永一三(1636)年に将軍徳川家光に謁見し、元服とともに「光」の字を与えられ、最初は徳川光国となった。

 兄・頼重を差し置いての世子とされた事は、一面では将来を約束された出世コース確定だが、同時にすべての地位が幕府に命ぜられるものであり、そこには大変な重圧があった。
 その重圧に対する若気ゆえの反発か、吉原通いに辻斬りまで行うという、馬鹿王子に等しい愚行を繰り返した。
 だが一八歳で司馬遷の『史記』伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)伝(王子である兄弟二人して国君の座を譲り合った上に出国し、周の粟を食する事を拒絶して餓死した)を読んで感銘を受け、学問に精を出すことになったのは余りにも有名である。

 寛文元(1661)年八月一九日に光国は水戸藩主の座を就いた。
 その四年前より水戸藩駒込屋敷にて『大日本史』の編纂に着手していた光国は、寛文(1663)三年に編纂史局を小石川屋敷に移して彰考館とした。

 御三家当主の一人として徳川家光・家綱・綱吉の三代に仕え、従兄弟でもある尾張光友・紀伊光貞とともに天下の政治に参画する一方で寛文五(1665)年明の遺臣・朱舜水を水戸に招聘・師事した(この辺りは拙作『師弟が通る日本史』も参照して欲しい)。
 水戸藩藩主の地位にあっても一亡命外国人である朱舜水に対し、身分に捉われず、その高潔さを敬い、舜水に駒込に邸宅を与え、儒学・朱子学と陽明学をベースにした実学・教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療を学び、これがきっかけで光国が日本一の麺類マニアとなり、日本人として始めてラーメンを食すことになったのも余りにも有名である。

 徳川一門の重鎮として、水戸藩主として、歴史学者として充実した日々を送る一方で光国は、実子・頼常を高松藩一二万石の藩主となった兄・松平頼重の養子に出し、逆に頼重の子、綱方(つなかた)・綱條(つなえだ)兄弟を自らの養子に迎え、長年の懸案を払拭した(兄・綱方が水戸藩主になる前に病没したので、弟・綱條が第三代身と藩主となった)。

 よく知られる水戸光圀の名乗りは、延宝七(1679)年に「」の字を則天文字(中国・唐を一時簒奪した中国史上唯一の女帝則天武后が造った漢字)である「」に改めたもので、史学研究の充実がうかがえる。
 そして貞享元(1684)年の大老・堀田正俊暗殺事件では正俊を刺殺した稲葉正休(いなばまさやす)が刀を置いて抵抗を止めたにも関わらず、同席していた老中・大久保忠朝等三人が気が動転するままに稲葉をその場で寄って集って斬り殺した事に「何故捕らえて動機を正さなかったのか!しかも刀を置いた無抵抗な者を相手に!」と厳しく叱責した。
 謂わば幕閣の「直言居士」でもあった徳川光圀だったが、この剛直故に隠居に追い込まれる事となった。



没落 徳川光圀の三人目の主君は徳川幕府第五代征夷大将軍・徳川綱吉であった。
 四代将軍徳川家綱が嗣子なく没した際に「誰を後継者とするか?」という問題に、「下馬将軍」と呼ばれた大老・酒井忠清が鎌倉幕府の故事に習って宮家を迎えんとしたのに対して、「血筋」を重んじて堀田正俊とともに上州館林藩主・徳川綱吉を推したのは他ならぬ光圀であった。

 だがその綱吉の後継者−つまり六代将軍候補者に、綱吉の幼子・徳松(後に五歳で早世)が存命の頃から光圀は甲府宰相綱豊(後の六代将軍家宣)を推していた。
 勿論この主張は実兄・頼重を差し置いて藩主の座についた事に引け目を感じていた光圀の経験に裏打ちされた物である。
 徳川家綱が没した時点で、家光次男は早世、家光三男綱重も病没しており、家光の男児は綱吉しか存命していなかった。
 兄弟順にこだわれば家綱と綱吉の間の二人の兄弟が家綱に先立っていなければ綱吉に将軍の座が巡ってこなかった事は想像に難くない。そして家綱に先立った綱吉の兄・綱重には綱豊という息子がいた。
 光圀は綱吉よりも家綱に近かった綱重の子が綱豊を、綱吉に次いで最も家綱の血に近いものとして綱吉の五代将軍就任時から六代将軍に綱豊を推していた。

 だがこれは勿論人の情として綱吉には面白くない話だった。
 殊に綱吉の生母・桂昌院が綱重の母と犬猿の仲であった事もあり、綱吉は徳松早世後も、娘・鶴姫の婿である紀伊三代藩主徳川綱教を六代将軍に考えていた。
 だが光圀の主張に一理ない訳ではなく、綱教の父・徳川光貞も腹では息子である綱教の将軍就任を望みつつも、世間体を重んじて表向きは綱豊後継に賛意を示していた。
 綱吉は益々もって面白くなかった。

 徳川綱吉にとって光圀は堀田正俊とともに「自分を征夷大将軍に推挙してくれた恩人」でありながら、同時に「正論とはいえ、世襲と政策に反対意見をぶつけてくる目の上の瘤」でもあった。
 世襲の反対意見は徳川綱豊擁立で、政策の反対意見は生類憐れみの令に反対するものだった。


 生類憐れみの令の歴史的意義並びに是非についてはここでは触れないが、はっきり云えることは国法としては誰も逆らえなかったこの法令も地方行政=藩政においては重んじられなかった、ということである。
 後に八代将軍になった徳川吉宗が六代将軍徳川家宣による綱吉の葬儀も済まぬ内の生類憐れみの令を廃止したことを憤りつつも、自身はしっかり紀伊領内にて鷹狩をやっていたのはその好例で、藩内にては必ずしも生類憐れみの令は厳正には施行されなかった。
 そして徳川光圀に至っては野犬五〇匹を捕え、その皮を綱吉に献上し、仰天させた有名なエピソードが存在する。

 時に明君であり、時に暴君でもある徳川綱吉は堀田正俊亡き後に唯一と云って良かった直言居士・光圀に業を煮やし、光圀に暗に隠居を勧めた(勿論態のいい「辞職勧告」である)。
 一説に光圀は、権中納言(水戸家藩主の極官)の地位にないことを理由にこれをやんわり拒絶するも、程なく朝廷より従三位権中納言昇進の宣下が下り、隠居を断る理由が無い状態にされてしまったと云う。
 昇進が綱吉の差し金である事は決して考えられない話ではない。

 事ここに至って光圀は隠居を決意。
 元禄三(1690)年一〇月一四日に水戸藩第三代藩主の少将綱條が就任。徳川光圀は水戸西山荘に隠棲することとなった。
 光圀の隠居は同輩にして従兄である尾張光友・紀伊光貞に年月的にも年齢的にも先駆けたものでもあった。



隠棲 さて、西山壮に隠居した徳川光圀はある意味、ようやく水戸光圀になったとも云える。
 と云うのも代々水戸藩主は参勤交代をせず、江戸定府が命ぜられており、領国である水戸に帰るのに幕府の許可を必要としていたからである。
 勿論藩主時代の光圀は水戸にいる時間よりも、江戸小石川屋敷にいる時間の方が遥かに多かった。
 そして水戸に戻った光圀は前藩主であるが、公式には「水戸藩の一領民」となった。

 「藩主」と「天下の御意見番」としての地位を失った光圀だが、彼自身の意欲的な生き方はカケラも失われてはいなかった。
 むしろ幕政・藩政上の責務・職務がなくなった分、やりたい事を存分に出来る様になり、またその為の力も光圀には残されていた。

 仕事や政治に一心不乱に生きた男が、職をなくしたり目的を失ったりすることで腑抜けた様に老け込む事も多いのは枚挙に暇がない。
 故に老後や隠居後に趣味を持つかどうかは大きな要素になるもだが、光圀は多趣味にして、彼が己の人生に課した使命はまだまだここからが本番だった。

 光圀の生涯の大事業はズバリ『大日本史』の編纂であった。
 講談やドラマなどで描かれる水戸黄門『諸国漫遊記』『大岡政談』『一休頓知話』同様のフィクションである事は多くの人々の知るところだが、諸国漫遊のモデルに光圀が選ばれたのは故なき話ではなく、この『大日本史』編纂の為に佐々助三郎宗淳(助さん=佐々木助三郎のモデルになった)、安積覚兵衛(格さん=渥美格之進のモデルになった)がその史料を求めて日本中を探索した史実が元になっている。

 光圀は、彼が尊敬した南朝方の忠臣・楠木正成の碑を建てたりもしたので、調査・研究・構成並びにその途上での儀礼には莫大な費用と時間がかかり、編纂事業はその大半が光圀存命中に為されたとは云え、完全な完成は明治に入ってからであり、その間、この事業は水戸藩の財政は圧迫し続けた。
 最高権力者に隠居を強いられたとはいえ、藩内に隠然たる力を持ち得なければこんな事業断行は不可能である。
 この『大日本史』編纂一つを見ても光圀がただの負け犬ではないのは明かである。五〇匹もの野犬に狩っただけの事はある(笑)

 隠棲の光圀の生活を鬱々としたものにしなかった要因に光圀の多趣味があった。
 薩摩守が日本史上の「酒飲み」と聞いて真っ先に思い浮かべる人物が三人いるが、一人は塙団右衛門であり、もう一人は上杉謙信であり、最後の一人が徳川光圀である。
 そして薩摩守自身酒好き(というほど多くは飲まないが)故に分かるのだが、某日本酒のCMにある様に、酒には美味い物を欠かしたくない(笑)。そしてその考えは光圀も同様だったようで、光圀は大酒飲み(←酒乱ではない)にして大変な食通だった。

 光圀が好んで飲み食いしたものに、酒(日本酒・葡萄酒・牛乳酒)・麺類(饂飩・ラーメン)・肉類(牛肉・羊肉・豚肉)・豆料理(水戸納豆・黒豆納豆)・その他(牛乳・チーズ・餃子)があり、また祖父・徳川家康の再来とも云える薬草マニアぶりからも高麗人参を初めとする食用になる薬草・野草類を食した事も想像に難くない。

 光圀がかほどまでの食通となり得た背景には、彼の誕生と幼児期も関係していた。
 前述した様に、光圀は本来なら父・頼房の命で堕胎されるところを三木家に匿われて育ったので、幼少の頃より「炊き立ての御飯」・「煮立ての饂飩・汁物」を食べて育ったが、当時の大名の子は「温かい物」を食べることがまず無かった。
 毒殺を恐れた故に毒味が行われたからである。
 毒の中には遅効性の物もあるから、食べ物に毒が含まれていないかどうかを判断するには毒見役が食してから(経過を見る為の)それなりの時間が置かれた。
 必然、その時間が経過する内に料理は冷め、故に冷えた料理を食べて育つ大名の大半は猫舌となり、熱い物が食べられないのが一般的だった。,br>  それに対し光圀は幼少の頃より熱い物を食べまくった上に、『師弟が通る日本史』にも書いた様に、明の遺臣・朱舜水に師事した事から師より中華料理も伝授され、それが光圀をして日本で最初にラーメンを食べた人物にしたのは余りにも有名である。


 江戸定府を義務付けられ、生類憐れみの令に躍起になる綱吉の目の届く江戸で肉食・鯨飲が叶わない現役藩主時代より、隠居後の方がかなり食においても自由が効いたであろうと想像される。
 当時は酒そのものが現代の酒より薄く、朝・昼・晩関係なく、チョットした来客があればすぐ酒が供されたことを考慮しても光圀は相当な酒豪だったらしい。
 職務・責務から解放され、歴史研究と食通に生きた何とも羨ましい(笑) 光圀の隠棲の日々は元禄一三(1700)年一二月六日に光圀が病没するまで続いた。
 徳川光圀享年七三歳。「義公」と諡された。



総論 成長・現役・隠居の全てにおいて徳川光圀の人生は「凝り性」の一言に尽きます。
 そして光圀に限らず、徳川家康・徳川綱吉・徳川吉宗・松平忠輝・徳川宗春・徳川家重等にも見られるように徳川家の人間にも凝り性な人間は数多くいます。

 光圀はその凝り性故に、何事も徹底的にやらなければ気が済まない人間で、それゆえに少年期にグレれば辻斬り・吉原通いの乱行ぶり、史学に凝れば水戸藩・高松藩の後継問題や将軍継嗣問題にまで持論を持ち込み、水戸藩の財政を後々まで圧迫し、薬草学に凝れば後々の世に庶民の為の金のかからない養生所(勿論小石川の事)設立の基礎を作り、食文化も後々の世にまで影響を与えるほどでした。

 一見好き勝手をやっていたように見える光圀の隠棲ですが、隠居中に股肱の重臣・藤井紋太夫を自ら手討ちにする事件もあり、自らの信念で藩主後継を押し付けた徳川綱條・松平頼常に対する引け目にも苦しみ、そんな中でも隠棲の一〇年間、光圀は「一領民になる」との誓いを守って、自ら耕作した田畑から年貢も納め続けました。

 光圀の人生は決して平坦なものでも、順風満帆なものでもなかったのですが、時代や権力に翻弄されながらも確固とした自己を持つことで、常に「やりたいこと」を見据えることで翻弄されても失わない何かを持つ強さを持ち続けた人生は現代にも活きる教訓と薩摩守は見ています。
 だからこそ庶民が悪政を糾すヒーローを重ねる対象に光圀が選ばれたとも思いますし、権力を持ってしても潰れない自己的な強さで隠棲を送ったからこそ、のちの世に「御隠居」と云えば光圀が連想されるまでになったとも云えるでしょう。

 最後に余談ですが光圀が没した三ヶ月後の元禄四(1701)年三月一四日に江戸城松之廊下で浅野長矩が吉良義央に斬りつける事件が発生しました(所謂松之廊下刃傷事件)。
 この時、かつての堀田正俊暗殺事件で下手人の稲葉正休が無抵抗にも関わらずその場で滅多切りにされた事に怒りの声を挙げた光圀が生きていればどのような動きを見せたかは多くの人々が想像するところでもありますし、当時の人々にもそれを思った人は多かったことでしょう。
 そしてそう思わせるほど、隠居の身を隠居の身と思わせないところに徳川光圀の強さの基が在ったのかもしれません。



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令和三(2021)年五月一〇日 最終更新