第壱頁 武田義信……純粋過ぎた従兄妹夫婦

愛妻家其之壱
氏名武田義信(たけだよしのぶ)
生没年天文七(1588)年〜永禄一〇(1567)年一〇月一九日
恋女房嶺松院(れいしょういん。今川義元娘)
一女
略歴 天文七(1538)年、甲斐の守護大名・武田晴信(信玄)の嫡男として生まれた。幼名は太郎
 母の三条夫人は公家・三条公頼の娘で、晴信の正室だったので、太郎は正真正銘の嫡男として育てられた。
 天文一九(1550)年に一三歳で元服し、同年四月八日に駿河の今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えた。

 天文二二(1553)年一二月二九日、室町幕府第一三代将軍・足利義輝の偏諱を受けて武田太郎義信と名乗った。父・晴信は先代将軍義晴の「晴」の字を貰って晴信となっていたが、「」の偏諱を受けたのは武田家において義信が最初で、これは大変な名誉だった。というのも、「」は清和源氏・足利将軍家の双方における通字で、多額の献金と実力の双方を要したからである。
 翌天文二三(1554)年に初陣に参加。父・信玄が信濃侵攻において最も苦戦した佐久攻めで知久氏の反乱を鎮圧し、小諸城を降伏させるなどの大活躍でこれを飾った。

 その後も数々の戦に活躍し、武田家の嫡男として文武に優れた成長を遂げ、誰の目にも信玄の良き後継者になると思われたが、永禄七(1564)年七月、義信の傅役の飯富虎昌が信玄への謀反を企んでいた咎で拘束された。
 謀反の計画を密告したのは虎昌の実弟・飯富三郎兵衛昌景(後に改姓して山形昌景)だった。翌永禄八(1565)年一月に虎昌は処刑された。尋問を受けた虎昌は自分の独断として、義信は無関係であると云い張ったが、一〇月には義信も甲府東光寺に幽閉された(義信事件)。

 二年後の永禄一〇(1567)年一〇月一九日、義信は自害して果てた(病死説もある)。武田義信享年三〇歳。



一妻 武田義信の妻・嶺松院 (実名不明)は駿河守護・今川義元の娘だった。
 今川家は武田家と数々の死闘を展開していたが、義元の代に義信の祖父である武田信虎と和睦し、信虎の娘を正室に迎えていた。つまり義元の妻は義信の実の叔母で、嶺松院は従妹に当たった。

 謂わば従兄妹同士だった義信嶺松院は天文二一(1552)年に武田家と今川家の同盟関係を更に強化する為の政略結婚で結ばれた訳で、かような婚姻は当時の常識でさえあった。
 だが、政略結婚が半ば常識だったことを自然と受け入れたものか、同じ祖父(信虎)を持つ血縁が効いたものか、二人は仲睦まじい夫婦となっていった。

 二人の間には一女が生まれ、後は武田家の嫡流を継ぐ世継ぎの誕生を待つばかりだったが、永禄三(1560)年に父・義元が桶狭間の戦いで討死したことを契機に舅の信玄は実家・今川家を見限り、父の仇である織田家と気脈を通じ始め、今川との同盟堅持にこだわる義信が信玄と対立し始めた。
 結果、永禄八(1565)年に起きた義信事件義信は東光寺に幽閉。一応、信玄の許可を得た上で東光寺の義信に会うことは許されたが、二年後に義信は自害(くどいが病死説もある)。

 翌年一一月に嶺松院は兄・今川氏真の要請で一女を伴って駿河へ帰国。更に翌年の永禄一一(1568)年一二月、信玄は駿河に侵攻し、大名としての今川家は滅亡。
 嶺松院のその後は詳らかではなく、義信の死から四五年を経た慶長一七(1612)年八月一九日に死去し、江戸市谷にあった今川家縁故の万昌院に葬られた。法号は嶺松院殿栄誉貞春大姉



一妻の理由と生き様 武田義信が側室を迎えなかった理由は不明である。嶺松院と仲睦まじかったのは間違いない様で、実家・今川家に戻った嶺松院は息子がいなかったことから没落する今川家の為にも頼りになる他勢力との政略結婚の為に再嫁してもおかしくなかったが、その後ずっと独り身だったことを思えば、義信一途だったのだろう。

 とは云え、廃嫡以前の義信は信玄の後継者としての立場からも早々に世継ぎを挙げる必要性が有り、嶺松院への寵愛を捨てずとも側室を迎えることに何の障害も問題も無かった。
 だが、義信はそうはしなかった。この辺りは推測するしかないが、新田次郎原作の大河ドラマ『武田信玄』を参考にするなら、義信は真っ直ぐ過ぎたと云える。
 勿論、一小説、一ドラマを鵜呑みには出来ないが、原作にて「嫌な奴」的な役割を振られた三条夫人と義信が、ドラマでは情が深い故に信玄をやきもきさせていたのが伺えて興味深い。
 重臣・飯富虎昌を師父としていた義信は王道思想を叩きこまれれば叩き込まれる程正室である母よりも側室を寵愛して母を泣かせる信玄への不信を募らせ(実際には三条夫人は三男二女、と信玄の子を最も多く生んでおり、かなり愛されていたと思われる)、弟達(竜芳・勝頼)にも優しく、「国を愛する心失くして、妻を愛する心などないと知れ!」と信玄から叱咤された際には「妻愛する心失くして国を愛する心などないと存じます!」と云い返していた(それに対する信玄の回答は平手打ち)。

 周囲の重臣達は、信玄が義信になかなか子が出来ないことをぼやいていた際には、「(嶺松院と)仲が良過ぎるから。」としていたが、推測するに、武田家後継者として王道思想を学ばされ、側室に寵愛が映った母の悲しみを想い、室町幕府の権威失墜や戦国故に同盟国同士の信義が守られないことへの反発が武田義信をして一族結束・同盟堅持をこだわらしめ、嶺松院一筋の道を歩ませたのではないだろうか?
 大河ドラマの義信は側室を持たないことを公言し、例え父に殺される羽目に陥っても今川との同盟を堅持すると主張して憚らなかった。

 正直、大河ドラマの堤真一氏演じる義信は自分の意見が通らないとすぐ感情的になり、父と意見が異なると思うと自棄糞気味に切腹を命じるよう迫り、新田小説の義信は母の凝り固まった貴族プライドが服着ているような人物に描かれ、どちらの義信も見ているのが辛かった。
 ただ、いずれの場合でも義信甲駿同盟堅持にこだわったのは共通していた。

 史料よりも小説やドラマから推測している部分が多い為、この頁に信憑性を持たせるのは困難だが(苦笑)、数々の作品を通して見えるのは武田義信と云う漢が良くも悪くも純粋過ぎ、一本気過ぎた、という面である。
 嶺松院をとことん愛したから今川との同盟にこだわったのか?今川との同盟にこだわったから嶺松院への愛情に務めたのか?果てまたその双方が併存し、一束化していたのか?
 返す返すも悪い時代に生まれた男だったと云えようか………。


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令和五(2023)年六月二七日 最終更新