愛妻は一人

 武家、正確にはそこそこ名の有る家の当主が課せられる義務の一つに、「世継ぎを為す」というものがある。これは容易な様でなかなか難しい。
 というのも、どんな家系にも何代かに一人は子宝に恵まれない者(妻が子供を産めなかったり、本人が胤無しだったり、不幸にして生まれた子供に次々夭折されたり、で)が出て来て、血筋が絶えそうになる、或いは実際に絶えた例は枚挙に暇がない。
 そんな場合は傍系から養子を迎えたり、女児に婿養子を取らせたり(勿論、女児との間に生まれた男児が血筋を存続させるのである)、時には正式な妻以外の女性との間に生まれた子が認知されたりする。

 もっとも、近現代はともかく、それ以前の武士の世ではそうなる前に当主の弟や甥が養子となるケースが圧倒的に多かった。というのも、当時そこそこ名の有る家の当主なら側室、それも複数を持つことが半ば当たり前で、正室との間に子が為せなくても、或いは正室との子=嫡男に万が一のことがあった際にも「保険」となる庶子が沢山いるケースが多く、もし、当主が一人の子も成せなかった場合でも先代や先々代が多数の男児を儲けているケースはもっと多く、比較的近い血筋に後を襲え得る者が存在する場合が大半だった。

 そうなると、一族の当主たるもの、複数の妻を持つことは半ば当たり前だった。否、多くの者が積極的に持ったと云えよう。
 というのも、名家であればある程、年端も行かぬ「次期当主」の内に釣り合う家柄の子女と親の命令で意味も分からず婚姻することが多くなる。年端も行かない次期当主となると、多くの場合、相手の女性も年端も行かないことが多く、互いに性的にも未成熟であることが多い。
となると、年を経て成熟した後に、強制的に結び付けられた「正室」よりも、自分の意思で選んだ「側室」に寵が行くのはよくある話である。
 事実、徳川将軍家を見てみても、初代家康を別格として、一四人の将軍の内、正室=御台所が次代の将軍を産んだ例は一例しかない(一応、末代の慶喜は父・斉昭の正室が母だが、「御台所」ではない)。二代目秀忠の正室・崇源院のみが三代目家光を産んだのがそれだが、それ自体、本作で採り上げる様に秀忠が側室を(正式には)迎えなかったことによる例外中の例外だったと言える。

 勿論、数多くの側室を迎えることにも問題は抱え込まれる。
 妻妾同士の醜い争いや、後継者争いも歴史上枚挙に暇がない。ただ、「血を絶やさない為にも多くの側室を迎えることが当たり前」だったからこそ、唯一人の妻を愛し、それを貫いた男の存在は光る
 たった一人の妻しか迎えなかった背景は人それぞれだが、或る意味、時代の流れに逆行したともいえる生き様を貫いた男達に注目することで、その生き様を考察してみたい。
第壱頁 武田義信……純粋過ぎた従兄妹夫婦
第弐頁 北条氏政……同盟・婚姻関係が途切れようとも
第参頁 吉川元春……美醜を超えた鴛鴦夫婦
第肆頁 小早川隆景……他家乗っ取りの罪悪感払拭?
第伍頁 明智光秀……裏切り者の裏切らぬ夫
第陸頁 伊達輝宗……陰謀砕いた愛妻振り
第漆頁 黒田如水……入信前から妻は一人
第捌頁 山内一豊……戦前の学習教材となった理想の夫婦
第玖頁 徳川秀忠……隠し子を隠し抜いた恐妻振り
第拾頁 昭和天皇……側室娶らず五度目の正直
最終頁 一夫一妻の世に想う


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令和五(2023)年九月六日 最終更新