第弐頁 北条氏政……同盟・婚姻関係が途切れようとも

愛妻家其之弐
氏名北条氏政(ほうじょううじまさ)
生没年天文七(1538)年〜天正一八(1590)年七月一一日
恋女房黄梅院(おうばいいん。武田信玄長女)
北条氏直、他多数。
略歴 天文七(1538)年に、小田原北条氏(鎌倉幕府執権を務めた北条氏と区別するため「後北条氏」とも呼ばれる)の第三代当主北条氏康を父に、正室・瑞渓院(今川氏親娘)の次男として相模小田原に生まれた。幼名は当初、松千代丸であったが、長兄にして氏康嫡男だった兄が早世したため、兄に代わって始祖・北条早雲以来世継ぎの通称とされた新九郎の名で呼ばれ、同時に事実上の嫡男とされた。

 長じて、天文二三(1554)年六月には元服して氏政と名乗っていたと見られ、その年には父・氏康が甲斐の武田晴信(信玄)・駿河の今川義元と相甲駿三国同盟を締結したのに伴い、同盟を固める意味もあって武田晴信の長女・黄梅院を正室に迎えた(同時に氏政の妹が義元の子・氏真に、義元の娘が武田義信に嫁いだ)。

 永禄二(1559)年一二月二三日、氏政は氏康から家督を譲られ、北条家第四代当主となった。特に北条氏政二二歳。拙房において、隠居した当主が実権を手放さない例は腐るほど書いてきたが(笑)、二二歳と云えば現代での「若造」と見られがちな年齢で、ましてこの時点での氏康はまだ四五歳だった。当然、氏康の影響力は絶大だったが、逆を云えばこれは要らざる後継者争いを避け、早い内に家督継承を明確化しつつ、新当主を早い内から政治に慣れさせる北条家の常套手段でもあった(氏政自身、若い内に当主の座を嫡男・氏直に譲っている)。

 三国同盟締結により、西北と西の憂いを亡くした北条家は関東制圧に邁進。関東管領家とも戦ったことにより、永禄四(1561)年に越後の上杉政虎(謙信)が関東の諸豪族を引き連れて小田原城に攻め寄せて来たが、天下の名城・小田原城は良くこれに耐え、さしもの政虎も関東豪族との連携が脆弱だったことや、背後を武田・今川に着かれる不安から長退陣はならなかった。
 だが、この前年である永禄三(1560)年に妹の岳父・今川義元が桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げ、同年の第四回川中島の戦い氏政の岳父・武田信玄も北信濃を抑えたと云う意味では戦略的勝利を遂げたが、武田信繁・山本官介等の重要人物を数多く失い、三国同盟にも翳りが見え始めた。

 細かな経緯は省くが、永禄一一(1568)年一二月、信玄が駿河を攻めたことで三国同盟は瓦解した。信玄は氏政、徳川家康に今川領割譲を条件に自分への合力を求めたが、氏政は今川との同盟を重んじてこれを拒否。それによって北条−武田間の相甲同盟も解消となり、嫡男氏直を初め、五人の子を産んでくれていた黄梅院を涙呑んで離縁し、甲斐に送り返した。
 一方で、氏真に対しては氏直を猶子とすることで今川家に合力する名分を整え、上杉謙信に対しては弟・氏秀を養子(兼人質)に差し出して同盟を結んだ(人質とはいえ、養子となった氏秀を謙信は可愛がり、自分の初名を与えて上杉景虎と名乗らせた)。

 この間、氏政は関東を舞台に戦に次ぐ戦を続け、信玄相手にも決定的な敗北を喫することは無かったが、逆に目覚ましい勝利を掴むこともなく、一族や部将の中には敗れる者も多く、結局駿河は武田氏の支配するところとなった。一方で謙信との同盟は利益に繋がらず、元亀二(1571)年一〇月三日に父・氏康が没すると、氏政はその遺言に応じるように武田家との同盟を復活させ、上杉との同盟を破棄した。

 だが、その後の北条家の外交方針は二転三転した。
 元亀四(1573)年四月一二日、岳父・信玄が没し、四男・勝頼が継いだが、信玄は自分の死を三年間秘すよう遺言したため、甲斐・信濃の周辺大名は信玄逝去の真偽を含め、慎重な外交を強いられた。
 そんな中、義弟・勝頼が長篠の戦いで織田信長・徳川家康軍に大敗し、勢力を落としたが、氏政は妹を勝頼の継室として同盟強化に努めた。加えて天正六(1578)年三月一三日に上杉謙信が急死すると謙信の二人の養子である上杉景虎と上杉景勝(謙信の姉の子)の間で後継者争い(御館の乱)勃発。氏政は実弟である景虎が越後国主になることで、相越甲の三国連携を固めての施力盤石化を図った。
 しかし勝頼は景勝に通じて景虎に味方せず、景虎は敗死。三国連携は瓦解し、氏政は武田と絶縁し、織田・徳川との結び付きを強めることに方針転換した。

 天正八年(1580)八月一九日、家督を嫡男・氏直に譲って隠居したが、実権を手放さないのは歴史のお約束であった(笑)が、氏政が実権を握り続けたのは外交と軍事のみで、それ以外は氏直が実際に担ったとされいる。
 天正一〇(1582)年二月、織田信長が甲州征伐に乗り出すと北条もこれに呼応して上野を攻め、同年三月一一日に武田家が滅亡すると氏政は織田家に臣従に近い接近を図ったが、信長は滝川一益・川尻秀隆を甲斐・上野に留め、武田家遺領のみならず、関東をも伺う姿勢を見せたが、それから三ヶ月も立たない六月二日に本能寺の変が勃発し、信長が横死したことで北条家は更に慎重な軍事・外交を強いられた。

 変直後こそ、引き続き織田家への好意を示していた氏政だったが、既に織田家を信用しておらず、上野から一益を追って上野支配を固めた(この敗戦で一益は清洲会議に間に合わず、織田家中における発言力を大きく低下させた)。
 同時に武田家滅亡によって駿河一国を支配するようになった徳川家康もまた甲斐・信濃を狙い、氏政は家康と対峙したが、最終的には氏直と家康の次女督姫が婚姻することを条件に和睦・同盟が成立し、氏政は関東支配の盤石化を優先した。

 しかし中央では信長の実質後継者となった羽柴秀吉が中国・四国・九州までも下し、同盟相手の家康も小牧・長久手の戦いで戦術的には秀吉に屈しなかったものの、秀吉が政治力で織田信雄と和睦した為に戦う理由を亡くし、結局はその政治力の前に膝を屈した。

 秀吉はその間に関白豊臣秀吉となり、上杉景勝をも臣従せしめ、全国の大名に死闘を禁じた(惣武事令)ことで、すべての大名が自分に従うよう支配体制を固め、北条氏政・氏直にも上洛して臣従することを求めた。
 氏政はこれを拒絶するも考え無しに敵意をむき出しにした訳ではなく、息子の岳父・家康を通じて秀吉に敵意が無いことを示したり、名代として弟・氏規を上洛させたりする等して秀吉の顔を立てつつ、関東立国は頑として譲らない姿勢と体制を固めた。

 しかし秀吉は北条の完全な屈服を求め、遂には小田原征伐の兵を挙げ、家康もこれに追随した。天正一七(1589)年一二月一三日に諸大名に小田原征伐が命ぜられ、家康のみならず、かつての強敵・上杉勢や真田勢も加わり、その総勢は三〇万!
 今川義元や武田信玄が三万に届かない軍勢で上洛しても「大軍」と云われた時代にあって、三〇万はとんでもない数の暴力だった。これに対して北条家中でも徹底抗戦か降伏かが決まり切らない中、関東各地の北条家支城は次々と落とされ、小田原城も包囲された。

 天正一八(1590)年七月五日、当主氏直が自らの切腹と開城を条件に一族と城への助命を求めて降伏。家康もともに北条一族の助命を請うてくれたが、秀吉は氏直を初めとする北条一族を高野山に追放とする一方で、タカ派と見做した北条氏政・氏照兄弟、大道寺政繁、松田憲秀の切腹を命じた。
 同月一一日、北条氏政は切腹して果てた。享年五三歳。



一妻 上述した様に、北条氏政の正室は武田信玄の長女である。黄梅院と云うのは出家した後の院号で、実名は不明である。黄梅院は信玄にとって、正室三条夫人との間に出来た最初の娘で、長女に対する父親の常を絵に描いた様な溺愛を受けた(過去作「戦国長女」参照)。

 天文一二(1543)年の生まれで、相甲駿三国同盟によって氏政に嫁いだ時は一二歳だった。婚姻の翌年である弘治元(1555)年に産んだ最初の男児には夭折されたが、そのまた翌年である弘治二(1556)年に女児を出産したのを皮切りに、嫡男・氏直、氏房、直重、直定、と五人の子宝に恵まれた。
 乳幼児死亡率が高かった当時、世継ぎを為す為にも、多くの側室を持つことが半ば当然だったこの時代、身分ある男が二桁の子を持つことは珍しくなかった。が、悪い云い方をすれば妻をとっかえひっかえ出来ることもあってか、妻の方では多くの子を産むケースは然程多くなかった。
 そんな中、五人(夭折した子を含めれば六人)の子を産んだ黄梅院は稀有とまでは云わないが、多人数を産んだ方ではあった。

 しかし、そんな夫・氏政からの愛情と子宝に恵まれた黄梅院だったが、上述した様に、今川義元戦死後に父・信玄が駿河を侵攻したことで夫婦仲が引き裂かれることとなった。
 同母兄・義信が断固として反対したにもかかわらず、永禄一一(1568)年一二月一三日に信玄は駿河に侵攻。これに岳父・氏康が激怒。氏政黄梅院を離縁させ、甲斐に送り返した。

 勿論離縁は氏政にとっても、黄梅院にとっても本意ではなく、氏政は最後まで離縁を渋り、離縁後の夫と子供から引き離された黄梅院は甲斐にて鬱々とした日々を送った。氏直を初めとする五人の子供達も母と別れることを望んだとは思えない。
 その後、黄梅院は出家し、永禄一二(1569)年六月一七日に夭折した。黄梅院享年二七歳。結局、離縁後一年も生きられなかった訳で、離縁が彼女の精神に与えたダメージは極大だったと思われる。



一妻の理由と生き様 上述した様に、北条氏政黄梅院の夫婦仲は至って睦まじいものだった。
 夫婦の間には六人の子が生まれているが、一人目は結婚の翌年に生まれているが、夫婦生活は一五年間だったので、単純計算で産んでは作り、作っては産む、を繰り返したと思われる。思うに、妊娠期後半及び出産直後を除けば、この夫婦にセックスレスと云う言葉は無かったと思われる。

 単純に側室を必要としない程、夫婦仲が好調であり続けたのだろう。離縁も当人達にとっては全くもって不本意なものだった。
 また、黄梅院が順調に子供を生み続けたのも大きいと思われる。大名が側室を持つのは、正室に子供が出来なかったり、正室腹の子が家督継承前に夭折したりした際の、いわば「保険」としての存在の子を産むのが主目的だった。
 逆の云い方をすれば、正室が血統断絶の不満が無い程に何人もの男児産めば、側室は不要で、嫌な云い方をすれば妾腹の子は「嫡男にとっての危険な対抗馬」・「御家騒動の元」になりかねないことすらある。

 少し話は逸れるが、骨肉の争いが珍しくないと云われた戦国時代において北条家は稀有なほど一族が結束していた。五代百年の間に御家騒動も後継者争いも皆無だったが、思うに、氏政もそんな北条家中の結束を盤石にする為にも、黄梅院が順調に子供を生み続けてくれる中に側室を持つことや、側室が子を産むことにリスクはあっても、メリットはないと見ていたのではあるまいか?

 結局、黄梅院の実父・武田信玄が三国同盟を瓦解させたことで、北条家は隠居・氏康の鶴の一声で武田家と絶縁し、それが為に黄梅院は離縁させられ、甲斐に戻された。この時代、政略結婚で嫁いできた妻は、ある意味人質でもあり、同盟破棄の際には殺されることもあった。ただ、氏政黄梅院を愛していたことや、夫婦の間に同母兄弟が五人もいたとあってはさしもの氏康も殺すまでは出来なかったと思われる(氏政黄梅院を甲斐に送り返すに際して、堪忍分として一六貫文を送っている)。
 恐らく、同盟瓦解時に氏康が存命でなければ、氏政黄梅院を離縁していなかったではなかろうか?皮肉なことにその氏康は臨終に際して氏政達にその時点で締結されていた上杉謙信との同盟が頼りにならないと見て、武田家との同盟復活を遺言した。

 この時、既に黄梅院は早世していたが、氏政は同盟復活と共に信玄から黄梅院の遺骨を分骨され、早雲寺に信玄が甲斐に立てたのと同じ「黄梅院」を建立した。五人の子の実母ということもあっただろうけれど、氏政が何処までも黄梅院を愛していたことに疑いの余地はないだろう。

 尚、氏政は鳳翔院殿という継室を迎えているが、これは黄梅院逝去後のことで、恐らくは北条家当主に正室がいないことは体裁が悪いとされたためであろう。
 鳳翔院殿はその出自、生年、人格等の一切が不明で、北条家が滅亡した小田原合戦の籠城中に死去したことだけが分かっている。死因も不明だが、亡くなった天正一八(1590)年六月一二日は氏政生母の命日で、小田原開城が七月五日だったことを思うと、自害の可能性が高い。


 尚、平成三一(2019)年に発表された新説には、氏政黄梅院が離縁していない説や、五人の子の内、後の方に生まれた生年不肖の息子達が黄梅院の子ではないと云う説もあるが、北条氏政黄梅院の仲睦まじさを何十年も感心してきた薩摩守は敢えてこれをスルーしたことを白状しておこう(苦笑)。


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令和五(2023)年六月二七日 最終更新