第壱章 蘇我入鹿…非戦を集団自決へ



虐殺者蘇我入鹿
虐殺対象山背大兄王一族
虐殺行為戦いを望まない一族を集団自決に追いやる
虐殺要因古人大江兄皇子擁立の為の対抗勢力の殲滅
応報自らの暗殺と一族の滅亡
 第壱章でいきなりだが、山背大兄王(やましろのおおえのおう) に関しては自らの選択による所が大きく、蘇我入鹿(そがのいるか) に責を追わせるのは不穏当な気もする(時代も戦国じゃないし…)。
 だが、何故に一族皆が?という点を後の章の為にも欠かしたくはない。

 簡単に背景を見たい(というか簡単にしか知らない−苦笑)が、山背大兄王とは古代史のみならず日本史においても最大の知名度を誇る偉人の一人・聖徳太子の子にして、有力な皇位継承候補者だった。

 一方の蘇我入鹿は曾祖父・蘇我稲目(そがのいなめ)以来皇室と多くの血縁を持つ蘇我一族の直系で、祖父・蘇我馬子(そがのうまこ)の権勢は云うに及ばず、父である蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに後の世の藤原氏・北条氏に匹敵する君側の大権を保持していた。

 一説に、聖徳大使の冠位十二階の制十七条憲法は蘇我馬子の権勢を削ぎ、天皇(この時は推古(すいこ)女帝)中心の政治を目指したもので、崇仏に始まった協調とは裏腹に上宮王家(じょうぐうおうけ:「上宮王」は聖徳太子の生前の尊称)と蘇我氏は対立関係にあり、聖徳太子と蘇我馬子の死(それぞれ推古天皇三〇(622)年と推古天皇三四(666)年)を経た後に実際の殺し合いに至った。

 推古女帝が没し、舒明天皇を経て、皇極女帝の御世に次代の大王(おおきみ)として二人の候補がいた。
 皇極女帝の夫にして先帝でもある舒明天皇の皇子で、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)と山背大兄王だったが、両者ともに蘇我馬子の娘を母としており、蝦夷にとっては甥で、入鹿にとって従兄弟である事に変りはなかった。
 無論、血縁者だらけの皇統と外戚のこと、血が繋がっているからと云って仲が良いとは限らない。
 馬子だって甥の崇峻天皇を害し、対立した聖徳太子にとって馬子は大伯父で、悲しい事に必ずしも血縁=愛とならないのは現代も変わらない。

 蘇我蝦夷・入鹿父子にとって次期大王として擁立したいのは古人大兄皇子だった。
 そしてもう片方の候補者であった山背大兄王を邪魔者と見た入鹿皇極三(643)年一一月一日、巨勢徳太・土師娑婆に斑鳩宮を襲撃を命じた

 山背大兄王は一時は生駒山に避難したが、斑鳩寺に戻り一族とともに自害する道を取った。
 抗戦を勧める配下に山背は「戦えば自分が勝つ。しかし無辜の民を自分達の争い為に犠牲には出来ない。」と云って戦いを放棄したと伝えられる。
 如何にも慈愛に溢れた人と評される聖徳太子の息子に相応しい自己犠牲と非攻兼愛の人と云いたくなるエピソードだが、薩摩守個人は矛盾と疑問を感じる。
 はっきり云って、もっと血みどろの戦いが生駒山にて行われ、皇族の多くが蘇我氏の力の前にひれ伏さざるを得ない状況の中で、人望厚い聖徳太子の子孫故に故にその死から血生臭さが隠されたのではないか?との疑問である。

 論拠として、生前、山背大兄王が皇位継承に明らかに色気を見せていた事が挙げられる。
 つまり両者の政争は必然だったとの見解で、推古女帝は崩御の前日である推古天皇三六(628)年三月六日に山背大兄王に「汝肝稚之。若雖心望、而勿誼言。心待群言以宣従(そなたは、まだ若いから、心に望むことがあっても口に出さず、多くの人々の言うことに従うように)。」遺言している。
 しかし山背大兄王は推古天皇崩御後に馬子の弟・堺部摩理勢(さかいべのまりせ)の支援をバックボーンに皇位に執念を見せた。
 きっちり蘇我一族にも人脈を持っている事に強かさが感じられ、推古女帝の今際の言葉にもおおよそ山背大兄王には大人しさが感じられない。
 結果として上宮王家全員の落命はここにあったのではあるまいか?山背大兄王一族への襲撃は入鹿の独断で、父の蝦夷が勢力争いの優位を焦った息子の蛮行を詰ったのは有名な話だ。

 学生の頃、不思議でならなかったの如何に権力があろうと、卑しくも皇族を臣下である蘇我氏が(勅命も受けずに)討った事が政治的にも法的にも何の咎めも受けなかった事である。
 現に蝦夷は入鹿を詰ったし、入鹿暗殺後は戦わずして自害の道を選んでいる。結果として一皇族家を滅亡に追いやるジェノサイドには大きなしっぺ返しがやって来てもいる。
 勿論強かで有能でもある入鹿の事(彼には教養もあり、武芸にも優れていた。暗殺の際には道化や儀礼を駆使してまで入鹿の武装解除までしている)、古人大兄皇子というバックボーンも用意し、なにがしかの罪をでっち上げるなりして上宮王家を攻めたのだろう。
 そうでもなければ一個人としての山背大兄王が周囲への害を考えて自らの命を絶つ事は何とか理解できても、「戦えば私が勝つ」筈なのに一族全員が運命をともにした事に納得が行かない。
 勿論山背大兄王の妻子が彼の信念に共鳴し、彼と運命を共にすることを選んだ可能性がないでもないが、チョット苦しい。薩摩守が山背大兄王の立場なら、自分一人が自害したとしても妻子を道連れにしてまで勝てる筈の戦を放棄したりはしないだろう。

 人望ある聖徳太子の子息故に山背大兄王に浴びせられた入鹿の襲撃を正当化しかねないような落ち度は伏せられつつも、武力で上宮王家は皆殺しとなった。
 だが、因果応報、それは蘇我氏滅亡への序曲でもあり、山背大兄王の道連れは上宮王家だけではなく、蘇我氏、更には古人大兄皇子にも及んだ。
 族滅の報いは自らの死となって跳ね返り、後には族滅が続いた。しかもその当主(←蝦夷のことね)は本当に戦わずして滅びる事を選んだのであった……。




次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月三日 最終更新