第弐章 武田晴信…難治を生んだ捕虜虐殺



虐殺者武田晴信
虐殺対象上州上杉軍
虐殺行為小田井原の合戦で捕虜となった兵三〇〇〇名全員の打ち首
虐殺要因志賀城兵への示威行動
応報以後の佐久衆による頑強抵抗の為、信濃征服が難航し、重臣達も討死
 この一件だけを見ると丸で西楚の覇王・項羽である。
 中国は秦楚漢の時代、楚の項羽は討秦の過程で戦えば勝ち、攻めれば落とすの快進撃を続け、城攻めに当たっては降伏する敵兵さえ皆殺しとした。
 項羽の目算では敵に威を示す事で相手の戦意を削ぎ、敵が戦わずして逃げる事を図ったが、秦兵達は降伏しても殺されるぐらいなら潔く戦って死ぬ事を選ぶようになり、その徹底抗戦の前に項羽は進軍速度を弱められ、関中一番乗りを高祖劉邦に奪われる事となった。
 そしてその事例がこの話にもピタリと当てはまる。

 武田晴信 (勿論信玄のこと)は天文一〇(1541)年に父・信虎追放後、信濃攻略に力を入れ、諏訪氏・高遠氏・小笠原氏・村上氏といった信濃国人衆と死闘を繰り広げる一方で同じ国人衆でも真田氏・木曽氏とは和を結んだ。
 
 もとより実父追放の汚名を背負った晴信。豊かな米の収穫を望み難い山国・甲斐の活路を信濃に求めるに当たって謀略も強襲も厭いはしなかったし、敵には姻戚でも容赦はなかった…。
 と、まあここまではいい。戦国の宿命との断言も可能だ。問題は天文一六(1547)年の信濃は佐久の志賀城攻めにあった。

 天文一二(1543)年の段階で晴信は信濃一国の内、諏訪・小県(ちいさがた)・佐久をほぼ制圧していた。
 更には甲斐の金山開発も軌道に乗り、順風満帆かに見えた一方で、晴信の身を病(労咳:肺結核)が襲い、関東管領・上杉憲政の支援を受けて志賀城の笠原新三郎清繁が武田に反旗を翻した。
 勿論晴信は討伐に動き、病を押して出陣した。
 援軍の上杉勢には次弟の武田典厩信繁と甘利備後守虎泰をあたらせ、信濃の諸豪族は真田幸隆に牽制させ、自らは横田備中守高松に加勢した。

 志賀城を攻め、水の手を断った晴信は五〇〇の兵を多田三八郎に与えて城兵の動きを押さえさせると、自らは佐久の諸豪族を裏で糸引く上杉憲政の首を目指して転進し、今度は信繁勢に加勢して、小田井原に上州上杉軍を叩いた。
 敗走した上杉軍は碓氷峠にて真田勢の迎撃に合い、三〇〇〇人の捕虜が後ろ手に縛られ、本陣に連行されて来た。

 天文一六(1547)年七月、ここに一つのジェノサイドが敢行された。晴信捕虜三〇〇〇人の首をすべて刎ね、その生首を志賀城の石垣に並べたのだった!
 目的は「逆らう者に容赦はしない!」との志賀城兵への示威にあった。

 だがこの晴信なりの荒療治は大きく裏目に出た。それも長期に渡って。
 志賀城の兵士達は石垣に並ぶ三〇〇〇の生首に戦慄し、恐怖し、それ以上に激しい怒りと報復の念を抱いた
 つまり降伏しても助かる見込みもなし、と見做し、せめて一太刀なりとも武田勢に浴びせずにはいられない怒りを抱くに至ったのであった。

 志賀城は水がないにもかかわらず、降伏勧告の矢文を黙殺し、八月一一日の落城まで二〇日間に渡って、文字通り最後の一兵までもが抵抗し、笠原親子も城・城兵と運命を供にした。
 城兵三〇〇は悉く討死し、その妻子は人買いの手に渡った……(笠原清繁の妻は二〇貫文で鶴留城主小山田信有に買われた)。

 こんな蛮行が人々に悪意を植え付けない筈がなかった。
 武田と敵対した末の運命が死か人身売買と見た佐久の人々はこの後長きに渡って武田晴信に心服せず、信州平定の大きな足枷となった。
 天文一七(1548)年、晴信は信州平定の最大最後の障害と見た村上義清の討伐に向かうが、村上勢は死者の着る経帷子(きょうかたびら・経文を書いた帷子)を旗印とし、死んでも武田に降らない意志で甲州勢を迎え撃った。

 世に云う上田原の戦いである。
 そしてこの戦いにおいて、敵将・村上義清は当時の常識を覆す作戦に出た。それは討ち取った敵の首を取る事を禁じ、只ひたすら晴信の首を狙うものだった。
 当時、戦後の褒賞は首を幾つ取るかで決まった。雑兵の首を幾つも取るより大将首を取った方が戦の勝利が確定するのは常識だが、首の数が褒賞を決める以上は敵の首を斬り取り、所持するのは常識で、その常識は普通大将が禁じても覆しようのないものだったが、晴信を鬼と見る村上勢にはそれが覆った。
 当時の戦の常識を無視して、ただひたすら晴信の首を目指して突進してくる村上勢に、武田勢はすっかり浮き足立ち、晴信は生まれて初めて敗戦の辛酸を舐めた。
 偏に前年のジェノサイドの、人身売買という非道の報いという他はなかった。

 この戦いにて晴信は側近中の側近・板垣駿河守信方(のぶかた)を失い、更には父・信虎以来の猛将・甘利虎泰も討死した。
 晴信自身も負傷し、翌天文一八(1549)年の塩尻峠の戦いでも佐久勢の必死の抵抗に苦戦した。その翌年の天文一九(1550)年には砥石城の戦いで生涯最大の敗北(世に云う「砥石崩れ」)を喫し、横田備中も戦死した。
 翌年の天文二〇(1551)年に真田幸隆の計略で砥石城は落ちたが、村上義清は長尾景虎(上杉謙信)のいる越後に逃れ、天文二二(1553)年には第一回川中島の戦いが始まった。

 単純に志賀城の悪行のしっぺ返しの形で、晴信は村上との戦いで武田二四将の内、三人の名将を失ったのである。勿論大抵抗の中で命を落とした名もなき甲州勢の犠牲は計り知れない。
 後々には村上義清も参戦した永禄四(1561)年の第四回川中島の戦いで武田信繁、山本官助晴幸、諸角豊後守を失った痛手を考えると、ジェノサイドが多くの人々に植え付けた「武田憎し」の念はかなり根深く武田軍将兵に返ってきたと云えよう。



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令和三(2021)年五月三日 最終更新