第壱頁 聖徳太子…………いい加減にしやがれ!「実在しなかった」論

名前聖徳太子(しょうとくたいし)
生没年敏達天皇三(574)年一月一日〜推古天皇三〇(622)年二月二二日
身分皇族
主君用明天皇→推古天皇
薩摩守による実在度一〇
実在を疑われる要因有り得ない程の超人伝説と、諡号との関係
通説における略歴 敏達天皇三(574)年一月一日、第三一代用明天皇の第二皇子に生まれた。母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしもとのひめみこ。欽明天皇皇女)。母親が厩の前で産気づいて出産したことから「厩戸皇子(うまやどのおうじ) 」と命名された。
父母ともにその母(つまり厩戸皇子の祖母)は蘇我稲目の娘で、共に政権を担い、時に対立した蘇我馬子は大叔父に当たる。

 その血縁ゆえ、幼少時から蘇我氏との関係が深く、また幼少時聡明で仏法を尊んだと云われている。
 用明天皇元(585)年、父の用明天皇が即位。しかし程なく父帝は病に倒れ、厩戸皇子は御仏に病平癒を祈るよう進言した。用明天皇はこの是非を群臣に諮ったが、これによって蘇我馬子(崇仏派)と物部守屋(廃仏派)は激しく対立した。
 結局、翌年用明天皇は崩御し、その後継を巡って蘇我と物部は武力衝突した。馬子は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ。敏達天皇皇后)の詔を得て、泊瀬部皇子(はっせべのおうじ)の皇子を擁して物部守屋と彼の推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を討ち取った。
 この戦いには厩戸皇子も参戦し、代々朝廷の軍事を司る物部軍に苦戦する中、白膠の木で四天王の像を造り、戦勝を祈願。勝利の暁には仏塔を造ってこれを祀ることを誓い、戦勝後、その通りにした場が四天王寺となったことは有名である。

 泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位し、彼を擁立した馬子は叔父の立場で実権を握った。この実態に不満を持ち、馬子を除かんとした崇峻天皇だったが、却って馬子の手先に暗殺され、その後継者として日本史上初の女帝となる推古天皇が立てられた。
 前例ない女帝の即位に、推古天皇は躊躇したが、彼女の甥に当たる厩戸皇子を皇太子兼摂政とすることを条件にこれを了承した。

 馬子と共に政務に携わることとなった厩戸皇子は推古天皇二(594)年(594年)、仏教興隆の詔を発したのを皮切りに、仏教を反映した政治を行い、高句麗の僧・慧慈(えじ)から隋の官制・仏法保護を耳にし、これが後の遣隋使派遣に繋がった。
 一方で、朝鮮半島に対しては親百済方針から百済と戦う新羅を征伐せんとした。だが、出陣直前に将軍の立場にあった 実弟・来目皇子(くめのみこ)が急死する等の身内の不幸が相次ぎ、本格的な征討には至らなかった。

 推古天皇一一(603)年一二月五日、冠位十二階の制を定め、氏姓よりも才能を基準に天皇自らが人材を登用するものとし、翌年には十七条憲法を制定して中央集権を強化した。
 これにより、蘇我氏に牛耳られていた政治権力を天皇第一に帰参としたが、馬子の力は強大で、削げた力は限定的だった(冠位十二階も蘇我氏は例外とされた)。

 推古天皇一五(607)年、小野妹子を正使とした遣隋使を隋に送り、有名な「日出流処の天子、日没処の天子に書を致す。恙なきや……」で始まる国書を時の皇帝・煬帝に送った。
 自国以外に「天子」を認めない煬帝は、対等に振る舞う態の書面に激怒したが、高句麗との戦いの都合からも渋々国交を認め、妹子は翌年、返礼の使者・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国するのに成功した。
 これに対して厩戸皇子は返書と裴世清の帰国のため、妹子を再度隋に派し、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、旻(みん)といった留学生等が共に渡海し、後世、彼等が大化の改新後の大和朝廷に大きく影響することとなった。

 その後も、仏教興隆、中央集権化、史書編纂に尽力したが、推古天皇三〇(622)年、斑鳩宮で倒れた。看病に務めていた妃・膳大郎女(かしわでのいらつめ)も病に倒れたと云うからなにがしかの伝染病だったと思われる。そして二月二一日に膳大郎女が没し、後を追うように翌二二日、厩戸皇子も没した。厩戸皇子享年四九歳。尚、この厩戸皇子の没年月日は『古事記』によるもので、『日本書紀』では推古天皇二九(621)年二月五日となっている。

 聖徳太子の諡号がいつ送られたものかは詳らかでないが、逝去一二九年後の天平勝宝三(751)年に編纂された『懐風藻』 (かいふうそう。現存する最古の日本漢詩集)に記載されたのが最古のものとされている。



実在を疑われる要因 聖徳太子に関する人に優れた話をすべて鵜呑みにすれば、とても人間とは思えない。
 例を挙げると………、
〇口………二歳で誰にも教わらず南方を向いて「南無仏」と唱えた。
〇耳………一度に一〇人の質問を聞いてそのすべてに的確に答えた。
〇腕………物凄く腕力が強かった。
〇足………恐ろしく早い走力を持っていた。
〇その他‥……飛翔伝説や未来予知能力を謳うものまであり、民明書房の本によると鞠を瞬間移動させた伝説まで……………勿論、これは冗談です(苦笑)(参考文献:『暁!男塾―青年よ、大死を抱け』

 同時に歴とした皇族でありながら、自身も子息の山背大兄王も皇位に就けず、蘇我氏に先立ってその血脈も途絶えた。加えて古代史に謎の多いことも聖徳太子をして謎の存在にせしめている。ま、この時代の人物、完全に詳らかになっている人物など皆無と思われるが(苦笑)。

 以上のこと以外にも、同時代の人々に比べて極端に才能と業績に溢れていることが返って聖徳太子の実在性に疑問を持たせることになった。
 史上に実在性を疑われる人物は多数いるが、その中で聖徳太子は一番の知名度を持ち、大きく取り上げられることの多い人物となってしまっているが、薩摩守はこの傾向に否定的を通り越して、「いい加減にしろ!」という感情さえ抱いている(詳細後述)。



薩摩守所感 既に結論は出ているに等しいが、「死後、『聖徳太子』と追尊された厩戸皇子が存在した。」と云うことである。

 個人的感情交じりの感想になるが、出版界に対して、聖徳太子に関する超人伝説の否定や、政策担当者か否かの考察は良いとしても、実在説についての云々はいい加減止めて貰いたい、と薩摩守は思っている。
 昨今、本屋やコンビニエンスストアの書籍コーナーを歩き、歴史の謎に追う(と主張する)書物の表題や目次を見ているとイライラすることがある。「聖徳太子は実在しなかった!」と主張する書籍が細々ながら後を絶たない。

 ある程度展開が読めながらも、目を通して見ると、案の定、「厩戸皇子はいたが、所謂「聖徳太子」と云う人物はいなかった。」というもの……………こんなのばかりで呆れ果てている………そりゃ実在していませんよ!生前「聖徳太子」と呼ばれた人物なんて!
 「聖徳太子」というのは死後に送られた尊号−つまり諡号で、生前本人が「聖徳太子」と呼ばれたことは一度もない。厩戸皇子上宮王(かみつみやおう)と呼ばれていたから、本人がその名を知ることも無かった訳だが、それをもって「存在しなかった!」とは阿呆らし過ぎて、閉口するしかない。

 生前そう呼ばれなかったことをもって「実在しなかった!」何て云い出せば、歴代天皇は全員存在しなかったという理屈(というか、暴論)になる。
 勿論「○○天皇」の「〇〇」は諡号で、一例を挙げれば、第一二四代天皇だった裕仁陛下は、崩御後に「昭和天皇」と追号された訳で、生前「昭和天皇」と呼ばれていない(御存命中は「今上天皇」、「今上陛下」と呼ばれる)。
 勿論だからと云って、「昭和天皇は存在しなかった!」なんてほざけば失笑・嘲笑の的にしかならない。薩摩守に云わせると、「聖徳太子は実在しなかった!」とほざいている連中はそう云っているに等しい。

 もっとも、聖徳太子非実在論に触れている書物も、本気で「「聖徳太子」と死後に追贈された人物が実在しなかった。」と考えている著者は皆無に近く、その殆どは生前そう呼ばれていなかったことを元に、有り得ない程超人化された厩戸皇子を否定したくて「実在しなかった」のサブタイトルで注目を集めているものなのだが、そんなセコイ手法を何人もの人物が用いているのに苛つくのである(←それらの書籍の多くが、既に何度も主張されている過去の史実否定例をいくつも集め、繰り返し、さも新発見かの様などや顔をしている)。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新