第弐頁 弁慶…………真似されまくる立ち往生

名前武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
生没年?〜文治五(1189)年四月三〇日
身分流れの僧兵→源義経郎党
主君源義経
薩摩守による実在度一〇
実在を疑われる要因『義経記』や講談における超人的活躍と、正史でのギャップ。
通説における略歴 生年は不詳で、熊野別当の子で、紀伊国出身だと云われるが勿論詳細は不明。熊野別当湛増が、二位大納言の姫を強奪して生ませたと云うとんでもない出生を持ち、母の胎内に一八ヶ月もいて、誕生した時点で二、三歳児の体つきと肩まで伸びた髪と、完全に生え揃った歯を持っていたと云う。
勿論、この記述を本気にしてはいないが、想像すると、「良く母親無事だったな………。」と云いたくなる(笑)。
この魁偉な容貌を見た父親は、鬼子と見做して殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられたと云う。

長じて比叡山に入った鬼若だったが、勉学もせず、乱暴が過ぎ、結局は山を追い出されたため、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗った。
その後、四国、播磨と渡り歩くも乱行は続き、播磨では書写山圓教寺の堂塔を炎上させたと云う。
 やがて、弁慶は京に辿り着き、千本の太刀を奪おうと悲願を立てた。早い話、コレクションの為の強盗を誓った訳だが、悪行をわざわざ誓った意味も分からなければ、誓った相手も不明である
ともあれ、弁慶は道行く帯刀者に喧嘩を吹っ掛け、手持ちの刀を強奪し続け、九九九本まで集めたところ、という出来過ぎのタイミングで五条大橋にて遭遇したのが牛若丸(源義経)だった。
最後の一本を得るべく対峙した相手は少女と見紛う風貌で笛を吹きつつ歩む優男。些か物足りないと感じつつも、佩びた太刀は見事な逸品で、それを奪わんと襲い掛かるも、牛若丸は欄干を身軽に飛び交い、その体を捕らえること敵わず、弁慶は初敗北を喫した。

かかる馴れ初め(?)を経て、弁慶は牛若丸=義経に仕えることとなった。
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てたが、具体例は伝わっていない。弁慶の名が俄然輝き出すのは平家滅亡後の、義経と頼朝の対立が始まってからだった。
兄を怒らせたために鎌倉入りを阻まれた義経は京にて何とか兄の怒りを解かんとし、後白河法皇からの頼朝追悼の唆し院宣にも応じなかったが、頼朝の方で完全敵視し、京に刺客を送り込んで来たので、義経は京を落ちて、幼少の頃世話になった奥州平泉の藤原秀衡を頼ることを決意した。

勿論、頼朝の監視網を潜っての逃避行で、義経・弁慶一行は山伏に姿を変え、監視の目を欺くために弁慶が一行のリーダーに扮した。
 途中、加賀の安宅の関を通過する為に、「勧進(寺社仏閣を建立するための寄付金集め)の為に修行の旅をしているもの」と偽り、白紙の巻物を用いて勧進帳を読み上げている風を装ったり、義経が責任者の富樫にその正体を疑われた際には、敢えて義経を金剛杖で打ち据えたりした。
この心意気に感じ入った富樫が、弁慶の嘘を見破りながらも、敢えて騙された振りをして一行を通した『勧進帳』のエピソードはここに書くまでもないだろう(←と云いつつ、書いている)。

やがて義経一行は、奥州平泉に辿り着き、藤原秀衡も快く義経一行を匿い、再三に渡る頼朝からの引き渡し要請を無視してくれた。だが、程なく秀衡が亡くなり、後を継いだ長男の藤原泰衡は頼朝の脅しに屈し、父の遺言に叛いて義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。
多数に無勢の中、弁慶は先頭に立って、泰衡勢を蹴散らし、義経が自害するまでの時間稼ぎを果たした。化け物ともいえる弁慶の膂力にとても敵わじ、と見た泰衡勢は弓矢で弁慶を討ち取らんとして、矢の雨を浴びせ、弁慶の体を針鼠にした。
だが、それでも弁慶は倒れず、藤原勢は化け物相手にびびりまくった。やがて一人の武者が意を決して弁慶に近づいたが、弁慶はピクリとも動かず、よくよく見ると立ったまま既に絶命していた。世に云う、「弁慶の立往生」で、藤原勢は「九郎(義経)殿は良き家来を持たれた……。」、「我等もかく在りたいものだ……。」と褒めそやし、その壮絶な死に様は後世に語り継がれた。
だが、程なく頼朝に攻められた際に泰衡の家来は泰衡を裏切って殺し…………と記述するのは野暮かな? (苦笑)



実在を疑われる要因 前頁の「聖徳太子」にも云えることだが、余りに人間離れした能力を発揮すると人はその実在を疑いたくなるのだろう。
 また、前述した刀狩りを初め、武蔵坊弁慶には身体能力のみならず、その行動、タイミングにも「出来過ぎ」が多いから、その一つ一つが疑われる中、「本当にそんな奴いたのか?」となるのだろう。

 また、これほど大活躍した人物が『義経記』以外での記述、ましてや史書での記述が僅少となると益々疑われたのも無理はなかろう。
 何せ、源平合戦期の重要な参考となりながら、正史ではない『平家物語』ですら弁慶に関する記述は多くはない。あれだけ激戦が繰り広げられ、義経の超人的な活躍が満載された一の谷の戦い屋島の戦い壇ノ浦の戦いにも、弁慶によるこれと云った活躍は見られない。
 特に屋島の戦いでは義経は弓を奪われ、「源氏の大将がこんな小さな武器を使っていると敵に知られたら一生の恥!」と思い、決死の思いで弓を取り返している。
最後の壇ノ浦の戦いでも、敵に追い詰められた義経が八艘飛び(←実際に当時の鎧を纏った状態では一間(1.8m)も飛べない)で難を逃れ、平教経の強襲から義経を庇った安芸太郎・次郎兄弟が道連れにされて海中に沈むという危機が連発しており、そんな激戦にあって義経に近侍していた弁慶の尽力が見られないのはどうにも腑に落ちない。

 まあ、平家滅亡後の兄弟確執にあっては、弁慶は活躍しまくっているので、「弁慶の戦闘スタイルは合戦には不向きで、少人数での小競り合い・喧嘩・果し合いに向いていた。」という見方が出来なくもない(笑)。

 ともあれ、実在を疑いたくなる圧巻はその最期だろう。
 或る意味、戦士にとって、華々しい討ち死にをする場は最後にして最大の見せ場で、弁慶ならずとも多少の脚色が入るのは無理も無い。まして立往生は人間離れするとともに、出来過ぎとみる人も多いだろう。
 だが、真偽はさておき、「弁慶の立往生」が絶大なインパクトと人気を博しているのは疑いようがない。実際、立往生は多くの漫画でも取り入れられた。

フィクションにおける様々な立往生の例
立往生したキャラ作品死に様
悪来典韋『三国志演義』 張繍勢から矢の雨を浴びせられて。丸っきり弁慶(注:史実の典韋は弁慶より一〇〇〇年程前の人物だが、『三国志演義』の成立は明代)。
番場蛮『侍ジャイアンツ』 最終回最後の打者を打ち取った直後に心臓発作にて死亡。
ウォーズマン『キン肉マン』 バッファローマンのハリケーン・ミキサーを食らって。
松田鏡二『ブラックエンジェルズ』 竜牙会の薬物兵士の生き残りにマシンガンで脳天を撃ち抜かれて。
ラオウ『北斗の拳』 ケンシロウとの戦いに敗れた直後、「わが生涯に一片の悔いなし!!」という漫画史上屈指の名台詞と共に片腕を天に挙げた直立不動のポーズで昇天。
蛮頭大虎『花の慶次』 城門突破時に中にいた本間兵に槍で刺されて致命傷。死を覚悟した後、駆けるだけ駆けて、軍旗を支えに絶命。
他多数。


 正直、最初に「立往生」を考えた人物は天才だと思う。
 逆を云えば、薩摩守は、立往生はフィクションだと思っている(弁慶の実在は疑っていない)。いくつかのサイトを当たってみた結果、立往生自体は物凄い低確率ながらも死の状況によっては急速な死後硬直などの要因で全くあり得ない話でもないらしい。が、本当に弁慶立往生していれば、その記述が『義経記』だけに収まるとは思えないので。

 最後に、とある雑学の書籍で見た(つまりは信ぴょう性が極めて疑わしい)弁慶にまつわるエピソードを一つ。
 それは弁慶が生涯に一度しかSEXをしなかったと云うものである。生まれて初めてSEXをした際に弁慶はその余りの気持ち良さに、「この快楽に溺れたら人間は駄目になる!」と思い、以後、二度とSEXしなかったと云うものである。

 とても信じられない…………うちの道場主なんて初めてしたときには余りの気持ち良さにそのまま立て続けに二回‥……うぎゃああああああああああああああああああ!!!!!!!(←道場主の片羽絞めを食らっている)



薩摩守所感 ゴホッゴホッごほっ……ああ〜苦しかった………コホン……優れた人物の下には、優れた股肱之臣あり、と考えるのは世の常である。『三国志演義』の超絶人気キャラクター関羽雲長の下に周倉と云う架空の人物が創られ、関羽を祭る関帝廟には常に関平と共にその脇を固めている。
 云うなれば、武蔵坊弁慶は源義経にとっての「周倉」を任じられたのだろう。

 まず、肝心の「実在したのか?」という問題に関しては、既に世間的にも「伝説にあるような化け物じみたものではなかったが、弁慶と云う人物自体は存在した。」でほぼ定着している(←どうあっても定説に逆らいたがるひねくれ者は無視しています)。
 最大の証拠は『吾妻鏡』にその名が記載されていることだろう(義経郎党の一人として名を連ねているだけだが)。『吾妻鏡』の成立は鎌倉時代で、初代将軍源頼朝から六代目宗尊親王までの将軍記である。勿論「北条得宗家のプロパガンダ史書」と云う側面は色濃いのだが、逆を云えば、北条得宗家の為にも、共に初代頼朝と戦った相手を記しているのは実在の証拠としては充分だろう。
 征夷大将軍としての頼朝に触れるなら、将軍就任前の事績、それも北条家にとって都合の悪いことは伏せてもいいぐらいだ。

 少し話は逸れるが、世の中にはプロパガンダ史書に対して史料としての価値を認めない人々もいるが、薩摩守はそんなことはないと思う。
 確かに鵜呑みには出来ないが、プロパガンダを行う対象を考えると、本来貶めてもおかしくない相手を褒めたり、持ち上げるべき対象(つまり主筋)を悪く書いてあったりする内容に関しては相当信用出来ると見ていいだろう(つまり、誤魔化しようがないという意味で)。

 北条得宗家にとって、源義経とその一行は武士政権を確立する障害となる「敵」だった。特に義経が頼朝の許可なく後白河法皇から任官を受けたことは、武家の棟梁として許せないことだっただろう。
 北条得宗家の初代・北条時政は(←実際には余りの悪辣な性格ゆえ、初代と認められていない(笑))、頼朝追討の院宣を出した後白河法皇に相対して、その弱みにつけ込むように上洛して法皇から義経追捕の為に全国に守護・地頭を置く許可を勝ち取るなど、義経追捕の急先鋒を務めもした。
 頼朝・時政の放った刺客を次々返り討ちにし、咄嗟の機転で逃避行を完遂させ、最期の大捕物にて化け物じみた活躍をした弁慶などその存在を隠したいぐらいだろう。
 それでも名が残ったと云うことは、「本当にそれだけの活躍をし、それでも名前を消せないほど有名だった」か、「北条得宗家にとって目くじらを立てる程でもないが、ちゃんと実在した」かのどれかだろう。

 まあ、主君の義経にしてから、「衣川で死なず、北海道から大陸に逃れてチンギス・ハーンになった。」という伝説が生まれたぐらいだから、その近侍に多大な脚色が為されても然程不思議ではないし、何より「判官贔屓」を含め、そんな題材にしたくなるほど人気と話の作りどころが義経と弁慶にはあったと云うことだろう。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新