第壱頁 行基………人心を惑わす『私度僧』

名前行基(ぎょうき)
生没年天智天皇七(668)年〜天平二一(749)年二月二日
宗派法相宗
弾圧者奈良朝廷
諡号行基菩薩・行基大徳
略歴 日本史上最初に「大僧正」の地位に就いた有名な奈良時代の高僧が行基である。
 時代がまだ飛鳥時代だった天智天皇七(668)年河内国大鳥郡(現:大阪府堺市家原寺町)に生まれた。
 父は日本に『論語』を伝えたとされる王仁(わに)を祖とする百済系渡来人の末裔である高志才智(こしのさいち)、母・蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)で、その長子に生まれた。

 天武一一(682)年に一五歳で出家、飛鳥寺で法相宗等の教学を学んだ。その師・道昭(どうしょう)は遣唐使に随行して入唐し、三蔵法師として有名な玄奘の教えを受けた人物で、恐らく行基の様々な土木知識は道昭から学んだものと思われる(実際、道昭も土木工事の指揮に長けていた)。
 大宝四(704)年に生家を家原寺としてそこに居住。近畿地方を中心に集団を率いて貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動。溜池・溝・堀・架橋・温泉・布施屋等を数多く設立。そのすべてを記載すればそれだけで一つのサイトになりかねない。
 だが、多くの人間を率いたことが朝廷から「民衆を扇動する人物」と見做された。それは寺外での活動は当時の僧尼令(そうにりょう)に反していたためで、養老元(717)年四月二三日には行基を糾弾する詔まで出た。

 だが行基の指導で生まれた墾田や福祉施設は豪族や民衆に圧倒的に支持され、朝廷も彼の活動を反動的なものではないことを認め、天平三(731)年に弾圧を緩め、早くも天平四(732)年には既にその土木技術・農民指導能力を買って、河内国狭山池の築造に行基を利用していた。役に立つとなると極端なまでに態度が変わったものである

 天平八(736)年、インドの高僧・菩提僊那(ぼだいせんな。サンスクリット語ではボーディセーナ)が仲間の僧二人とともに来日した際に行基は大宰府にて彼等を迎え、平城京入京・大安寺居住の案内を務めた。
 だが、その後の世相暗転が行基を新たな活動に駆り出すこととなった。

 天平九(737)年四月、朝鮮半島→九州経由で流行した天然痘が平城京にも侵入し、時の権力者・藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)も僅か五ヶ月の間に全滅する有様で、聖武天皇は冤罪(と思われる)者達の恩赦を行い、僧一〇〇〇人に懸命に病魔退散の祈祷をさせた。
 現代医学ではそんな事をしてもどうにもならないのははっきりしているが、ウィルスはおろか、細菌の存在さえ知らない古代では大真面目だったに違いない。そんな中、感染爆発の翌年である天平一〇(738)年に行基は「行基大徳」の諡号が授けられた。

 その後も天平一二(739)年の藤原広嗣の乱を初め、各種天災等の災厄が人々を襲い、聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ、更には信仰の中心となる大仏建立を決意するに至った。
 勿論、それは国家を挙げての大工事で、世の平穏を願った筈の大仏建立だったのが、建立増税でその後の民衆が却って苦しめたことは小学校でも教えられる有名な話である。
 実際、どれくらい大変かというと、大仏及び大仏殿建造費は現在の価格にして約四六五七億円!!!(関西大学・宮本勝浩教授らによる『東大寺要録』を元に行った試算による) 来日中だった菩提僊那→インド人も吃驚の高額である。

 バーミヤンの石仏の様に高い岩山の岸壁に掘る方が技術的にも、経済的にも容易だったのだが、日本にはそんな岩山が無かった!
 それゆえ、百済系渡来人の仏師・国中公麻呂(くになかのきみまろ)に銅造盧舎那仏鋳造が命ぜられ、人民動員の頭として行基に白羽の矢が立った。

 行基は天平一二(740)年から大仏建立に協力。翌年天平一三(741)年三月に聖武天皇と恭仁京郊外・泉橋院で会見、二年後の天平一五(742)年に大仏造営の勧進に起用された。
 朝廷サイドの期待に違わず、行基による勧進効果は大きく、この功績を買った朝廷はまだ大仏が建立中にも拘らず、天平一七(745)年に仏教界における最高位である「大僧正」の位を行基に贈った。

 だが天平二一(749)年二月二日、大仏完成を待たずして行基は喜光寺で入滅した。享年八一歳。生駒・往生院で火葬後、竹林寺に遺骨が奉納された。
 そしてこの行基の死が堪えたのかどうかは定かではないが、同年聖武天皇は出家・退位した。更に同年はそれまで日本には無いと思われていた金が陸奥国で発見され、その記念で天平から天平感宝に、孝謙天皇の即位で天平勝宝に、と一年で二度の改元が行われた(←後から歴史を学ぶ者の苦労も考えんかい!!)。
 そして行基の死から三年を経て、金塗りが中途ではあったが、天平勝宝四(752)年四月九日に菩提僊那が導師を務める大仏開眼供養が行われた。菩提僊那が開眼の為に手にしていた筆からは多くの紐が伸び、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇・平城貴族・僧侶・一般民衆の多くがそれらの紐を手にして、開眼を共にした。
 そしてこの歴史的功績により、行基は東大寺・四聖の一人に数えられているのである(後の三人は菩提僊那・良弁・聖武天皇)。


弾圧 当初、行基が人心を惑わす怪僧として弾圧されていたのは有名である。歴史漫画・歴史ドラマでも民衆を教導する行基が居丈高な木端役人に解散を命じられ、棒や槍で追い払われるのを見たことのある方々も多いと思う。だが、弾圧の本質を知る為には当時の仏教事情を理解する必要がある。では行基は何故に弾圧されたのだろうか?

 時の権力である奈良朝廷が行基を弾圧した理由=罪状は、「僧尼令違反」である。
 僧尼令とは、大宝元(701)年六月一日に制定された大宝律令に始まる律令法に設けられた編目の一つで、養老令においては全二七条で構成。僧・尼僧に国家公認の証である度牒を受け、管理する法令である。つまりは純粋な人員管理で、宗教の内容自体には干渉していない。

 では行基はその令のどこに反したのか?
 僧尼令の詳細な規定は不詳だが、僧尼の行動に関する取り決めを対象に主な点を挙げると、

 ・破戒行為的な犯罪に対する処罰
 ・国家任命の僧綱による寺院及び僧尼への自治的統制
 ・私度(国家の公認なき私的な得度=僧籍獲得)や民衆教化の禁止
 ・山林修行や乞食行為に対する制限
 ・天文現象をもって災祥を説く行為への処罰
 ・国家・天皇を論難して百姓を妖惑する行為への処罰
 ・禁書(兵書など)の習読禁止。


 となっていた。違反者には徒罪(懲役)・杖罪(杖による殴打)・笞罪(鞭打ち)等が科された。特に重いと断じられた罪に対しては、還俗した上で律令法による処罰が加えられることもあった。行基が違反していたのは「私度や民衆教化の禁止」が該当する。

 まずは「私度」についてだが、古代、律令制度下の日本において、剃髪して僧籍に入るのは年に一〇名の定員を得度の原則としていた(「年分度」と呼ばれた。別に官寺定員不足、高貴な者の病気回復祈願等の際に行われた「臨時度」もあった)。行基はこれを受けていない。
 公的な得度は試験に合格することで官の許可を受け、度者として得度を証明する文書として度牒(どちょう)の官給を受けた。度牒には得度者の氏名・年齢・本貫地等を師僧が保障し、玄蕃寮、治部省などの官人や僧綱の署名を得た後、太政官印が押された。

 こうして得度した者は課役を免除される特権があったので、当時の税制である租庸調や兵役である衛士・防人の免除を狙って官の許可なく僧となる輩も続出した。これが私度僧である。
 実際、僧籍に入る事を悪用する仏教界の悪しき風潮を改めんとして、後の時代に鑑真が唐から招かれたり、政教分離を求めて桓武天皇が平城京を捨てたりしたのは有名である。

 だが私度僧が無条件に弾圧された訳ではなかった。僧侶としての真面目に修行・活動を行っていた者に対しては寛容に見られていた節もある。逆に修行が認められて後から正式な得度が行われた者も少なくない。弘法大師(空海)様も元は私度僧である。
 つまりは税や兵役からの逃避を目的とした私度僧が取締り対象となった。

 まあ、僧侶ならずとも国家の管理の外に出ようとする者を統制するのは時の権力の常である。冒頭でも触れたが、当時の仏教は宗教というよりは国家統制下の学問と云った方が相応しい。江戸時代や李氏朝鮮での朱子学と似た立場にあったと云えようか。
 また、本来溜め池や橋の建設は国家が行うべきところを、行基が私的に指揮していたことも、朝廷としては気に食わない所だったのだろう。

 実際、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと云われている。つまり国家統制下に入り、臣民義務からの逃避が無ければそんなに目くじらを立てる問題ではなく、平安時代以降も僧尼令による処罰は然程厳格ではなく、義務逃れには厳しかったが、私度僧そのものは正式な統制下に置こうとする傾向が強かった。
 そんな状態だったから次第に僧尼令の規定は形骸化していった。

 結局、調べてみて分かったが、行基は一般に大仏建立への協力を期待されて朝廷が掌を返すように厚遇した従来のイメージとは些か異なり、それよりも早く土木工事の実績は認められ、朝廷と行基大仏建立に先駆けてある意味「和睦」していたと云える。


実態 出家後の、行基の行動は基本的に終生変わっていない。大仏建立への協力が有名だが、それ以前から土木工事の指揮で民衆から尊敬されていたのも有名である。
 だが、それにしても行基は充分な能力を持ちながら何故に公式の得度を受けなかったのだろうか?勿論俗世間を離れるのが出家だから、真面目に官による得度に価値を感じていなかった真面目な私度僧は行基以外にもいたことだろうから、行基が官との関係に無頓着だったとしても不思議ではない。

 だが、分からないのは行基の行動が当時の農政を先駆けていたことである。

 大宝律令が制定された大宝元(701)年、農政の基本として班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が制定された。時に行基は三四歳である。
 この法は全国の農地を班田(国家の公田)として、すべての農民は六歳になると国から土地を与えられ、その土地を耕作し、収穫物を納税する義務を終生課された訳だが、過酷な納税に土地から逃げ出し、流賊と科す者も続出した。また遠隔地の納税者の中には帰途に食料が尽きて野垂れ死ぬ者もいた。
 そこで朝廷は養老七(723)年に土地の私有を三代まで認める三世一身法(さんぜいっしんのほう)を、天平一五(743)年に土地の私有を永久に認める墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が施行され、新田開発が奨励された。
 両法の制定時、行基はそれぞれ五五歳と七五歳で、当時としてはかなりの高齢である。また墾田永年私財法制定時は既に大仏建立への協力が始まっていた。つまり行基が最も精力的に灌漑工事の指揮に勤しんでいた頃、その行動はかなり時代を先駆けて近畿一円の農業を飛躍的に向上させていたのだから、実生活でも、思想面でも大きく人々を助けていたことになる。

 そんな人生の中で行基は古式の日本地図である「行基図」を作成し、日本全国を歩き回り、行基が手掛けた建築物は膨大な数に上る。その紹介は切りが無いし、本作の趣旨でもないので、建築物上、行基が足を運んだ地名を列記することでその幅広さを示して締めとしたい。


行基が足を運んだ国(伝説を含む)
 河内・和泉・摂津・大和・播磨・近江・山背・丹後・讃岐・尾張・三河・信濃・美作・伯耆・加賀・伊豆・上野・筑前・出羽・陸奥・他多数。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新