第弐頁 道鏡……日本版・嫪毐?万世一系初の危機到来

名前弓削道鏡(ゆげのどうきょう)
生没年文武天皇四(700)年〜 宝亀三(772)年四月七日
宗派法相宗
弾圧者藤原氏、天智系支持者、皇国史観論者
諡号特になし
略歴 文武天皇四(700)年道鏡は河内国若江(現:大阪府八尾市)に生まれた。父は弓削櫛麻呂(ゆげのくしまろ)で、弓削氏は古墳時代の豪族・物部氏の流れを汲む。
 弓削姓は弓削連(ゆげむらじ)に由来する為、道鏡自身、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。

 若き日に法相宗の高僧・義淵(ぎえん)に弟子入りし、良弁(ろうべん。東大寺開山者にして四聖の一人)に梵語(サンスクリット語)を学んだ。
 禅に通じていたことで禅師となり、宮内の仏殿である内道場に入る事を許された。「禅師」といえば禅僧を想像しがちだが、この時代臨済宗も曹洞宗も確立しておらず禅僧を指す言葉ではない。
 禅行と呼ばれる山林修行を行った僧に対する敬称として「禅師」は広く用いられ、僧医として治療活動を行う者に対しても与えられた。道鏡にはピタリと当てはまる。

 天平宝字五(761)年に、近江国保良宮にて病に伏せっていた孝謙上皇の看病を担当し、祈祷によって治癒した上皇の寵愛を得た。
 時の帝・淳仁天皇と恵美押勝(藤原仲麻呂)は道鏡が更に寵愛されることで自分達の対抗勢力となることを懸念し、天皇から上皇に「怪しい僧をお近付けにならないように…。」と持ちかけたが、上皇は「大きなお世話!」と云わんばかりにこれに激怒・逆上した。

 孝謙上皇は天平宝字六(762)年六月に出家して尼となり、淳仁天皇に対して「小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言し、天平宝字七(763)年に道鏡少僧都(僧正・大僧都に続く仏教界のナンバースリー)に任じて淳仁天皇・押勝を牽制した。
 事ここに至って恵美押勝は天平宝字八(763)年に軍事力による政権奪取を図るが、九月一一日に密告によってこれを知った上皇は先手を打って押勝追討の派兵を行った。これに押勝は敗れ、捕えられて妻子共々斬られ、淳仁天皇は退位させられた上、淡路島に流され、明治時代に諡号されるまで歴代天皇の一人として認められない、という仕打ちすら受けた(恵美押勝の乱)。

 こうして孝謙上皇は再び皇位に重祚し、重祚後は称徳天皇と呼ばれた。そして天平神護元(765)年一二月に道鏡太政大臣禅師に任ぜられ、翌年の天平神護二(766)年には法王となった。
 この類を見ない出世は道鏡一人に留まらず、弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)は八年間で従二位大納言にまで昇進し、五位以上に昇進した弟子は一〇人に登り、その権勢は藤原四兄弟もかくやという程だった。
 この権勢に藤原良継(式家当主)・藤原永手(北家当主)・藤原百川(式家当主次弟)といった藤原家の遣り手達ですら黙って辛抱するしかなかった。百川に至っては道鏡に取入る始末だった(表向きだが)。

 だが、宇佐八幡宮神託事件道鏡の大躍進に歯止めを掛けた。
 宇佐八幡宮は豊前国にある応神天皇を祭神とした神宮で、過去には東大寺造営や藤原氏への位階授与の神託を相乗して、自らの品位を高めていた。
 その宇佐八幡宮より、神護景雲三(769)年五月に、道鏡が皇位に就けば天下泰平となる」という驚天動地の神託を大宰主神(だざいのかんづかさ)・中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が伝えて来たのである。もし捏造なら称徳天皇・道鏡に対する尋常ならざるお追従だろう

 称徳天皇は大喜びしたが、当然皇族以外に皇位を譲るという前例なき勧めに、神託といえども藤原氏を初め、多くの貴族が反発し、「事の真偽を確かめるべし。」となった。
 そこで称徳天皇は側近の法均尼・和気広虫(ほうきんに・わけのひろむし)に相談し、広虫は弟・和気清麻呂(わけのきよまろ)を推挙した。
 清麻呂は出発に際し、道鏡からも藤原氏からも、それぞれに都合のいい神託を持ち帰るよう云われ、道鏡は即位後の清麻呂の出世を約束し、藤原氏は万世一系(一つの系統である天皇家が永久に皇統として続くこと)の死守を説いた。
 気の重い旅路を行き、九月二五日に宇佐八幡から帰って来た清麻呂は、これまでに臣下が皇位に就いた例はなく、皇族で無い道鏡の事を「道に外れた者」として、「除くべし」と言上し、道鏡即位の話は壊れた。

 期待に反する報告を受け、道鏡は清麻呂に「神のお告げを偽るな!」と激怒(←「アンタ坊主でしょ?!」とのツッコミを入れねばなるまい)したが、称徳天皇はもっと激怒し、清麻呂に対して「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という文字通り「汚名」を与えて、姉の法均尼ともども流罪にするという駄々っ子の嫌がらせみたいな報復を行って、怒りを露わにしたが、この醜い争いも神護景雲四(770)年八月四日に称徳天皇が病死することで終わりを告げた(直後に清麻呂政界復帰)。

 道鏡は葬礼の後も称徳天皇の御陵を守ったが、八月二一日、造下野薬師寺別当を命ぜられて下野に下向し、二年後の宝亀三(772)年四月七日にその地で没した。享年七二歳。


弾圧 何せ、看病禅師に過ぎなかった僧侶が孝謙上皇の寵愛を受け、異例の大出世を遂げたため、道鏡は藤原氏を初めとする貴族達に凄まじく妬まれ、憎まれた。
 その憎まれ振りは死後も続き、道鏡には古来より称徳女帝(ややこしいので、以降は「称徳天皇」で統一)との姦淫説が囁かれ、その醜聞に端を発した巨根説も囁かれた。
 更には、一時とは云え、不成立とは云え、臣下の身で皇位に就きかけたことが万世一系を重んじる人々の怒りを買い、戦前は日本史上三大悪人の一人にさえ数えられた(後の二人は平将門と足利尊氏)。

 とは云うものの、実の所、道鏡自身はそんなひどい仕打ちを受けていない。
 確かに左遷されたが、政治的には「普通の僧侶に戻った」との意味合いが強く、称徳天皇崩御時に既に七一歳だった道鏡が尚も皇位や政権に執着していたのだとしたら失脚だが、道鏡が執着した様子は窺えない。
 称徳天皇崩御時に、道鏡の弟・浄人は藤原氏の様子がおかしいことを告げ、兵を集めることを進言したが、当の道鏡本人は称徳天皇亡き後の権力に執着せず、そのまま左遷を受け入れたが、一応は転勤に近い。まあ今の世の中でも本社からかなり遠い地方への転勤を左遷の一環として行う例はあるが……。
 そして道鏡自身は長年の功労により正式な刑罰は科されず、静かに任地・下野にて生涯を終えた。ただ、浄人とその息子広方・広田・広津の四名が捕えられて土佐国に配流された(後に赦免されて河内に戻るが、入京は終生禁じられた)。
 ちなみに亡くなった後の道鏡は下野市の龍興寺に庶人として葬られたが、称徳天皇崩御と共に権力への執着を亡くした道鏡が死後の身分にまでこだわったとは思えない。

 だが、異例の出世や、身内・押勝失脚の原因となった道鏡に対して、生前の仕打ちより、死後の方が尋常ない程の中傷が相次いだ。
 その筆頭が称徳天皇との醜聞である。
 身分と即位の経緯ゆえに生涯独身を余儀なくされたとはいえ、称徳天皇も女である。男を求めたとしても不思議はなく、病気快癒を機会に寵愛を得た道鏡が異例の出征を遂げたのも、両者が男女の仲になったから………………………と周囲の者達は、或いはそう見做し、或いはそう邪推し、或いはそう真剣に考えたのであろう。
 ちなみに道鏡が称徳天皇の快癒祈祷を行った時、道鏡六二歳、称徳天皇四四歳である。僧侶である道鏡は童貞だっただろうし、称徳天皇は処女だっただろうし、その年齢まで異性を知らなかった者同士が急に老いらくの恋が始まったとは考え難いのだが、それでも実しやかに不倫説を囁くのだから古今東西人間というのは本当に醜聞が好きである。まあ薩摩守自身、低確率ではあっても可能性0とまでは考えていないのだが。

 両者の、当時としては老人とも云える年齢の間柄ゆえに、仮説・邪推・いい加減な噂は凝ったものとなった。つまり、そんな両者が恋仲になったからには、物凄い理由が有った……………と想像されたものか、生まれたのが「道鏡巨根説」である。
 つまり、並はずれた巨根だからこそ、称徳天皇が年も立場も度外視して道鏡に惚れ込み、尋常じゃない寵愛ゆえに尋常じゃない出世が可能になったという理屈である。
 勿論、これが事実だったとしても正史に記載される訳はなく、説として触れているのは主に説話集である。ちなみに巨根と云っても、どれぐらいでかいイチモツだったのか?と問われて、江戸時代の有名な川柳を参考にすると、

道鏡は 座ると膝が 三つでき」


というものがある。正座状態で膝と間違われる程の巨根とは何とも羨ま……………………ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!……いやいや、阿呆なことを考えている場合じゃなかった……。  まあ、下品且つ、とんでもない説が流布した訳だが、薩摩守はこの説を『史記』のパクリではないか、と見ている。
 『史記』にて暴君の代表取締役(?)とも云える殷の紂王が面白半分に妊婦の腹を裂いて胎児の性別を確かめたという、残虐伝説が武田信虎や豊臣秀次に重ねられたように、嫪毐(ろうあい)の伝説が道鏡に重ねられたのではないか?と見ているのである。

 そこで『史記』の該当箇所に就いて触れておきたい。
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 秦の始皇帝の時代。始皇帝(この時はまだ秦王)の母は淫蕩な性格で、始皇帝の父・荘襄王の死後、孤閨に耐えられず、かつての主人だった呂不韋(りょふい)を後宮に連れ込んで逢瀬を重ねていた。
 王太后は元々呂不韋の囲い者で、自らが後見していた荘襄王にねだられて譲った経緯があり、始皇帝は呂不韋の子とする説すらあった。勿論その縁で始皇帝が秦王となった頃には呂不韋は権力の絶頂にあったが、それでも後宮に忍び込んでいることがばれたら命はない。だが、王太后は男無しでは済まない。
 そこで呂不韋は一計を案じ、自分の食客で、イチモツを軸に車輪を回せるほどの巨根漢・嫪毐を偽宦官に仕立てて、後宮に送り込み、王太后の性欲を満足させたのである。
 だが、密告者が現れ、偽宦官であることがばれた嫪毐は地位を利用して兵を集め、自分と王太后の間に生まれた子供(つまり始皇帝の異父弟)を王に立てるという謀反を企んだが、簡単に鎮圧され、車裂きにされて、巨根を誇った体も無残な骸を晒した。
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 とまあ、イチモツがデカいだけで天下を取ろうとした男が中国の正史には残っており、遣唐使が盛んだった奈良時代において『史記』は一般教養だったから当時の貴族はこの話を知っていた可能性は極めて高い。更に僧侶は中国語と梵語を学んでいたし、称徳天皇や恵美押勝はかなりの唐かぶれだった。
 つまり醜聞の話に尾ひれ胸びれが着く内に、道鏡の巨根伝説が生まれたのではないか?と薩摩守は考えているのである。

 まあ、人間とはエロい生き物で、またそうでなければ子孫繁栄は成り立たないのだが、口さがない話である。
 だが道鏡が必要以上に悪し様に云われたのには何と云っても宇佐八幡宮事件が大きく影を落としている。これにより道鏡万世一系を危うくした国賊」と叫ばれたのである。特に戦前の皇国史観下において。
 天皇家は現在に至るまで、皇統が途絶えていない世界のどの国の帝室・王家よりも長い歴史を持っていて(途中で途絶えたのではないか?という異説も存在するが)、大日本帝国憲法には「万世一系」が明記されていた。それゆえ、この万世一系を危うくすることはとんでもない大罪とされた。これは現代においても笑い話ではなく、今上天皇(徳仁)陛下の子には内親王殿下しかおられず、女性天皇誕生の可能性があるのだが、猛反対している勢力が存在する。

 宇佐八幡宮事件における道鏡と称徳天皇の言動を見てみると、道鏡本人より称徳天皇の方が神託を喜び、和気清麻呂によって否定された時も、称徳天皇の方が激怒している。もっとも、道鏡も宇佐に旅立つ前の清麻呂に事後の出世を約束して(自分に都合の)いい神託を持ち帰る事を要請し、神託否定の折には前述の激怒をしているので、皇位に全く色気が無かったと云い切るのもどうかと思う。
 いずれにしても皇国史観論者は、道鏡は勿論、称徳天皇にも容赦が無かった。とはいっても戦前は皇位に就いた事のある人への悪口が許されない状態だったから勢い、罵声は道鏡中心になるのだが、江戸時代の川柳には、

「称徳は 崩御崩御と 詔(みことのり)」

というものがあった。
 早い話、称徳天皇をおちょくっているのである。江戸時代は将軍や大名の悪口を云えば処刑される可能性すらあったから、古代の皇族・貴族や、江戸以前の大名の悪口が流行した。いつの時代でも一般ピープルはエラい奴が嫌いなものである。
 下品な解説を加えると、この川柳は寝床にて巨根の道鏡に抱かれている称徳天皇が「崩御」=「死ぬ」と「詔」=云っていた、と詠っている。
 下品ついでにありていに云えば、「道鏡とやっていて、ヒィヒィ云っていた」と云いたい訳だ。まぁいつの時代でも野郎と云うものは女のよがり声が大好……ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!…………まあ、つまりは皇位簒奪しかねなかった者と、天皇でありながら皇族以外に皇位を譲ることで万世一系を崩壊させかねなかった者に皇国史観はこれでもかという罵声を、嘲りを込めて浴びせた訳である。

 道鏡と称徳天皇を必要以上に貶めた背景にはもう一つ注目すべきものがある。
 それは天武系と天智系という二つの皇統である。結論を先に云えば、称徳天皇崩御後、天智系が重んじられたため、天武系である称徳天皇とその取り巻きは悪し様に云われ続けた。
 当時の皇統には大化の改新で政権を握った天智天皇の血統と、その弟で、壬申の乱で天智天皇の子・弘文天皇(大友皇子)を討って皇位を得た天武天皇の血統が存在した。
 天智天皇と天武天皇の間柄には年齢・間柄・続柄に謎が多く、ここではそれには触れないが、奈良時代の貴族達の政争には両統の存在を利用し、自らの支持する血統の皇族を天皇に立てることで政権を得ようとする者が多かった。

 そして称徳天皇は天武系だった。父方の祖母が藤原宮子で母親は藤三娘・光明子である称徳天皇は藤原氏にとってかなり濃い血族だったが、始祖・藤原鎌足と天智天皇の関係もあって、歴史的には藤原氏は天智派だった(そう云い切れるほど単純な家系ではないのだが)。
 それゆえ称徳天皇存命中は問題ないとしても、称徳天皇に子供が生まれる可能性が無い以上、次の天皇は天智系を立てたかった。
 前述した様に称徳天皇は生涯結婚していない。日本史上ただ一人皇女で「皇太子」に指名されて即位した女帝で、それ故身分的に釣り合う相手が存在しなかったためである。  結果、称徳天皇崩御後、残されていた(事にされた)詔によって、白壁王(しらかべおう)が即位し、第四九代・光仁天皇となった。その後、天武系の血を引き、その血を残す可能性のあった井上内親王を初めとする皇族が次々変死し、天武系が完全に途絶えた。
 内親王達の死も変なら、その直後に藤原良継・藤原百川を初めとする式家の兄弟も数年の内に次々死を遂げているのも変で、天武系途絶には相当後ろ暗い暗闘が有ったと思われる。この流れを正当化したい者達が天武系を貶めるのも充分あり得るし、その天武系の女帝と醜聞の有った道鏡は格好の罵声対象だったことだろう。


実態 上記の様な背景・史実・伝承が様々な形でミックスして、道鏡は戦前、「皇位簒奪をもくろんだ者」として「日本死三大悪人」の一人とされ、戦後から現在に至るも「巨根の怪僧」と見做されている。
 またロシア帝国最後の皇帝・ニコライU世に近侍したラスプーチンが「僧医として皇帝に取入った」・「巨根の持ち主だった」ということが道鏡伝説に共通することから、道鏡「日本のラスプーチン」と呼ばれることもある。
 では、実際の所、道鏡の人柄や野心はどうだったのだろう。

 薩摩守は、
 道鏡は思いもかけず称徳天皇の寵愛を得て、望外の出世から人並みに権力や高貴な地位に色気を見せたが、基本は僧侶だった。」
 と見ている。

 奈良時代は天災・疫病・政争・過酷な新重税・辺境への兵役で庶民にとっては地獄のような時代だった(その悲惨さは『貧窮問答歌』にも見られる)。仏教文化が花開いた時代でもあるが、官学化している仏教は行基の様な例を除けば民衆には余り関係なく、各国の国分寺・国分尼寺造営大仏建立は非情な負担でしかなかった。

 だが、称徳天皇が重祚した天平宝字八(763)年頃にもなると貴族間の政争は続いたものの、天災や疫病はなりを潜めつつあった。また税や兵役を逃れる為のエセ坊主の多発に対して仏教界の刷新が図られるなど、時代が変わりつつあった。
 そんな時代背景にあって、法王となって政権を握った道鏡は仏教の理念に基づいた政策を推進。信心深い称徳天皇もこれを支持した。もっとも、実質は官学者でも建前上は世捨て人である法体が政治に参与し、弟や弟子までもが極端に出世した事に藤原氏等の貴族が反感を持ったのも無理はないことだった。ただ、これにより道鏡が悪政を行ったとは思えないし、民衆サイドの不服を示す史料は薩摩守が知る限りにおいては見当たらない。

 また、道鏡と称徳天皇との醜聞も伝説の域を出ないと見ている。女帝に手を出すだけでもとんでもない話で、それが事実なら道鏡を斬る者が出てもおかしくなかった。また当時の僧侶は女犯に対する戒律が現代とは比べ物にならないぐらい厳しく、女性に手を出すだけで僧職を剥奪された筈である。
 いずれにしても実際に姦淫が有れば藤原氏にとってはまたとない糾弾材料で、権謀術数に長けた藤原一族がこれを見逃したとは思えない。
 道鏡看病禅師になっていたのも、玉体に触れるとなると世俗を超越した存在=法体が適任とされた当時のごく自然な成り行きによるものだっただろう。
 後世、江戸幕府でも将軍や多くの女性達を診察した奥医師も法体で、昭和天皇が開腹手術を受けられた際に、「畏れ多くも玉体にメスを入れるなんて!」と激昂する右翼に備えて執刀医には特別警護がついたと聞いたことが有る。それほど玉体への看護は特別な話で、逆に云えば道鏡が怪僧なら周囲が阻止しただろうし、ましてや身体検査ぐらい行っただろうから、伝説通りの巨根ならそれが分かった時点で女帝への刺激を慮って(笑)、看病禅師就任は止められたことだろう。

 とはいえ、急激な身分の変化に戸惑い、地位や政権に色気を見せた点では道鏡も完全には世俗を超越出来なかったと見える。それでも「(称徳天皇)陛下あっての我等。」として崩御後に地位や政権に執着しなかった点では、最終的に道鏡は仏教徒だったと云えようか。
 いずれにしても人間は単純ではないということだろう。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新