最終頁 『怪僧』にされる時

『怪僧』と権威・権力の両面関係 ここまで読んで頂いた方々には薩摩守が一二頁に渡って取り上げて来た御坊様達を決して『怪僧』という目で見ていないことが御理解頂けると思う。何せ真言宗の御坊様が二人も含まれているのだから(苦笑)。

 改めて申し上げると『怪僧』の定義は、御坊様本人の実態ではなく、「どのように見られたか?」が基準になっている。
 『怪僧』扱いされた要因が行基和尚俊寛僧都顕如上人沢庵和尚の様に国家権力に睨まれたからである方々もいらっしゃれば、法然上人親鸞上人日蓮上人一休禅師の様に既存宗教や宗教上の既得権益者に敵視されたからである方々もいらっしゃるし、道鏡禅師金地院崇伝南光坊天海隆光僧正の様に権力に近侍したゆえに妬みや嫉みの視線に曝されたからである方々もいらっしゃる。
 この基準に当てはめ難かった為、(薩摩守の研究不足もあるが)三宝院万済安国寺恵瓊等は採択しなかった。

 いずれにしても権力や権威と云ったものと蜜月状態にあるか、反する状態にあるから『怪僧』にされてしまう。それゆえに権力や権威に認められると『怪僧』のイメージは瞬時にして消滅してしまうのである。ゆえに一時的な『怪僧』も含まれている。
 本作で採り上げた方々を見ていても、まさか行基和尚沢庵和尚『怪僧』と本気で思っている者など皆無と思うし、法然上人親鸞上人日蓮上人『怪僧』などと呼んだ日には想像を絶する非難に曝されるだろう

 日本に存在する仏教の各宗派間の関係は必ずしも良好なものばかりではなかった。弘法大師(空海)様と伝教大師(最澄)様は『理趣経』を巡って袂を分かち、真言宗と天台宗の僧が互いの寺院を行き来するようになったのは平成になってからだった。
 伝教大師は晩年、南都の僧達とも宗論を巡って論争に明け暮れる日々だったと云う。その天台宗から派生した日蓮宗の開祖・日蓮上人「禅天魔・真言亡国・念仏無間・律国賊」と主張したため、非難対象となった宗派の信徒は日蓮上人を快く思わないし、日蓮宗の信徒はその批判姿勢を引き継いでいる。
 そして浄土宗の信者の中には日蓮上人を焼き殺そうとした者や斬り掛った者もいた。この影響かどうかは分からないが、浄土宗と日蓮宗は戦国時代から江戸時代に掛けても宗論の場で何度も戦っている。勿論イデオロギー闘争ゆえにどちらが勝つことも負けることもない(双方とも己が敗北を決して認めないので)。

 そして醜いことに、同じ宗門でも、派が違えば罵り合うこともしばしばである。果たしてかような仏教徒同志の醜争を御仏も御釈迦様も望んでおられようか。
 そんな様だったから、もしある宗派に本当の意味で『怪僧』がいた場合、その者が大物であれば対立宗派は既存権威や蜜月権力を擁して、口を極めて罵るだろうし、小物であれば徹底的に無視するだろう。権威・権力が伴わなければ『怪僧』といえども、己が宗派の敵ではなく、怖くもなんともないのだから(むしろ、有り難い嘲笑対象である)。

 もし貴方が、古今東西ある僧侶に対して、「この坊主怪しいな?」と思われたら権力・権威との関係に注目し、実態を見て欲しい。ただの腐敗僧や生臭坊主なら気にする必要は無い筈である。


許せない『宗教悪用』と『騙り』ども 何度も記載したことだが、菜根道場道場主とその分身薩摩守は真言宗の信者である。だが、敬虔とはとても云えず、酒と肉食と女が大好きで、凶悪犯の死刑判決・死刑執行に賛成し、様々な事柄に執着が半端なく強く、悟りとも解脱とも謙虚とも程遠い人間である。

 過去に、名古屋で起きた闇サイト殺人事件の被害者遺族が死刑嘆願の署名をネット上で集めたときはこれに協力し、菜根道場BBSに「お前、それでも仏教徒か!仏教を信仰しているなんて笑わせるなw」と書き込まれた。
 書き込んだ者は勿論メールアドレスもサイトアドレスも記載せず、薩摩守の反論にも何も返さなかった(すぐに削除したこともあったと思うが)。確かにこんなこと書かれるとただでさえ敬虔とは云えない仏教徒と自分で分かっていても良い気分はしない。自分が仏教徒を名乗ることすらおこがましく思う時もある。
 だが、それでも薩摩守が棄教することは無い。
 本来人間がすべて高徳の僧の様な存在なら神仏も宗教も存在する必要がない。人間が欲望や執着に迷い、弱く、苦しみ、それでも清くあろう、正しくあろう、互いを愛し合おうという気持ちがあるから迷える衆生の救いとして宗教は存在すると信じる故に、未来においてどんな悪事を為そうと仏教を信仰するだろうし、悪事を起こさない為にも仏教を信仰している。

 ところが、悲しいことにそんな『宗教』が世の中から後ろ指を指されることがある。異教徒から「邪教だ!」と云って後ろ指を指されるならまだしも、無神論者ともいえる人々から、「独善」「テロの温床」「戦争の大義名分」と云われることがあり、「宗教はアヘン」と云った学者までいた

 だから叫びたい。

 「悪いのは宗教を悪用する奴らじゃい!!」

と。

 車・刃物・薬品・紐やロープが人間の生活に欠かせない便利なものも悪用すれば人を殺す道具となる。他方、護身を越えた重火器・核兵器・毒ガス・細菌兵器のように殺人や破壊しか存在意義の無いものもある。
 宗教は明らかに前者である。愛を説き、慈しみを説き、律することを説き、心に人生に未来に光を当ててくれるものでありながら、「教えを守る」という大義名分で数々の殺戮が行われた。目茶苦茶残酷なことをしながら「自衛」・「神の教え」と云って悪びれないのである(怒)
 薩摩守は宗教が為す悲劇に対して「神よ!仏よ!アッラーよ!本当にいるなら今の世の中を何とかせんかい!」と思ったこともある。
 だが、結局は「すべて人間のやったこと」とというとを失念してはならない。

 特撮番組に出て来る悪の組織ですら「理想」・「大義」を持ち、自らを「悪」と名乗るケースは少ない。或いは「今は悪でも、後々には我等が正義になる。」と思っているケースもある。そう、誰も進んで悪者にはならないのである
 宗教はそこでも悪用された。数々の宗教戦争・宗教テロ然り……。そして彼等は決まって彼らなりの(極めて身勝手で独善的な)正義を唱えるのである。

 「神仏を冒涜しとんのは貴様等じゃ!!」

と怒鳴りつけたくなる。
 ここはもう名前を出してやるが、本作制作中、ナイジェリアにて『ボコ・ハラム』というテロ組織が女学生寮を襲い、二〇〇名以上を拉致するというとんでもないことをしでかしやがった。
 しかも首領は犯行声明を出し、「少女達を売り飛ばす。」と宣言しているのである。そうする理由をアッラーがそうしろと仰っている。」等とほざいているのである!!

 薩摩守は歴史的に見ても、イスラム教はキリスト教より遥かに異教にも寛容で、昨今のタリバンやアル・カーイダのような原理主義者や過激派はイスラム教徒の中でもほんの一握りで、決して同一視してはならない、と考えているが、同一視している日本人は残念ながら少なくない。
 すべてのイスラム教関係者は決して『ボコ・ハラム』を認めず、非難することを明言して欲しいものである。
 いずれにせよ、純粋に人間として拉致された少女達の無事解放・救出を祈るし、すべての宗教の為にも一日もこんな大馬鹿野郎組織を壊滅に追いやりたいとの想いを禁じ得ない。



 また、これほどひどくなくても『騙り』も深刻である。
 税金逃れや、金集めの為のエセ宗教法人も宗教を信じる身としては許せないし、自らが為した悪事を正当化する為に「神仏の教え」と居直る奴等も一種の『騙り』と薩摩守は見ている。

 敢えて宗派名は書かないが、愛国心や祖国防衛を声高に主張し、先の太平洋戦争に対して、大東亜戦争は自存自衛の為の戦いだった!」とか「自虐史観を止めよ!」と叫び、そう云った内容の書籍を頻繁に出しているところもある。
 その宗派の流れを組む出版社は戦時中に日本軍が為した残虐行為を「捏造である」と主張する本を出し、「自分はその事件の被害者だ!」と訴えた外国人を嘘吐き呼ばわりしたが、執筆した某大学教授ともども見事に裁判に敗れていた。
 歴史を見る者としてはこの間抜け振りを笑う所だが、宗教を信じる者として、これが為に仏教そのものが好戦的・独善的・戦争やテロを支持する者と見做されるのは非常に耐え難いものがある。
 勿論毒ガスを撒いた某新興宗教関係者など凶悪犯罪に携わったものは全員死刑とし、知らずに支えた信者でも罪悪感を抱かない奴等は一人残らず叩きのめしたいぐらいである。
 まあ、こんな野蛮なことを書いている薩摩守自身も仏教のイメージを悪くしていないか注意しなくてはならないのだが。

 これらのことを踏まえ、最後に主張したい。
 『怪僧』は個人の資質で『怪僧』になるのではない。背後に権利や権威との迎合分離があって、敵対する者がいてその蔑称が生まれるのである。『怪僧』よりも独善・不寛容・暴走・エセ・悪用・正当化の方が『怪僧』よりも余程怖いことを宗教を信じる方々は勿論、宗教を信じない方々にも冷静な目を持って頂きたいと念じる次第である。

平成二六(2014)年五月一四日 菜根道場戦国房薩摩守



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令和三(2021)年五月二五日 最終更新