第拾弐頁 隆光……「『生類憐みの令』生みの親」は濡れ衣?

名前隆光(りゅうこう)
生没年慶安二(1649)年二月八日〜享保九(1724)年六月七日
宗派新義真言宗
弾圧者徳川家宣? 「生類憐みの令」を恨む人々?
諡号無し
略歴 一般に、「天下の悪法」と云われた『生類憐みの令』を第五代将軍徳川綱吉に勧めた怪僧とされる隆光は新義真言宗の高僧で、慶安二(1649)年二月八日、大和国の旧家・河辺氏に生まれた。出家前の初名は河辺隆長(かわべたかなが)。

 万治元(1658)年、一〇歳で仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学。後に奈良・醍醐で密教を修め、儒学・老荘思想も学んだ広い学識を持つ人物だった。

 天和三(1683)年閏五月二八日、将軍・徳川綱吉の子・徳川徳松が五歳で夭折。子宝に恵まれなかった綱吉が『生類憐みの令』に走る遠因となった。

 貞享三(1686)年、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の命により将軍家の祈祷寺である筑波山知足院住職に就任。一〇月三日に江戸城黒書院で安鎮法を修した。この時隆光三八歳。
 知足院は第三代将軍徳川家光薨去に伴って、その側室にして綱吉生母でもある桂昌院が落飾した寺で、落飾前から桂昌院は篤く仏教を信仰していた。
 つまりこれ以前から隆光は知足院にて桂昌院と面識があった可能性があったと思われる。

 桂昌院は親孝行な息子・綱吉が子宝に恵まれないのを綱吉以上に嘆き、帰依していた新義真言宗の僧・亮賢(りょうけん)に相談した。亮賢は上野国得成寺や高崎大聖護国寺の住職で、卜筮の名声が高く、かつて桂昌院をが五代将軍・綱吉を産むことを予言したという俗説がある。
 相談を持ち掛けられた亮賢は隆光を紹介し、隆光『生類憐みの令』発令に関わったとされるが、この詳細は後述の「実態」に譲りたい。

 貞享四(1687)年二月二七日、魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止され、『生類憐みの令』が始まった。その後、動物を愛護する法令が次々と発布されたが、厳罰化・煩雑化はエスカレートし、人々は法令ともにこれを「上様に唆した」と見た隆光も恨んだ。

 隆光自身は『生類憐みの令』が始まった翌年の元禄元(1688)年、知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となり、元禄八(1695)年には新義真言宗の僧として初めて大僧正となった。

 宝永二(1705)年六月二二日、桂昌院が薨去。強力な後ろ盾が喪われたのを潮時と見たか、隆光は二年後の宝永四(1707)年二月二五日、駿河台成満院に隠居した。
 そして宝永六(1709)年一月一〇日、綱吉が薨去すると江戸城への登城を禁じられ、筑波山知足院への復帰願いも認められなかった。
 失意の内に大和通法寺住職に左遷される形で帰郷した隆光は享保九(1724)年六月七日、同地にて入滅。隆光享年七六歳。


弾圧 とにかく隆光の評判はすこぶる悪い。その理由は二点。

 一点は周知の通り、『生類憐みの令』の推奨者であったと云うこと。
 もう一点は、戦国時代に戦火で失われた京・奈良の寺社の再建を綱吉・桂昌院母子に奨めたことで、幕府の財政悪化を招き、評判の悪い元禄金銀改鋳を初めとする悪しき経済政策の遠因ともなった、というものである。

 何せ徳川綱吉は「名君」であり、「暴君」でもあった。そして「名君」にせよ、「暴君」にせよ、多くの家臣の反対を押し切って政策を進める実行力なくしてその様に呼ばれることは無い。
 そんな綱吉には誰も逆らえなかった。有名な水戸光圀が『生類憐みの令』にあてを付けるように野犬三〇〇頭の毛皮を送ったなんて話もあるが、綱吉に逆らったと見做された光圀は、同じ御三家二代目で、従兄でもあるが、自分より年長の尾張光友・紀伊光貞に先んじて隠居に追いやられた。

 人間とは弱いもので、強者に逆らえない恨みを弱者にぶつけて鬱憤を晴らそうとする傾向がある。勿論無関係の弱者にぶつけたらただの「八つ当たり」・「いじめ」でしかないが、関係者となると話は違ってくる。
 つまり権力者に逆らえないとなると、権力者への憎悪は側近や入れ知恵者に集中するのである。側用人・柳沢吉保の評判がすこぶる悪いのは有名だが、隆光はこの吉保ともども時代劇でも佞者や怪人物の如く演じられる。道鏡・金地院崇伝同様、その時に逆らえなかった奴ほど恨みは後々まで響く。
 まあ晴らせてないからこそ恨みは尾を引く訳だが。

 そして権力者の寵愛を得て、「君側の奸」と見做された人物の栄耀栄華は権力者の死と供に終わるのが世の常である。
 参考までに『史記』の例を挙げたい。
 秦の昭王(始皇帝の曽祖父)の時代、説客・蔡沢(さいたく)が秦の宰相・范雎(はんしょ)に呉起(ごき)・呉子胥(ごししょ)・文種(ぶんしょう)・商鞅(しょうおう)と云った人々が王の寵愛を得て国を富ませながら、王の死後に悲惨な死に方をしている例を挙げ、范雎を取り立ててくれた昭王が元気な内に隠居することを勧め、范雎もこれに従った、という話がある。
 日本史上でも道鏡・梶原景時・石田三成・本多正純・田沼意次等の例が顕著である。

 隆光も予感は有ったかも知れない。前述したように隆光は宝永二(1705)年六月二二日の桂昌院薨去を受けて、二年後の宝永四(1707)年二月二五日、駿河台成満院に隠居している。
 だが、宝永六(1709)年一月一〇日、綱吉が薨去すると江戸城への登城を禁じられた訳だから、隆光を白眼視する風は消えていなかったことが分かる。同時に筑波山知足院への復帰願いも認められなかった。

 最期は故郷・大和で死ねたとはいえ、左遷される形での帰郷であった。
 権力者の死と共に地位を失った者は失脚から程なく失意の内に世を去るパターンが多いが、隆光は一五年後の享保九(1724)年六月七日まで生きた。失脚時点で六一歳の隆光がいつ天寿を全うしていてもおかしくなかったが、そんな隆光の中で失意がどこまで大きかったかは不鮮明である。
 意外にスケープゴートを逃れた悠々自適の余生だったかも知れない。


実態 注意すべきは隆光が決して権力者ではなく、助言者に過ぎなかったと云うことである。
 勿論桂昌院の寵愛や徳川綱吉の帰依から発言力・影響力が大きかったのも間違いないが、隆光の提言を受け入れるか否かの最終決定権を持っていたのは云うまでもなく綱吉であった。
 つまり『生類憐みの令』がどんなもので、どう運用されたとしても、その責任は綱吉に帰するのが穏当で、実際、綱吉も非難されるが、隆光もそれに負けず劣らず非難される。

 隆光が世人から嫌われたのは、取りも直さず『生類憐みの令』が人々から嫌われたからであった。それゆえ隆光の実態を正しく見る為、『生類憐みの令』の実態も正しく見てみたい。

 まず注意すべきは『生類憐みの令』とはその様な名前の法律が存在した訳ではなく、「動物保護を目的とした諸法の総称」である、ということである。
 「生類」は犬だけではなく、猫や鳥、魚類・貝類・虫類等の生き物全般、更には人間の幼児や老人にまで及んでいることが見失われ勝ちである。

 少し諸法の成立を見てみよう。
 貞享四(1687)年二月二七日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止
 元禄元(1688)年二月一日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される(綱吉の愛娘の名が「鶴姫」だったことが関係しているらしい)
 元禄四(1691)年一〇月二四日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
 元禄八(1695)年五月二三日:大久保・四谷に犬小屋が作られる。
 元禄九(1696)年八月六日:犬殺しを密告した者に賞金三〇両と布告。
 元禄一三(1700)年:鰻、泥鰌の売買禁止

 ベジタリアンや動物愛護団体が見たら盛大な拍手で絶賛しそうである。綱吉は捨て子を禁じ、人命救助をした駿河の農民に対して年貢を免除するということまでやっている。元々は「命」というものを深く考える人間でもあった。
 まして隆光は不殺生戒を重んずる僧侶であった。上記だけを見たら隆光も綱吉も「動物を大切にした人」で終わるだろう。
 隆光は桂昌院に請われて、綱吉が子宝に恵まれない原因を卜筮し、「前世で殺生をした報いです。これよりは生類を憐れみ下さい。」と告げたことで『生類憐みの令』が始まったのは有名だが、隆光は「命を大切にする良法を助言した。」に過ぎなかった。

 だが『生類憐みの令』には「天下の悪法」と云われ続ける二つの要因があった。

 一つは綱吉が「戌」年生まれの為、特に「犬」の保護が重視されたと云うことである。
 犬に咬まれてこれを斬った武士が切腹になったり、密告が奨励されたり、四谷・大久保の犬小屋では犬達に白米と煮干が与えられ、日に二〇万俵が消費され、世人を呆れさせたと云う。
 更に賢い動物である犬は人間の態度が変わったことを敏感に察知し道端で威張る様に寝そべり、大八車が来ても退かずに寝続けたと云う。
 つくづく思う………綱吉が『寅年』か『辰年』生まれだったら、天下への悪影響は少なかっただろうにと(笑)
 余談だが、日本の狂犬病の記録は享保一七(1732)年に始まる。『生類憐みの令』撤廃の二三年後で、隆光もこの世に居なかったが、狂犬病の存在が世に知られていたらこの法律はどうなっていたことだろう?

 もう一つの悪法要因は綱吉が「凝り性」だったいうことだろう。前述したように徳川綱吉という人間は良くも悪くも「行動の人」である。
 それゆえ、当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのが、違反者が減らないため、『御犬毛付帳制度』をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられた。
 勿論、これだけなら悪いことではないのだが、法の運用と度の過ぎた厳罰に問題があった。やむなく殺傷した場合においても適用されたのである。つまり野犬の襲わそうになった子供を助けて親が犬を殴ったような場合でも罰せられる訳で、想像するだに堪ったものではなかった。

 少し懲罰例を見てみよう。
 貞享四(1687)四月九日:病気の馬を遺棄したとして武蔵国村民一〇人が遠流に処される
 貞享四(1687)四月三〇日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
 貞享四(1687)六月二六日:旗本の秋田采女季品が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪
 元禄元(1688)年五月二九日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
 元禄元(1688)年一〇月三日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
 元禄二(1689)年二月二七日:病馬を捨てたとして陪臣一四名・農民二五名が神津島へ流罪
 元禄二(1689)年一〇月四日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門
 元禄八(1695)年五月二三日:大久保・四谷に犬小屋造営に際して住民は強制立ち退き
 元禄八(1695)年一〇月一六日:法令違反として大阪与力はじめ一一人が切腹。子は流罪
 元禄九(1696)年八月六日:犬殺しを密告した者に賞金三〇両と布告。

 特に犬虐待への密告者に賞金が支払われることで、世は監視社会と化してしまい、かかるときには褒章や気に入らない奴へ攻撃を目当てに讒言が続発するのが世の常である。
 上記を見ると、年々厳罰化していることや、罰則以外にも人々の苦しみが窺える。

 さすがにこのとんでもない運用に対して、地方では、『生類憐みの令』はそれほど厳格には運用されなかった。
 御三家にしてから、尾張藩士・朝日重章は魚釣りや投網打を好み、禁令消滅まで七六回も漁場へ通いつめた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい。
 綱吉に恩義を感じ、尊敬していた徳川吉宗も地元・紀州では禁令中に散々猪狩りをやっている。
 遠く離れた長崎では、元々豚や鶏などを料理に使うことが多く、『生類憐みの令』はなかなか徹底せず、長崎町年寄が、元禄五(1692)年、元禄七(1694)年に、殺生禁止を今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出している。但し長崎在住の清人・蘭人については例外とした。

 いつの世でもそうだが、法はその内容も大切だが、その運用次第で万物を守る良法にもなれば、万物を苦しめる悪法にもなる。将軍に近侍する者達は蚊に咬まれても叩く事が出来なかった(叩き殺した者と、同じ部屋にいた者達は閉門に処された)。
 飲食業者や漁師達も堪ったものじゃなかっただろう。しかし一方で弁護論もある。
 当時、まだ戦国時代の風習が根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習があったが、『生類憐みの令』で畜生の殺害・虐待でさえ厳罰に処されたからこそ、世の中から殺伐とした空気が一新されたと評価するものである。また、捨て子の禁止とその保護も『生類憐みの令』には含まれていた。

 綱吉の死後、その葬儀も行われない内に六代将軍・徳川家宣によって各種規制が順次廃止され、世人は喝采を叫んだが、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護等はその後も継続されたことには注目したい。

 余談だが、歴史上、動物保護政策は珍しいものではない。仏教の影響下にあったアジアでは、「万物は人間の為に存在する。」としたキリスト教よりも遥かに動物保護・殺生禁断に厳しかったと云える。
 五世紀頃の中国では、大乗仏教の食肉戒より、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止し、宋代、徽宗(きそう)は、一一〇二年に犬肉食禁止令を出した。
 朝鮮半島でも、新羅が五二九年、七一一年に動物殺傷禁止令を、百済が五九九年に殺傷禁止令を、高麗でも九六八年、九九八年に屠殺禁止令を出している。
 特に百済では狩猟や鷹の飼育も禁止、漁民には魚網の焼き捨てを命じた。これ等の施政は仏教信仰が盛んな時代に行われたものであった。

 日本においても七世紀後半以降に殺傷を禁ずる法令が散見される。
 『日本書紀』では白鳳三(675)年、持統天皇五(691)年に、『続日本紀』では天平四(732)年〜延暦一三(794)年の間に一一回法令が出ている。

 現代、動物愛護の急先鋒とも云える国はイギリスを初めとする欧州である。だが時代を遡ればイギリスはスポーツで狐狩りをし、スペインは闘牛が国技で、フランスには犬食文化があり、ローマのコロッセウムでは剣闘士奴隷をライオン・虎・熊・河馬・鰐と戦わせることを見世物とするなど、動物虐待の急先鋒ですらあった。
 恐らくはその反動だろう。動物愛護は結構なことだが、愛護を求める声に独善性や周囲への高圧的な押し付けが否めない。極端から極端に走っているのである。鯨を守る為に捕鯨船への破壊・乗組員への暴力・鯨肉の窃盗を行って悪びれない愛護団体の矛盾は現代でも問題である。
 果たして現代人が綱吉の『生類憐みの令』を嘲笑うことが出来るのだろうか?

 最後に、『生類憐みの令』が発令された頃、「隆光はまだ江戸にいなかったので関していない。」との説もある。
 しかし、『密教大辞典』『真言宗年表』が貞享三(1686)年一〇月三日に江戸城黒書院で安鎮法を修したことを記しており、発令以前より隆光が江戸城に出入りしていたのは間違いない。


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令和三(2021)年五月二五日 最終更新