第壱頁 宮騒動……将軍更迭は不義にあらずか?

事件番号kamakura-0001
事件名宮騒動(寛元二(1244)年四月二八日〜寛元四(1246)年七月)
事件の概要北条氏族内の権力闘争に伴う将軍更迭と私闘
原告藤原頼経
被告北条経時・北条時頼
関連人物名越光時・名越時辛
罪状執権による将軍更迭の不義、内乱
後世への影響北条得宗家独裁体制の盤石化・宝治合戦・二月騒動に繋がる。
事件の内容  宮騒動は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の死去に伴い、泰時の嫡孫で第四代執権を継いだ北条経時と、それに不満を持つ名越光時(なごえみつとき)・時辛(ときゆき)兄弟との対立の中で起きた。
 事件の主な内容は、成人した第四代征夷大将軍・藤原頼経名越兄弟によって反得宗家の旗頭に担ぎあげられるのを警戒した経時が、寛元二(1244)年四月二八日に頼経を強制的に将軍位から辞職させたことに端を発した。


 寛元四(1246)年閏四月一日、重病により執権職を弟・北条時頼に譲っていた経時が世を去った(享年二三歳)のを好機として名越光時頼経とそれに味方する評定衆の後藤基綱、千葉秀胤、三善康持等と連携し、時頼打倒を画策した。
 しかし機先を制した時頼方は閏四月一八日深夜より三夜連続して、鎌倉市中に群集させた甲冑武士をもって流言が飛ばし、頼経派は混乱に陥った。

 更に時頼は五月二四日深夜に地震が起きると、翌朝に鎌倉と外部の連絡を遮断し、これによって密議が漏れたことを悟った光時時辛は出家して降伏した。
 翌二六日、時頼の私邸にて北条政村、北条実時、安達義景とともに頼経に味方した御家人への処分が協議された。
 北条氏に比肩し得る大豪族・三浦泰村の動きが見えないことが処分決定を遅らせたが、六月一日には名越氏の中でも反得宗家の色合いが強いとされた時辛には自害が命ぜられ、同月六日に三浦泰村の弟・家村が時頼邸を訪れて恭順の意を示した為に宮騒動は終息した。

 騒動の処分として、
 後藤基綱、千葉秀胤、三善康持等は罷免。
 名越光時は所領没収の上、伊豆国江間郷に配流。
 既に将軍職を解任されていた藤原頼経も鎌倉を追放されて京都に戻らされた。

 だが、名越家の反骨は深く、命を長らえた光時の弟達は時頼の死後に立ちあがることになり、頼経の存在意義も完全には消えてなかった。



事件の背景
 一言で云って、北条得宗家と名越家の対立であった。
 ゆえにまずは「得宗家」と「名越家」が如何なる存在であったかを見てみたい。
 「北条得宗家」とは北条家の嫡流で、初代執権にして頼朝岳父である・時政、時政嫡男にして頼朝義弟にあたる二代目の義時、義時庶長子で名執権の名が高い泰時と来て、この泰時と異母弟・朝時から得宗家と名越家が分かれたのであった(下記家系図参照)。


 北条泰時の異母弟である朝時の母は義時の正室で、本来なら朝時は嫡男だったが、母の実家である比企氏が義時の怒りを買ったことや、三代将軍実朝の娘との関係から朝時は廃嫡され、祖父・時政の邸宅・名越を受け継ぎ、支族なる「名越家」を創設した。
 結果、義時の庶長子である泰時が嫡流を継承し、ここに嫡流・「得宗家」と支族「名越家」が生まれた。
 様々な経緯を経て廃嫡されたものの、朝時自身は父・義時とも和解し、異母兄である泰時との仲も悪くなかった。
 ある時、朝時邸に強盗が入った際に、泰時は政務を投げ出して駆け付け、感激した朝時は子孫に至るまで兄への忠誠を誓ったという(←余談だが、執権一族の私邸に強盗が入るところからして、この時代が如何に不安定な時代だったかが分かる)。

 だが、朝時の子供達まで同じ気持ちではなかった。
 時朝の子である光時、時章、時辛、教時等は、「本来なら自分達こそ嫡流である」との想いが強かった。
 加えて、本来なら朝廷から任じられる一官位である征夷大将軍の側近に過ぎない北条家の立場の低さが、将軍や有力御家人の支持を必要とする背景もこの宮騒動のみならず、数々の権力闘争の温床となっていたことは想像に難くない。
 ともあれ、得宗家と名越家の仲を盤石なものに出来なかった義時、泰時、朝時の責任は決して小さくないし、その対立を利用しようとした周囲の腹黒さにも眉を潜めるものがある。

参考:北条氏家系図



原告側人物
藤原頼経
略歴 鎌倉幕府第四代将軍。建保六(1218)年一月一六日に五摂家の一つである九条家にて九条道家の三男に生まれた。幼名は三寅(みとら)。

 建保七(1219)年に三代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府側は直系が途絶えた将軍位の後継者に皇族の一員を鎌倉に貰い受けることを求めたが、後鳥羽上皇はそれを拒否した。
 さりとて、無視する訳にもいかず、頼朝の同母妹の曾孫でもある三寅が鎌倉に送られた。

 嘉禄二(1226)年に九歳で第四代将軍に就任したが、勿論完全な傀儡将軍で、何の実権もなかった。
 だが、年齢と共に官位が上がるに連れて、周囲が彼を別の意味で傀儡として利用せんとした。
 つまり、幕府の実権を握る執権・北条得宗家に反対する勢力が大義名分の旗頭にせんとして接近してくる様になったのであった。
 また、実父・九条道家も関東申次として幕府に口出しするようになり、これを嫌った執権・北条経時によって、寛元二(1244)年四月二八日に、まだ二七歳でありながら、将軍職を嫡男・頼嗣(よりつぐ)に譲位させられた。


 退位・出家後も鎌倉に留まり、執権・経時が死去すると名越光時等に利用され、宮騒動に発展したが、光時側は殆ど戦わずして敗北した。
 頼経北条時頼により京都に強制送還され、父・道家も関東申次を罷免させられた。

 帰京後も一部勢力により、相変わらず反得宗家旗頭にされ、間接的に関わったが、復帰はならず、息子・頼嗣も将軍職解任・京都送還の運命を辿った。
 康元元(1256)年八月一一日、死去。藤原頼経享年三九歳。

被った被害 あくまで鎌倉幕府の職制に徹するなら、執権が将軍位を左右するのは下剋上である。
 将軍だった頼経に将軍権威強化の意が皆無だった訳ではないが、明らかに名越兄弟や実父・道家に利用された感が強い。
 傀儡将軍でありながらその存在意義が危険視され、京都に強制送還された後も利用され続け、早世した人生は同情して余りあるものがある。

事件後 宮騒動の前でも後でも頼経の境遇はたいして変わらなかった。

 頼経に求められたのは常に「傀儡」・「大義名分の旗頭」としての存在意義だった。
 執権にとっては執権の立場を守る為に「頼朝の血を引く血筋」が形だけトップに在ることが、得宗家に反対する勢力からは打倒得宗家の大義名分として、その存在を(その時だけ)必要とされた。

 鎌倉将軍は三代実朝暗殺で直系が絶え、その後幕府滅亡に至るまでの将軍はその名前を覚えていなかったとしても受験に影響が無い程その存在感は薄い。
 古今東西、傀儡として祭り上げられる組織のトップは珍しくないが、通常トップとは絶大な「権力」を与えられると共に重大な「責務」を求められる。
 そこを指すと「権力」も無いのに「責任」だけ求められた傀儡首魁の悲しさもまた古今東西を同様と云えよう。



被告側人物
北条経時(ほうじょうつねとき)
略歴 元仁元(1224)年、北条時氏の嫡男として生まれた。祖父・泰時は第三代執権で、その嫡孫となる。
 天福二(1234)年三月五日に一一歳で元服。

 父・時氏は本来なら第四代執権となる人物だったが、経時が七歳の時に祖父・泰時に先立って早世しており、そのために経時は仁治二(1241)年に泰時より後継者に指名され、評定衆の一人となった。
 翌仁治三(1242)年六月一五日に祖父の死去により一九歳で第四代執権となった。


 直後に泰時の死と、経時が若年であることに乗じんとした反得宗家勢力が成人した将軍・藤原頼経を担ぎ出して経時の権力を押さえようとの動きが現れた。
 寛元二(1244)年四月二八日に経時頼経の将軍職解任を強行し、頼経の嫡男・頼嗣(六歳)を第五代征夷大将軍に就任させた。
 一方で経時は頼嗣に妹を嫁がせることで反対勢力を一時鎮静化させたが、頼経は鎌倉に留まり続けて頼嗣を補佐し、反得宗家勢力は相変わらず、隙あらば頼経を担ぎ上げんとの機会を虎視眈々と狙っていた。

 この時点で既に経時は黄疸を患っており、心労から危篤状態となったことや、二人の息子が幼少であることからも寛元四年(1246)三月二三日に執権職を弟・時頼に譲って四月一九日に出家した。
 同年閏四月一日に若くして逝去(まあ、本作に登場する人物は早世のオンパレードだが)。北条経時享年二三歳。
 宮騒動勃発はその直後のことであった。

罪状 自らの権威失墜を恐れて、本来執権職に在る者が補佐すべき対象である征夷大将軍を更迭したのは、制度上とんでもない大逆である。

 第二代将軍、第三代将軍が暗殺され、その真なる首謀者が何の罪科を受けていない現状から、暗殺に至らない更迭は然程罪深い行為と見做されないかも知れないが、当裁判所は被告の所行を弾劾対象として訴追するものである。

事件後 実の所、北条経時宮騒動の発端は作ったが、宮騒動が起きた時には死んでいたので、「事件後」は存在し得ない。
 だが、将軍更迭の暴挙を初めとする強権発動はその後の数々の騒動、内紛、権力闘争と決して無縁ではなかった。



北条時頼
略歴 嘉禄三(1227)年五月一四日に北条時氏の次男に生まれた。
 幼い頃から聡明な才を祖父・泰時からも評価されており、寛元四年(1246)三月二三日に二〇歳で重病に身にあった長兄・経時から執権職を譲られ、第五代執権となった。


 同年閏四月一日に経時が死去し、五月に宮騒動が勃発するも見事にこれを鎮圧し、七月には前将軍の藤原頼経を京都に強制送還した。
 翌宝治元(1247)年には安達氏と協力して最後の対立候補である豪族・三浦泰村を滅ぼし(宝治合戦)、執権の権力を盤石のものとした。

 建長四(1252)年には第五代将軍藤原頼嗣も京都に追放して、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を第六代将軍に迎えた。
 しかし、自らの独裁色が強まる中、御家人達の不満を抑える為、評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用した。
 庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護し、撫民・善政に努めた。


 康元元(1256)年に病に倒れ、執権職を一族の北条長時に譲って出家したが、実権は保持し続けた(←お約束)。
 弘長三(1263)年に最明寺にて病死。北条時頼享年三七歳。

罪状 少なくとも、執権が将軍・藤原頼経を更迭するという下剋上に関しては、北条時頼は無罪である。
 だが将軍更迭に端を発した宮騒動と、それに続く宝治合戦二月騒動では時頼は執権権力増大に奔走し、将軍に対しても兄・経時とほとんど同じことをしているので、ここに採り上げるものとした。

事件後 前述した様に、時頼経時以上に将軍権威−最初からなかったが−を無視し、独裁体制を強めたが、それに関しては宝治合戦二月騒動の頁に詳細を譲るものとする。




関連人物
名越光時(なごえみつとき)
略歴 生年不詳。父は北条義時の嫡男だった北条朝時で、廃嫡されて名越に邸宅を構えたことから名越姓を名乗っていた。

 本来なら自分達が北条氏の嫡流となっていたことに対し、憤りが収まらず、寛元二(1244)年四月二八日の藤原頼経の将軍職解任、寛元四年(1246)三月二三日の北条時頼への執権職譲位、閏四月一日の北条経時逝去を経て、頼経の将軍権威強化を目指して弟・時辛等と立ち上がったが、事前に事は漏れ、殆ど戦わずに出家して降伏の意を表した。
 後に所領である伊豆国江間郷に配流となり、その後の詳細は没年を含め、不明。

事件との関わり 名越家の当主でもあり、宮騒動そのものには長兄の立場からも次期執権を目指して陣頭に立ったと思われるが、弟の時辛程の強硬派とは見做されなかった。
事件後 配流後の名越光時の動きは不明で、後の北条得宗家と名越家の権力闘争である二月騒動でもその名は見えない。



名越時辛(なごえときゆき)
略歴 生年不詳。北条朝時の三男に生まれた。
 長兄・光時同様に北条氏嫡流の立場を得宗家より取り戻さんと奔走。
 北条経時の逝去を機に宮騒動でも兄と行動を共にしたが、機先を制され、兄と共に出家して降伏した。
 だが、兄以上の強硬派と見做され、寛元四(1246)六月一日、北条時頼の命により自害。享年不明。

事件との関わり かなり積極的に関わり、且つ反得宗家の意を表す言動も激しかったことから、実質的な行動は無かったにもかかわらず、兄より重い処分を下され、しかもその処分は事件解決よりも早かった。

事件後 事件により自害させらた時辛に「事件後」は無いが、名越家と得宗家の対立は後々も続いた。



判決
 主文、宮騒動最大の責任は第四代執権・北条経時にあり。
 また間接的責任として、北条一族内に対立的構造の種を残した北条義時、北条泰時、北条朝時の責任も軽からず。
 また始祖の誓いを守らず、無用の権力争いを始めんとした名越光時名越時辛の内乱を画策した事実もまた不届きなり。
 既に故人ゆえに現行法による刑罰は課さないが、執権が征夷大将軍を退位させた下剋上の不義を改めて訴追するものとする。


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令和三(2021)年五月二一日 最終更新