(ドンドン)静粛に!
これより、寛元二(1244)年四月二八日〜寛元四(1246)年七月に勃発した宮騒動から、元寇を経て、後も発生した御家人同士の私闘、霜月騒動、鎌倉幕府滅亡までの混乱で夥しい人命を損ねることとなった歴史上の責任者を裁く鎌倉私設軍事裁判を開廷します。
私、戦国房薩摩守は歴史を学んで以来、奈良時代、平安時代末期、鎌倉時代、戦国時代、大正時代、昭和初期が時代として安定せず、多くの犠牲が出ていたことに対して、歴史の傍観者ながら憤りを感じていました。
各時代の初期と末期に安定がなかったり、戦国時代のように最初から戦尽くめだったりするケースは止むを得ないにしても、大きな戦もないのに、殆ど内紛や権力闘争で最初から最後まで殆ど安定期の無かった奈良時代と鎌倉時代に関しては、為政者の責任が大きく、時代の犠牲者達には深い悲しみを覚えていました。
しかも両時代とも、追い打ちをかけるように地震、風水害、飢饉、疫病が相次ぎ、民衆にとって「弱り目に祟り目と」しか云い様がないものを感じてきました。
そんな感傷を抱き、幾十年を経て、戦国房の立ち上げ直後から、薩摩守の脳裏に過ぎった考えは、「多くの犠牲者を出した元寇とは避けられないものだったのだろうか?」、「元寇に前後する数々の武力抗争・権力闘争・醜い骨肉の争いの責任は何処に在る?」というものでした。
勿論、時の為政者も、何も好き好んで間違いを犯したり、失政・悪政を重ねたりしてとは考えていません。
しかし日本が、史上初めて国家として侵略してきた外国と戦った重大事の前後に在る為政者の在り様にこそ、過去のみならず現在・未来にも通じる外交、軍事、通商への活路があるのでは?と考え、法学を学んだ身でもないのに生意気にもこのような作を作り、元寇とそれに前後する歴史の責任を問うてみました(ちなみに道場主は経済学部の卒業で、法学部卒でもなければ、文学部史学科の卒業でもありません)。
そこで、独断と偏見ながら、鎌倉時代最初の内乱である承久の変を「本来なら時代を安定させる為の最後の戦いであった。」と指定し、それ以後、鎌倉幕府滅亡に到るまでの内憂外患を列記し、その中に存在する責任者達の罪状を下記の各頁にて問いたいと思います。
第壱頁 宮騒動……将軍更迭は不義にあらずか?
第弐頁 宝治合戦……怨闘の続き
令和三(2021)年五月二一日 最終更新