第弐頁 宝治合戦……怨闘の続き

事件番号kamakura-0002
事件名宝治合戦(宝治元(1247)年六月五日〜七月八日)
事件の概要宮騒動に続く御家人同士の闘争
原告三浦泰村・三浦光村
被告北条時頼
関連人物藤原頼嗣・安達景盛
罪状御家人同士の私闘
後世への影響北条得宗家独裁体制の盤石化と安達氏の台頭
事件の内容 寛元四(1246)年の宮騒動の折、鎌倉幕府第四代征夷大将軍・藤原頼経は第五代執権・北条時頼によって、将軍職を追われ、京都へ強制送還された。
 その折に、将軍派の御家人達は北条氏支流であっても(北条氏支流であればこそ、とも云えるが)処分が下された。
 しかし、将軍頼経の背後にあり、北条家に比肩しうる最後の豪族・三浦家の当主・三浦泰村は将軍に味方する動きを見せず、北条氏と争わなかった故に処分対象となることもなかった。

 しかし、当主・泰村には北条と事を構える意志はなかったが、弟の三浦光村はアンチ北条家の急先鋒で、前将軍・頼経の京都送還に同行し、涙を流して再度鎌倉に迎えることを誓ったが、これは北条時頼の耳に達していた。

 宮騒動における時頼の頼経への追い打ちは執拗かつ無礼だった。
 頼経送還の三ヶ月後には、頼経の実父で関東申次職にあった九条道家を罷免し、光村は頼経の将軍復位の為には武力による実力行使しかない、と見て鎌倉に戻るや挙兵準備に入った。


 この間、時頼泰村に対して六波羅探題にあった北条重時の鎌倉帰還を打診した。
 三浦家は単に大勢力だっただけではなく、北条家とも姻戚があり、頼朝没後の和田合戦の折には、当時の当主・三浦義村(泰村光村の父)が盟友・和田義盛を裏切ってまで北条義時に味方した、という過去もあった。
 だが、時頼は宿老・重時の帰還させることで、執権外戚にある三浦氏への対抗馬とし、権力の座から退かせようと考えていた。
 それを読んでか、本来、北条家と同格であった三浦家の当主である泰村はこれを拒んだ。同時にこの三浦家の意地張りには執権外戚であった安達氏が対抗意識を燃やした。

 そして宝治元(1247)年三月に鎌倉に不穏な噂が流れ出した。
 それは、「由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まった(注:前述した様に、過去に由比ヶ浜では北条氏と和田氏の戦いがあり、和田氏は三浦義村に裏切られて滅亡に追いやられた)」、「大流星が東北より西南に流れた」、と云うもので、宮騒動の折にも不穏な噂が流れたことを思い出した人々の間で鎌倉中は騒動に陥った(三月一六日)。
 更には「鎌倉中に黄蝶が乱れ飛び、平将門の乱の直前にもこの事があった」と噂まで流れ、ねちっこい心理戦となって流言飛語が乱れ飛んだ。


 そんな中、高野山に隠居していた安達景盛が二五年振りに鎌倉へ戻ってきた。
 景盛は頼朝側近だったが、頼家に嫌われ、誅殺されかけたのを北条政子に助けられたことがあり、三代将軍実朝暗殺後に菩提を弔う為に出家して高野山に籠ったが、承久の乱のときには駆け付けて乱の鎮圧に尽力し、政子が没すると再度高野山に籠ってい。
 この様に、安達景盛は常に幕府の動静を把握し、辣腕政治家としての側面と、義理と信仰心に厚い人情家の側面を併せ持つ人物だった。

 景盛の娘は北条時氏に嫁いでいて、執権北条時頼は外孫に当った。
 景盛は息子・義景、孫・泰盛が三浦氏に対して弱腰なのを叱責し、四月一一日には時頼邸を訪れ、三浦泰村と戦うことに消極的だった時頼に長時間かけて攻撃するよう説き続けた。
 その後も怪異は続き、二週間後の四月二五日に合戦の象徴とされていた暈(かさ:太陽に薄い雲がかかった際にその周囲に光の輪が現れる大気光学現象)が現れると、幕府では打ち続く怪異は「後鳥羽上皇の怨霊が引き起こした。」と考えて、鶴岡八幡宮の山嶺に怨霊を鎮める御霊社を建立することで事態の収拾を図った。


 だが、この時点でも時頼泰村と戦う意識は薄く、それは泰村も同様だった。
 五月六日、時頼泰村の次男・駒石丸を養子に迎え、一週間後の一三日に将軍藤原頼嗣の正室・檜皮姫(ひわだひめ。北条時氏の娘で時頼の妹)が病没すると、喪に服する際に泰村邸に滞在して敵意が無いことを示して合戦回避に努めていた。
 泰村も合戦回避を望んでいたが、弟の光村は違った。

 更に一週間が経ち、二一日に鶴岡八幡宮の社頭に「三浦泰村は将軍家の命に背いて勝手なことを繰り返しているので、近い内に討伐されるだろう」という内容の高札が立てられた(合戦勃発を望む者が建てたと思われる)。
 二七日、泰村邸に逗留中の時頼が館内で合戦の準備を始める音を聞いて帰宅すると、翌日には三浦光村が安房や上総の所領から武具を取りそろえているとの報告がもたらされた。
 こうなると放置もしておけず、時頼は六月一日に佐々木氏信を詰問する為に泰村邸に派遣し、泰村は嫉妬による讒訴から流された噂で、迷惑していると答えた。

 時頼の元に戻った佐々木氏信は館内に武具が揃えられていたと報告し、鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となった。
 六月五日に時頼は腹心・平盛綱を泰村邸に遣わし、和議を整え、これに安堵した泰村は緊張の氷解とし、和議の喜びの余り、直後に湯漬けを食い過ぎて嘔吐する程だった。


 しかしながら、時頼の本意はともかく、安達景盛は三浦氏殲滅への執念を燃やし続けており、遂に強引な手を打つに至った。
 和議を整えた平盛綱が帰途に就いたときには、景盛の孫・泰盛を先鋒に泰村邸への奇襲が敢行されていた。泰村は驚いて館に立て篭もって防戦に努めた。
 なし崩し的に合戦となり、泰村の下には妹婿の毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱等が集まった。彼等は三浦氏の縁戚、または将軍派の御家人達だった。

 半ば巻き込まれた形になった時頼だったが、事ここに至って、北条実時に将軍御所の守護を、弟の北条時定には三浦泰村討伐を命じた。
 一方の三浦方では防戦に努める泰村の下に前述の御家人の他にも三浦半島からも一族が駆けつけ、三浦方の主戦派である光村は八〇騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断した。

 泰村邸宅は頑強に抵抗したが、風向きの急変から火攻めに遭うと泰村は一族を率いて右大将家法華堂(要するに頼朝墓所)に向かった。
 光村は兄・泰村に使者を派して、要害堅固な永福寺にて合流するよう勧めたが、元より戦闘に消極的だった泰村は完全に戦意を喪失していた。
 兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべし、として逆に光村に法華堂へ来るように命じ、それに諦めたのか、それとも戦に巻き込んだ兄への負い目もあったのか、光村は数町に及ぶ敵陣を強行突破してまで法華堂へ向かい、兄に合流した。

 法華堂に集った三浦一族・縁戚、将軍派御家人は五〇〇余名に及んだ。
 郎党達が防戦する間に毛利季光が念仏を唱え、光村が読経の音頭を取り、前将軍頼経の父・九条道家が内々に北条家打倒後に泰村を執権にすると約束していたことと、それに泰村が乗らなかったために今日の滅亡に至ったことを悔やむと刀で自分の顔を削り、周囲の者に自らの顔を判別がつくかを尋ね、周囲が否定するまで自分の顔を切り刻んだ(←アンタは『史記』の「刺客列伝」に出て来る聶政か?)。

 泰村光村に「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫め、「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。しかしすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と告げて自刃した。
 ともに法華堂にこもっていた五〇〇余名もこれに殉じ、時を同じくして上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤も追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。

 ここに頼朝以来の有力御家人で、北条家に比肩し得た最後の豪族・三浦家が滅亡した。
 それは既に形骸化していた鎌倉幕府における有力御家人による合議制の完全な終焉と北条得宗家による専制体制が確立を意味していた。



事件の背景 事件の背景を一言で語るなら「宮騒動の続き」である。
 そして北条氏内の内紛にして、名越兄弟の降服で割と呆気なく「騒動」で終わった宮騒動に対し、宝治合戦は日本国内に在っては鎌倉幕府の内紛でも、幕府内に在っては北条と三浦の権力闘争だった。

 とはいうものの、表面上を見る限り、執権にして北条得宗家の当主である北条時頼はぎりぎりまで戦を避け、三浦泰村とも面を合わせて話し合い、三浦家当主の泰村は最後の最後まで防戦以外の戦闘行動を取らず、戦になるかならないかの瀬戸際でかなり神経質な様を見せており、少なくとも当主同士は「累代の戦友」でもあり、「姻戚関係」でもある北条と三浦の闘争は望んでいなかったように見える。

 勿論これは友情や博愛主義ではなく、有力御家人衆の中でも二大双璧である北条と三浦の全面戦争となれば、勝ち残った方も多いに傷つくこととなりかねないからである。
 さながら、二頭の虎がどちらかが斃れるまで死闘を尽くせば、生き残った方とて駄犬の群れでも打ち取れるほど弱体化する、という古来の例え通りになりかねない。
 実際、泰村光村並に戦意充分であれば、北条方が勝ち残っても、戦力消耗の隙を安達・足利といった有力御家人に衝かれた可能性は否定出来ない。
 それを警戒すればこそ、時頼が最後の最後まで開戦に消極的だったのも分からない訳ではない。

 いずれにしても北条方では三浦を快く思わない時頼の外祖父・安達景盛と、北条氏から執権職を奪わんと目論む三浦光村とが敵意を燃やし続け、景盛が半ば独断で和議を壊す形で双方の当主はなし崩し的に戦闘に巻き込まれた。


 だが、実際に北条時頼の人物像を考えると、本当に戦に消極的だったかは疑問が残る。
 宝治合戦が始まる前に、宮騒動のとき同様に不穏な噂が流れていたが、これは時頼の特技でもあった。
 また、いざ合戦が始まると、時頼のリーダーシップに「迷い」の文字は無かった。時に北条時頼、弱冠二〇歳でのことであった。
 そして、推理小説でも、歴史考察でも、真犯人を推測する手掛かりの一つは、「事件の結果、誰が一番得をしたか?」ということである。
 云うまでもなく、北条得宗家と安達家であった。
 では何故当主・泰村が開戦に消極的なのに、景盛はともかく、光村は強硬姿勢を崩さなかったのか?

 簡単に考えるなら、北条得宗家独裁体制への反発に他ならない。
 同時に得宗家の姻戚にこだわった泰村は戦いを避け、同じく姻戚の景盛は得宗家の権勢を盤石なものにせんと考えた。
 勿論得宗家に反発する勢力は征夷大将軍・藤原頼嗣擁立を大義名分とし、当主が開戦に消極的でも泰村に随身し、一方の北条得宗家でも宮騒動で罷免していた筈の千葉秀胤(泰村妹婿)にまで追討軍を送っている程、三浦氏と懇意な一族にまで牙を剥いた。

 中でも三浦光村は先の将軍・藤原頼経の実父にして、関東申次役だった九条道家の言を信じて、三浦政権成立の為に北条家打倒に燃えた訳だが、このときに光村が道家の実力や、実際に北条家を打倒した後の口約束の履行可能性に疑問を抱いていれば、合戦自体が起こったかどうか分らない。
 ともあれ、権力確立の為、同族まで容赦しない北条得宗家への反発が根底にあったことは、三浦家に多くの人々が殉じたことにその証左が見られる。そして三浦シンパは姻戚を除けば将軍派の御家人で、北条時頼は得宗家に比肩し得る有力御家人の滅亡には成功したが、得宗家への怨恨は払拭出来ていなかったのであった。  その怨恨が如何なるものだったか、それは次頁の講釈で(←故芥川隆行氏風)。



原告側人物
三浦泰村
略歴 平家滅亡の前年である元暦元(1184)年、相模国三浦半島に勢力を持っていた有力御家人・三浦義村の三男に生まれた。
 武勇、特に弓術に優れ、承久の乱(承久三(1221)年勃発)では父とともに幕府軍の一角を担って活躍し、乱後に六波羅探題に勤めた。
 後に第三代執権となった北条泰時の娘を正室に迎え、嘉禎四(1238)年には評定衆の一人となった。

 第四代将軍・藤原頼経とも親密で、三浦家の権勢は北条家に勝るとも劣らないものがあったが、やがて宮騒動で頼経は鎌倉を追われ、将軍位を継いだ頼嗣とは弟の三浦光村が親密になっていたが、泰村は一族内の弟・光村を筆頭とする主戦派を抑えきれず、安達景盛の陰謀に乗ぜられる形で合戦に巻き込まれた。
 それゆえ自らは防戦に努め、積極的に戦わず、火攻めに遭った後に右大将家法華堂と呼ばれる頼朝墓所で一族揃って自刃して果てた。
 宝治元年(1247)六月六日没。三浦安泰村享年六四歳。

被った被害 積極的に関わった形跡は一切なく、にも関わらず、否応なしに合戦に巻き込まれ、一族郎党共々自害に追い込まれた。
 合戦に消極的だったのは開戦後も同様で、防戦に対する考えでも光村が要害堅固な永福寺に籠ったのに対して、泰村は防戦効果を狙うのではなく、自らの死に場所を求める意味で右大将家法華堂を選んだ。
 今際の際に発した悔恨の台詞は讒言に落ちて一族を滅ぼしたことに対してのものだったが、それに対して北条家を始め、誰を恨んだわけでもなかった。

 戦が回避出来た、と安堵した直後の暴食と嘔吐を見ても、開戦に対して半ば恐怖していたとも云える様が見られるが、承久の乱での勇猛振りを考えれば、この豹変振りは謎の一つでもあるし、ここまで戦を避けたがった要因も探り当てたいものである。

事件後 自らの自刃を始め、所と場所を違えど一族、縁戚、同志がこれに殉じ、三浦家は滅亡した。
 源頼朝の下での最期を願ったことが尊重されたのか、一族は法華堂東方の山腹に建てられた墓所に葬られた。
 三浦氏は、泰村の妹で、北条泰時前妻だった矢部禅尼が三浦家庶流の佐原氏に嫁して産んだ子供達が、時頼祖母の縁から北条方に加担して生き残り、後に三浦姓に復し、その血筋を後世に残した。



三浦光村
略歴 三浦泰村の弟で、元久元(1205)年に三浦義村の四男に生まれた。泰村とは同腹である。
 幼少期には僧侶になる為に鶴岡八幡宮で修業を積み、公暁(頼家次男)の門弟となったが、一四歳のときに将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして出仕を停止させられた記録があり、血の気が多かったのは生まれつきかも知れない。


 貞応二(1223)年に将軍・三寅(後の藤原頼経。当時六歳)の近習となり、二〇年に渡って頼経に近侍し、頼経が鎌倉を追われた際も新将軍・藤原頼嗣に近侍する為に評定衆の一人に昇進した。
 宮騒動が勃発し、鎮定後の調査で光村も加担していたことが発覚したが、執権に就任したばかりで、一族内紛に当惑していた北条時頼は三浦氏と事を構えるのを避ける為、京都に帰還(実際は強制送還)する頼経の警護を名目に京へ向かわせた。
 道中、光村は頼経に鎌倉への復帰を誓い、頼経実父の九条道隆にも秘かに通じ、北条家打倒後の権力掌握まで計算していた(勿論取らぬ狸の皮算用だった訳だが)。

 そして宝治合戦が始まると永福寺に籠って兄・泰村にも奮戦を促したが、泰村は最後まで積極的にならず、邸宅を追われたことで頼朝墓所での死を望んだ。
 光村は兄の厭戦を批判しつつも、共に自害せんとする兄の命令に従い、敗残後に遺体を晒されることで辱められるのを恐れたかのように自らの体を切り刻みながら兄に先立って自害した。三浦光村享年四三歳。

被った被害 戦に敗れ、兄共々自害に追い込まれた。
 兄・泰村と正反対で、三浦氏内でも一番のタカ派で、北条得宗家には警戒され、危険視されていたし、その血気盛んで好戦的な性格を安達景盛に体よく利用された。
 結果、(真意はともかく表向きは)非戦派だった北条時頼も三浦家族滅に走ることとなった。
 その割には兄・泰村を開戦へ積極的にさせる為の具体的行動が見られず、合戦勃発後には要害となり得る永福寺に籠った以外に有効な戦略を取った形跡が見られないのも不思議ではある。

事件後 兄と共に自害。三浦光村の妻(鳥羽院の北面藤原能茂の娘)は美貌の持ち主で、光村は別れを惜しんで、お互いの小袖を交換した。
 直後の光村の死に、妻は悲嘆に暮れて出家。その後まだ赤子であった光村の子を抱いて鎌倉を追われて出て行ったこの妻子の後日譚は不明。




被告側人物
北条時頼
略歴 前頁参照。
罪状 執権として、北条得宗家当主として三浦家という源頼朝以来の名族を滅ぼした。
 殊に当主・泰村承久の乱でも北条氏に尽くし、北条時頼の祖父・泰時の娘を娶っており、時頼にとっては義理の叔父にあたる人物だったにも関わらず、である。
 そもそも、北条家と三浦家は共に桓武平氏の末裔であり、頼朝没後より数々の有力御家人を難癖つけては滅ぼしてきたイメージのある北条氏の名を更に貶めた罪も無視出来ない。

 とはいえ、史書や言動を見る限りは時頼自身には三浦家と戦う気もなかったのに、周囲の巻き添えを食い、執権として、当主として責任者に祭り上げられたように見えなくもない。
 だが、薩摩守北条時頼の生涯を振り返れば、冷酷無比というのは云い過ぎにしても、必要時に非情になるのを躊躇うような人物ではなく、いざ事が起こった折には迅速かつ的確にリーダーシップを発揮していた。

 以上のことから時頼が面では親三浦氏を装いながら、腹では北条家と比肩し得る唯一の有力御家人である三浦氏滅亡手段としての宝治合戦を画策していた可能性は充分にある。
 勿論上記は推測に過ぎないが、個人的には確信している。
 一応の論拠を挙げさせて貰うと、合戦の一年近く前から六波羅探題にいた北条重時を召し返して三浦泰村の引退を促したり、宮騒動時同様に自然災害を利用して不穏な噂が意図的に流されたりした形跡があることを挙げておく。

事件後 何度も書いたが、対抗馬としての最大勢力である三浦家の滅亡により源頼家以来の合議制は終息し、時頼の権勢は盤石化した。
 但し、それが完全な物になるにはまだ身内に不穏分子が残っていた。




関連人物
藤原頼嗣
略歴 鎌倉幕府第五代将軍。延応元(1239)年一一月二一日に四代将軍・藤原頼経の嫡男として鎌倉に生まれた。
 父の実家が五摂家の一つ、九条家であることから九条頼嗣とも呼ばれた。

 寛元二(1244)年に反北条得宗家の旗頭に祭り上げられそうになった父・頼経の強制退位を受けて六歳で元服して第五代将軍に就任。勿論実権などある筈もなかった。
 翌寛元三(1245)年に七歳で北条経時の娘・檜皮姫(ひわだひめ)を正室に迎えた。
 しかし、その年の七月に宮騒動のあおりを食った父・頼経が京に追放され、宝治合戦直前に檜皮姫を喪い(享年一八歳)、宝治合戦で三浦家が滅亡し、すべての後ろ盾を失った。

 その後も鎌倉に留まり続け、従四位下から従三位まで官位の昇進を続けたが、建長三(1251)年に父・頼経が了行法師等の謀叛事件に関係したとされ、幕府では宗尊親王(むねたかしんのう。後嵯峨上皇の皇子)を新将軍に迎えるとことに決定した。
 そのため、用済みと見做された頼嗣は翌建長四(1252)年二月二〇日に一四歳の若さで将軍職を解任され、翌月、母とともに京へ追放された。
 そして四年後の康元元(1256)年八月一一日に父・頼経が死去すると自身も丸で後を追う様に同年九月二五日に麻疹で世を去った。藤原頼嗣享年一八歳。

事件との関わり 積極的に関わった形跡は皆無。しかしながら正室・檜皮姫失って北条家との絆が断たれたことと、反北条得宗家の旗頭にされたことから間接的に関わらざるを得なかった側面があった。
 勿論、九歳の将軍に実行動などあろう筈もなく、存在として、合戦の契機となったに過ぎず、それもウェイト的には父・頼経の方が重い。

事件後 殆ど上記と変わらず。


安達景盛
略歴 生年は不祥だが、源頼朝が流人だった時代から頼朝に仕えていた安達盛長の嫡男として生まれ、自身も頼朝側近となった。
 史書にその言動が見られるのは二代将軍源頼家の代で、頼家が景盛の愛妾を我がものにしようとし、景盛誅殺を図ったのを頼家の母・政子が助けた。
 これに感じ入った景盛は北条氏に尽くすようになった。

 ちなみに、景盛の母の実家は比企氏で、比企氏と云えば頼家の妻の実家でもあった。それだけに頼家の景盛に対する憎しみは深く、将軍職を追われて伊豆・修善寺に幽閉中にさえ、母・政子に送った書状で景盛誅殺を訴えるほどだった(無視されたが)。

 幸か不幸か間もなく頼家の方が謀殺され、政子と三代将軍・実朝に重用されたことから、畠山重忠討伐、平賀朝雅誅殺、和田合戦にて時に活躍し、時に難を避け、有力御家人となっていった(注:景盛の父・盛長は終生無官)。


 建保七(1219)年正月に実朝が暗殺されると、菩提を弔う為に出家して高野山に籠るも、幕政には関与し続け、承久三(1221)年に承久の乱が起きると即座に鎌倉入りして善後策の会議に加わり、有名な尼将軍・北条政子の名演説文を代読した。
 戦闘では北条泰時軍に従軍して東海道を進軍し、功により摂津守護となったが、四年後の嘉禄元(1225)年七月一一日に大恩ある政子が没するとその菩提を弔う為に再度高野山に籠ったが、やはり常  に幕府の動静は把握し続けた。


 当然、上記の経緯からその後も北条家とは親密で、娘は泰時の嫡男時氏に嫁ぎ、その子供達を産んだことで景盛は四代執権経時・五代執権時頼の外祖父となった。
 そして宮騒動では静観していた景盛だったが、水面下における北条と三浦の対立がきな臭くなるのを察知すると二〇年振りに高野山を下って鎌倉入りし、三浦の下風に立ちかねなかった嫡男・義景、嫡孫・泰盛を叱責し、外孫・時頼までをも督戦した。

 そして謀略・説得等の根回しを続け、独断で和議を無視して義景、泰盛に泰村邸への奇襲を仕掛けさせ、宝治合戦に扱ぎ付けた。
 合戦後、北条得宗家及び、その執権支配体制下での安達氏の地位を盤石にしたのを見届けると三度高野山に行き、翌宝治二(1248)年五月一八日に自らの役目を終えたかのように幕府創成期最後の武士はこの世を去った。

事件との関わり 矢面にこそ立たなかったものの、極めて積極的に関与、というより思いっ切り首謀者。
 三浦光村は(少なくとも表立った言動の上では)三浦家に好意的だった北条時頼よりも、縁戚関係にあった北条・三浦の仲を割いた安達景盛を恨むべきである。
 その後の安達家の行方を見ても、古武士・景盛が恐るべき洞察力を持って、幕府内の勢力地図と御家人同士の力関係を先の先まで見据えていたことがよく分かる。

事件後 上記にある様に、自らの役目を終えたかのように合戦の翌年に天寿を全う。正確な享年は不明だが父や息子の年齢や頼朝側近を務めたことがあることから七〇歳は超えていたと思われる。

 辣腕政治家の一面を持つ一方で、義理堅く、信心深い一面ももっていたので、恐らくは、幕府創成から宝治合戦に至るまでの戦死者・刑死者の菩提を弔いながら余生を送ったと思われる。



判決 主文、宝治合戦最大の責任は安達景盛にあり。
 しかしながら当主・三浦泰村並びに幼き将軍の意向を無視して、両者を担ぎ上げて北条家打倒を画策した三浦光村にも重大な落ち度あり。
 私闘を族滅に持ち込んだ安達景盛三浦光村の責任は甚だ甚大ながらも、結果として将軍家や皇室を巻き込むことなく、戦後二〇年以上の平和をもたらした結果を考慮し、既に落命した三浦光村は不問。
 北条時頼三浦泰村は一族の監督不行き届きを厳重注意。
 尚、北条時頼の合戦首謀者としての責任は嫌疑不十分により不問。
 最も責任重き安達景盛は真言宗への信仰心篤きをもって道場主の温情により、罪一等減じ高野山へ追放……………えっ?もう既に入山している!?………本日の裁きはこれまで!!(←加藤剛風)



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新