最終頁 乱れた鎌倉時代、そのA級戦犯とは?

 宮騒動宝治合戦二月騒動文永の役弘安の役霜月騒動平禅門の乱嘉元の乱文保の和談正中の変元弘の変鎌倉幕府滅亡、と鎌倉時代に起きた事件を検証し、それぞれの事件に対して薩摩守の独断と偏見原告被告関連人物を定め、全くの独善裁きまくった。

 それにしても一四一年間の治世に呆れるほど事件が多かった時代である。
 行政機関・鎌倉幕府が関わった事件を主眼に置いたため、第三代執権・北条泰時によってもたらされた幾ばくかの安定に崩壊をもたらした宮騒動から扱ったが、それ以前にも 正治二(1200)年の梶原景時の変、建仁元(1201)年の建仁の乱、建仁三(1201)年の比企能員の変、建久元(1204)年の源頼家暗殺、建久二(1205)年の畠山重忠の乱、建暦三(1213)年の和田合戦、建保七(1219)年の源実朝暗殺、承久三(1221)年の承久の乱、と八件も事件が起こった。
 直接的な関係者だけでも源頼家源実朝源一幡(頼家嫡男)、公暁梶原景時梶原景季城長茂比企能員畠山重忠平賀朝雅和田義盛源仲章藤原秀康等が犠牲となった。
 加えて、彼等の妻子一族・朗党の中にも連座して処刑されたり、巻き添えで戦死したりした者も少なくなく、これらの事件に前後した小さな事件で命を落としたり、罪に陥れられたものまで上げると、膨大な人数を挙げなくてはならなくなる。

 また最後の鎌倉幕府滅亡に含まれる為に敢えて独立した頁を立てなかった正中三(1326)年の嘉暦の騒動、元弘元(1331)年の元弘の変といった小さな事件での犠牲も少なくない。
 そして地方を舞台にした蝦夷の大乱や悪党達が起こした事件まで挙げると、中央からして乱れまくり、天変地異や疫病流行が絶えなかった鎌倉時代に多くの新興仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)が起こったのもある意味当然と云える

 実際、薩摩守自身、本作制作の為に振り返った鎌倉史は調べれば調べる程、気が重くなるのを禁じ得なかった。
 事件の背景にも、権力を巡っての醜い物が多く、同じ事件でもどんな大義名分に立ったかで原告・被告が容易に入れ替わるケースも多かったが、無理矢理決めて無理矢理裁きもしたし、ある事件の被告が別の事件では原告になることも珍しくなかった。
 拙サイトを愛読して下さっている方々の中には各頁のサブタイトルと内容に不一致を感じた方々もいらっしゃるだろう。薩摩守自身、途中で何に怒っているのか分らなくなったことも一度や二度ではなかった (それだけ怒りを覚える対象が多過ぎた………)。

 いずれにしても鎌倉時代は尋常ではない。
 何故こんなに事件が絶えず、暗い影の拭えない時代になったのだろうか?
 こんな時代になった責任は…暗黒時代をもたらしたA級戦犯とは誰なのだろうか?
 救いのない時代を創世した原因を探求することは歴史に学ぶ、現代に活かしたい考えるすべての人々の参考になると信じてこの最終頁の考察を綴りたい。
一、 脆弱な権威と推移する権力
 征夷大将軍が幕府を開いて政権を担うということは、朝廷に「権威」があっても、「権力」がないことを意味する。
 だが、天皇・朝廷に代わって幕府が政治を執るにしても、政治を執る征夷大将軍が名君であれば世の中は立派に治まるし、仮に暗君であっても、その代理を務める執権・管領・大老がしっかりしていれば世は乱れない。

 だが、ここまでこの作品を見て下さった方々には一目瞭然だが、鎌倉時代は天皇にも、上皇にも、将軍にも、確固たる権力はなく、それを確保しようとした者は執権との争いに巻き込まれた。
 そして、権力がなくとも権威ある地位は大切なのか、皇位、将軍位、治天の君の立場・執権位を巡る争いは醜く継続した(例:将軍暗殺朝廷対幕府の闘争北条氏と有力御家人の死闘外戚と御内人の政争)。

 これでは「治まれ。」という方が無理というものである。


二、 醜過ぎる骨肉闘争
 人情として、血の繋がりは尊いものだが、そこに権力や武力が絡めば、これほど醜い争いはないことは歴史上枚挙に暇がない。
 そして鎌倉時代とは、朝廷のトップである皇族が争い、執権にして有力御家人筆頭である北条家が一族で醜く争った。

 皇族内の皇位を巡る争いは、後嵯峨上皇の子である後深草院亀山天皇持明院統大覚寺統と云う二つの皇統を為し、両統迭立は鎌倉幕府や後の時代をも巻き込んだ。
 源頼朝の開府以来、政権は幕府が握り、朝廷には権威はあっても権力は無かった。それでも皇族達は、ある者は「院政」にこだわり、ある者は「治天の君」にこだわり、ある者は「親政」にこだわり、自らの皇位や、世襲に執着し、周囲を巻き込んだ。

 正直、現代の視点から見れば、この時代の天皇に政治的な旨味が無い一方で責任も無く、そんな皇位に対する異常な執着は理解し難いものがある。
 当時、史上最大の国難だった元寇においてさえ、朝廷がやったことと云えば、亀山上皇「敵国降伏」の願掛けを行っただけなのである。
 否、力が無かったからこそ、せめて「権威だけ」は持ちたかったのだろうか?

 そして骨肉の争いを武力で流血を伴いながら展開しつつ、妙なところで結束を強く持ち続けた北条一族もまた奇妙であり、懲りない一族だった。
 基本原則として、時政義時泰時時氏時頼時宗貞時高時という血統の得宗家を一族宗家として立て、執権位を襲わせていた。
 但し、得宗当主が幼少の場合は執権位に就かせず、普段は連署、評定衆、引付衆、各地探題を務めていた大仏、極楽寺、赤橋、普恩寺、政村流、宗政流、金沢等の支族から中継ぎ者が選ばれ、中には一〇日間の在位に過ぎない執権までいた。

 権力者の一族に骨肉の争いが見られるのは古今東西珍しいことではない。
 しかし、別家を立てても外敵には団結し、鎌倉幕府滅亡時には一族の多くが運命を共にした様に、北条氏は、根は決して血縁を軽んじる一族ではなかった、と薩摩守は考えている。
 そこで薩摩守が気になったのは、皇族、将軍、執権の寿命の短さである。
 下表を参考にして頂きたい。


皇族
即位順名前享年皇統
第八八代後嵯峨天皇五三歳
第八九代後深草天皇六二歳持明院統
第九〇代亀山天皇五七歳大覚寺統
第九一代後宇多天皇五八歳大覚寺統
第九二代伏見天皇五三歳持明院統
第九三代後伏見天皇四九歳持明院統
第九四代後二条天皇二四歳大覚寺統
第九五代花園天皇五二歳持明院統
 全員自然死にも関わらず、還暦を迎えた者が一人しかいない。


征夷大将軍
即位順名前享年皇統没所
第四代藤原頼経三九歳九条家京都
第五代藤原頼嗣一八歳九条家京都
第六代宗尊親王三三歳皇族京都
第七代惟康親王六三歳皇族京都
第八代久明親王五三歳皇族持明院統) 京都
第九代守邦親王三三歳皇族(持明院統) 鎌倉
 中間の二人を除いて四〇歳にも至らない。また、全員が存命中に何らかの形で将軍職を解任され、四〇歳未満で逝去した者は京都に送還されてからの寿命も短い。


執権
即位順名前享年血統
第四代北条経時二三歳得宗家
第五代北条時頼三七歳得宗家
第六代北条長時三六歳極楽寺流
第七代北条政村六九歳政村流
第八代北条時宗三四歳得宗家
第九代北条貞時四〇歳得宗家
第一〇代北条師時三七歳宗政流
第一一代北条宗宣五四歳大仏流
第一二代北条煕時三七歳政村流
第一三代北条基時四八歳極楽寺流
第一四代北条高時三一歳得宗家
第一五代北条貞顕五六歳金沢流
第一六代北条守時三九歳赤橋流
 これまた一部例外を除いて多くは半世紀も生きられていない。勿論、第一三代北条基時以降の執権は鎌倉幕府滅亡時に幕府と運命を共にしているので、自然死ではないが、それを考慮に入れても短命が多い。
 また、歴代執権の多くは在職中に病を患ったことをきっかけに引退・出家している。出家後、程無く(一年以内に)病没した者も少なくない。死を前にしたからこそ、権力者・責任者として多くの人々を死に追いやった罪の意識に苛まれたから出家した、と見るのは穿った物の見方だろうか?

 現代と比べて医学が未発達で、平均寿命が短いと云っても、それは幼児時の死亡率が高いためで、平安時代でも生きる奴は九〇歳を超えて生き、七〇代、八〇代の老人もちゃんと存在していた。
 これらから推測するに、「骨肉の争い」と天皇、将軍、執権としての「重責」と、周囲と「戦い続ける日々」、等が凄まじいストレスとなって歴代天皇・将軍・執権達の寿命を縮めた様に見えてならない。


三、 後の時代への悪影響
 鎌倉幕府の政治が後世に残した悪影響が二つある。
 一つは「神風思想」で、もう一つは両統迭立である。
 前者は元寇時における暴風雨が元軍を撤退せしめたことで太平洋戦争が終わるまで日本人の心に「神風」の思想を植え付け、戦争における犠牲を増やすこととなった。

 後者は、室町時代初期の南北朝の対立が六〇年の醜い争いを続け、その後の時代においても北朝と南朝のどちらを正統とするかが論じられた時に、南朝正統を訴える人々は北朝に属した足利将軍家を殊更非難した。
 「○○がなければ…」、「○○がいなかったら…」の仮定は好きじゃないし、「if」は歴史学の禁物だが、安定とほど遠かった時代が生んだ醜い争いが、その時代で治まらずに後世の人々まで無益な争いに駆り立てた事実は目を背けたい、それでも決して目を逸らしてはいけない大いなる歴史の教訓である。


四、 薩摩守が裁定するA級戦犯
 鎌倉時代を暗黒時代とし、権力者内に権力争いを絶えなくさせた時代のA級戦犯として薩摩守が考えるのはずばり北条時政後嵯峨天皇である。

 当戦国房では薩摩守の主観により、源頼朝はかなりボロクソ書き綴って来た。
 だが圧政者の影にて強権を発動し、圧政を支え、甘い汁を吸う者がいるのは歴史の常で、メインとして取り上げて来なかったものの、北条時政は頼朝に匹敵するか、場合によってはそれ以上の極悪人、と薩摩守は前々から考えていた。

 弟や叔父を何人も殺した頼朝も、直属の子供には甘い程に優しかった(愛情のかけ方に間違いは思い切りあったが)。しかし時政は外孫とは云え、孫である源頼家、曾孫である一幡(頼家の子)を殺害した。
 それを「北条家を第一と思った。」という観点に立ったとしても、最後の最後には後妻・牧の方への愛情に狂って二人の娘婿にあたる平賀朝雅(ひらがともまさ)を征夷大将軍とする為に、孫である三代将軍実朝を殺そうとしたために、実の子である北条義時、政子の怒りを買った。
 政子は頼家が嫡男の仇である時政を斬ろうとしたときに、取り巻き達に息子を取り押さえさせて強制出家させたのと同じ手段で、今度は時政を強制出家させ、領国伊豆に幽閉した。

 北条一族は一族内で争うことはあっても、一族を狙う他の氏族に対しては団結することが多かった。
 しかしながら、そんな北条一族にあっても北条家繁栄の先駆けとなり、初代執権となった筈の時政は「始祖」と認められず、祭祀においては義時が初代とされた。
 つまり、時政の権力を巡っての冷酷非情振りは、その後多くの有力御家人一族や北条家の支族を血祭りに上げ続けた義時以降の得宗家の目から見ても目に余るものがあり、その後の北条家の非道に対する罪悪感をかなり軽減させたのではないか?と薩摩守は見ている。

 要するにクラスの中に教師を殴り、警察お世話になりまくる不良学生がいれば、程度の低いいじめや一対一の喧嘩が、事を為した者からも、事を見ていた者からも余り重く見られない、との理屈である。
 それでも北条家の名誉のために書くと、北条家が政権のために時として非情な決断を下したり、同胞の血を流したりしたが、薩摩守はそこに罪悪感が皆無だったとは考えていない。
 そして北条家の流した血が余りに多いために、鎌倉時代という暗い時代の責任を北条家に求めたくなるが、北条家、特に得宗家を倒して政権奪取することを狙った有力御家人や有力御家人、北条家の下で権力闘争に明け暮れた支族・御内人・外戚の醜い争い、そして過去に前例がない空前の大帝国・元からの侵略に曝された重い事実や、他者の責任からも目を背けてはならない、と考える。


 そしてもう一人のA級戦犯・後嵯峨天皇
 承久の変以降、皇位継承に秩序がなく、即位に苦労した後嵯峨天皇の気持ちは分からないでもないし、院政を敷き、治天の君として皇位継承問題に絶対の力を持ちたがった気持ちも分からないでもない。
 だが、後深草天皇に対する仕打ちは分からないものがあり、まだ一七歳の彼を強制退位させ、亀山天皇を即位させ、以後の天皇は亀山天皇の皇統(大覚寺統)から立てることを命じながら、あろうことかその問題を鎌倉幕府に託し、死後に両統迭立問題が混迷したときに、政権そのものは後深草院による院政ではなく、亀山天皇による親政が後嵯峨上皇の遺志であることははっきりしたが、その後に優先する皇統については何の遺志も示さない、と云う意味不明なことを仕出かした。
 結果、子孫・幕府を巻き込んで、二つの皇統とそれを巡る争いが歴史上に醜い影を落としたのであった。

 鎌倉時代当時、皇室・朝廷に政治上の実権はなかった。しかし絶対の権威は今現在に至るまで保持しているのが皇室であり、皇位である。
 さなくば後深草天皇亀山天皇後醍醐天皇も自らの皇位・皇統にああも執着はしなかっただろう。
 云い換えれば、後嵯峨上皇が「明確な意思」を残せば、それをちゃんとした形で権力者である鎌倉幕府に託していれば、そして鎌倉幕府が権力者として権威に恐れず両統迭立という中途半端な事をしていなければ、南北朝の動乱や、その後の史観・大義名分論も論争を必要としなかっただろう。
 つまりは、「朕は亀山天皇が可愛いから、以後の皇位は亀山天皇の嫡流が継ぐべし!」との我欲通しでも、後世の影響はかなり少なく済んだのである。
 後嵯峨上皇の在り様すべてに責任を帰すつもりはないが、事の発端となった責任は重く見ない訳にはいかない。



 さて、承久の変以降のせっかく収まりかけた世相を騒がせ、後々の世まで悪影響を残した鎌倉時代の各事件を、法律の専門家でもない、歴史の専門家でもない薩摩守が勝手に裁く形で検証してきたが、正直、(自分で持ち出しといて何だが)「A級戦犯」という言葉は好きではない。
 戦後の極東軍事裁判にしても、一部を除いて戦犯達を庇う気は無く、裁判の在り様や判決すべてを否定しないが、「勝者が敗者を一方的に、しかも事後法でもって裁いた誤った裁判である」と考えている(それをたてに裁判内容をすべて無効化して戦犯達の罪をもみ消そうとする保守的な連中も嫌いだが)。

 だが、多くの人間の血が長期間に渡って流れ続けるのには、やはり「時代の責任者」がいて、時代の始まりに「その土壌を作ってしまった存在」がある。
 そしてそれは決して鎌倉時代だけの問題ではない。今後の歴史にもあり得る話なのである。
 本作を見て、鎌倉時代に理不尽に流れた血に憤りを感じられる方々には目に見える責任者と、それに踊らされて生まれる歴史上の悲劇に幾ばくなりともの慮りを持って頂ければ幸いである。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新