第拾壱頁 鎌倉幕府滅亡……「腹に一物」の「櫛の歯現象」

事件番号kamakura-0011
事件名鎌倉幕府滅亡( 元弘三(1333)年五月二二日)
事件の概要元弘の乱に端を発する六波羅探題・鎌倉御所急襲による幕府滅亡
原告北条高時・北条貞顕・北条守時
被告足利高氏・新田義貞・長崎高資
関連人物後醍醐天皇・吉田定房・名和長年
罪状執権に対する反逆
後世への影響南北朝時代の到来
事件の内容 歴史のターニングポイントである鎌倉幕府の滅亡である。
 小学校時に、「い(1)・い(1)・く(9)・に(2)・作ろう」(良い国造ろう)で始まり(最近は源頼朝が侍所等の機関を作った年を幕府創設とする意見も多いが)、「いち(1)・み(3)・さん(3)・ざん(3)」(一味散々)で終わった、と覚えた、一四一年に及んだ鎌倉時代の終焉であった。

 滅亡への序曲をプロデュースしたのは云うまでもなく、後醍醐天皇である。
 正中の変で、側近を身代わりにして幕府方の処罰を免れた後醍醐天皇は、より一層幕府への反感を強め、同じく処分を免れた側近の日野俊基、真言密教の僧・文観(もんかん)等と再び倒幕計画を進めた。

 しかしながらその計画内容は成功の確率の低いもので、万が一にも失敗しようものなら今度こそ後醍醐天皇への処罰は免れえず、最悪は殺されかねない(今上のまま殺すことはなくても、退位させられた後に殺されることはあり得た)。
 そう思い詰めた後醍醐天皇側近の吉田定房(よしださだふさ)は元弘元(1331)年八月に六波羅探題に倒幕計画を密告した。

 六波羅探題では軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した(その渦中で日野俊基は捕らえられ、鎌倉で殺された)。
 その挙兵に後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)、河内国の悪党・楠木正成も呼応。親王は大和国吉野で、正成は河内国下赤坂城で挙兵した。


 鎌倉幕府は大仏(おさらぎ)貞直、金沢貞冬、足利高氏新田義貞等の討伐軍を差し向け、九月二八日に笠置山は陥落した。
 後醍醐天皇は翌日山中にて捕らえられ、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。

 難攻不落の要塞の代名詞に「千早赤坂城」が用いられる端緒となった用兵の名手・楠木正成は偽塀、大木、熱湯、藁人形を用いた偽兵を駆使して善戦したが、一〇月、自ら下赤坂城に火をかけて自害した様に見せかけ、姿をくらませた。
 その後一年間、正成が何処にいたかは現代史学でも不明とされている。

 後醍醐天皇を捕らえた幕府は後醍醐天皇を廃位し、持明院統の光厳天皇を即位させ、元号も正慶と改めた。
 その上で、正慶元(1332)年三月、日野俊基・北畠具行、先の掌中の変で佐渡に流されていた日野資朝等を斬首し、後醍醐天皇を隠岐島へ、文観を硫黄島へ流した。


 しかし、後醍醐天皇とその一派は、事の善悪や大義名分は別にしても、強い信念の人だった。
 皇子の護良親王は同年一一月、楠木正成が河内国金剛山千早城で挙兵したのに続いて同月、吉野で挙兵し、倒幕の令旨を発した(←道場主「以仁王みたいだな(笑)」)。
 正成は一二月に赤坂城を奪回し、翌天慶二(1333)年一月に六波羅探題の軍勢を摂津国天王寺等で撃破した。

 幕府は再度、大仏家時、名越宗教、大仏高直等の北条支族が率いる大軍を差し向け、正成の配下の平野将監等を上赤坂城で、吉野で護良親王を苦戦の末に撃破した。
 寡兵で千早城に籠城する正成は、奇策でもって再び幕府軍を翻弄。幕府軍が平野将監の指揮した上赤坂城を陥落・降伏させた際に用いた水源断絶策も千早城には通じなかった。
 結果、楠木軍は九〇日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜き、反幕府勢力が後醍醐天皇方に結集するのに充分な時間を確保した。

 播磨国では赤松則村が鎌倉幕府に反旗を翻して挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。
 京都に近い播磨で赤松則村が進撃を開始したことに勢いを得た後醍醐天皇は閏二月に名和長年の働きで隠岐島を脱出。伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。
 鎌倉幕府は船上山討伐を足利高氏、名越高家等に命じた。
 しかし、四月二七日に名越高家は赤松則村に討たれ、足利高氏は所領の丹波国篠村八幡宮にて部下の前で後醍醐天皇について幕府へ反旗を翻すことを宣言した。
 五月七日、高氏は佐々木道誉・赤松則村等と呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧。六波羅探題の北条仲時、北条時益一族は鎌倉を目指して逃亡せんとしたが、追い詰められて同月九日、近江国番場蓮華寺で自刃。光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇等も捕らえられた。

 そして関東では五月八日に新田義貞が上野国生品明神で挙兵。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。
 足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)等もこれに加わり、数万の大軍に膨れ上がった新田軍は迎撃に出た北条泰家等の軍勢を小手指ヶ原の戦い(現:埼玉県所沢市)や分倍河原の戦い(現:東京都府中市)で撃破し、鎌倉幕府を追い詰めた。

 新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、脇屋義助は化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。
 しかし三方を山、一方を海に囲まれた天然の要塞・鎌倉は七つの切り通しである鎌倉七口(極楽寺坂切通し・大仏切通し・化粧坂・亀ヶ谷坂・巨福呂坂・朝比奈切通し・名越切通し)を封鎖されると守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏が戦死した。
 だが、幕府側も執権・北条守時赤橋守時)が洲崎にて自刃した。

 一時的な膠着状態の中、義貞は一計を案じ、潮の満ち引きを利して稲村ヶ崎を海岸沿いから鎌倉へ突入した。
 五月二二日、激戦の繰り広げられた鎌倉では由比ヶ浜から火の手が上がり、大仏貞直、金沢貞将等が討ち死にし、執権の邸宅までが炎上すると北条一門は最期を悟り、北条家の菩提寺である東勝寺に集結した。
 長崎高重、摂津道準達が腹を切ったのを皮切りに、北条得宗家当主・北条高時、得宗家外戚・安達時顕が最後に自害した。
 運命を共にした者には他に先代執権・北条貞顕(金沢貞顕)、第一三代執権・北条基時(普恩寺基時)、等の北条一族が二八三人、長崎高資等の家臣が八七〇人に上った(誇張説あり)。
 ここに鎌倉幕府は滅亡した(高時の次男・時行は信濃に逃亡した)。


 各地でも鎮西探題・北条英時(執権北条守時の弟)が少弐貞経、大友貞宗、島津貞久等に攻められて五月二五日に博多で自刃した。


事件の背景 元寇以来、三度目の蒙古襲来に備えて第一権力者である北条得宗家が権勢を振るい、北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇の恩賞や訴訟の停滞、異国警固番役の負担、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していた。
 「恩賞と奉公」の封建制度が揺らぎ、徳政令等の政策も裏目に出、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化していた。

 そんな渦中にあって、事実上の政務者である筈の鎌倉幕府執権は北条得宗家による世襲を基軸としつつも、得宗家当主が幼少の内は支族から適切な者を臨時の執権に据えたため、歴代執権の在任期間は短く、北条時頼(五代)→時宗(八代)→貞時(九代)→高時 (一四代)→時行(就任せず)の流れの中にも八人の傍流執権が林立する状態だった。
 それゆえ、幕府内の政情は得宗家・北条支族(極楽寺流、政村流、宗政流、大仏流、金沢流、赤橋流等)、有力御家人(安達氏等)、御内人(長崎氏)による静かながらもねちっこい対立が続いていた。
 特に闘犬・田楽に現を抜かす少年執権・北条高時と、収賄を続けて得宗家に匹敵する力を持って外戚とも対立した内管領・長崎高資の評判は最悪で、そんな経過の中、幕府は次第に支持を失っていった。

 そこへ指して皇位継承問題から干渉する幕府を憎む後醍醐天皇の執念が火を着け、幕府に反感を持つ悪党や、野心に燃える(主に源氏系の)御家人達が集った。
 政治、軍事、経済に利あらず、敵対勢力に大義名分が加わっては、陪臣政権の鎌倉幕府に時代の流れに抗する術はなかったも無理はない。
 当初の源氏将軍による統治機構が充実し、戦うことを知らない皇室・皇統が継続していれば勝手は違ったのだろうけれど。



原告側人物
北条高時(ほうじょうたかとき)
略歴 第九代執権・北条貞時の三男として嘉元三(1303)年に生まれた。その時点で父・貞時は執権を引退して、傍流の支族が執権に就いていた。

 延慶二(1309)年に元服。
 小侍奉行等を務め、応長元(1311)年に父・貞時と第一〇代執権・北条師時が相次いで死去したが、高時が若年ゆえに執権位は第一一代を大仏流の宗宣が、第一二代を政村流の煕時が、第一三代を極楽寺流の基時が就任した。
 正和五(1316)年に一族や内管領長崎氏等の身内人に後見されて第一四代執権となった。時に北条高時一四歳。
 当然のことながら、この若さでまともに政治を見られる筈はなく、高時自身は闘犬・田楽に現を抜かし、政治は元より権勢を強めつつあった得宗家御内人であり、内管領であった長崎氏円喜・長崎高資父子が掌握した。


 就任の翌年、文保元(1317)年に文保の和談が為され(くどいが否定説あり)、そのまた翌年、文保二(1318)年には後醍醐天皇が即位した。
 高時在任中には、諸国での悪党の活動が、奥州で蝦夷の大乱が、安藤氏の乱が起き、正中元(1324)年には京都で後醍醐天皇とその側近による幕府転覆計画が発覚した(正中の変)。
 倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれたが、後醍醐天皇の側近・日野資朝を佐渡島に配流しただけの処分に終わり、倒幕の根は断てなかった。


 正中三(1326)年、高時は病のため二四歳の若さで後継者も決めずに執権を辞して出家した。
 そのため、第一五代執権就任者を巡って、北条邦時(高時の実子。この時二歳)を推す長崎氏と、北条泰家(高時弟)を推す外戚・安達氏が対立した。
 そんな中、長崎高資の支援を受けて三月一六日に北条貞顕(金沢貞顕)が邦時成人までの中継ぎとして第一五代執権に就任したが、貞顕就任に反対した泰家が出家したことで、貞顕暗殺の噂まで立ち、元々出家意向の強かった貞顕は三月二六日に在職一〇日で出家・辞任した(嘉暦の騒動)。

 外戚・安達泰盛と御内人・平頼綱の暗闘を彷彿とさせる外戚・安達時顕と御内人・長崎高資の対立に、北条一族は執権就任を渋ったが、四月二四日に北条守時(赤橋守時)が就任することでようやく収拾した。


 元弘元(1331)年、得宗である高時が、守時との対立から長崎円喜等を暗殺しようとしたとの容疑で高時側近等が処罰され、その対立に付け込む様に八月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵した(元弘の変)。
 天皇方の挙兵は楠木正成軍に苦戦して長引いた以外は比較的早期に鎮圧され、翌元弘二(1332)年三月に後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近達(日野資朝・日野俊基等)を処刑し、皇位には持明院統から光厳天皇を立てた。


 元弘三(1333)年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府では鎮圧の為に北条一族の名越高家と下野国の御家人である足利高氏を京都へ派遣したが、高家は赤松則村に討たれ、高氏後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻め落とした。
 続いて関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃。
 地の利を生かして奮戦したが、新田軍は鎌倉へ侵入し、高時は北条家菩提寺の東勝寺へ退き、息子達を鎌倉から脱出させると歴代執権を初めとする北条支族や御内人達ともに自刃した。北条高時享年三一歳。

被った被害 自身が死に追いやられただけではなく、息子も嫡男・邦時が鎌倉陥落時に伯父・五大院宗繁に伴われて伊豆山に脱出するも裏切られて相模川にて捕らえられ、鎌倉にて斬首(享年九歳)。
 次男・時行(ときつら)は信濃に逃れたが、六波羅探題陥落後に奈良・興福寺で抗戦していた養子の治時は出家・降伏したにも関わらず処刑された(享年一五歳)。
 北条得宗家当主として、失政が招いた業とは云え、多くの一族とともに菩提寺にて炎の中に自刃した最期は北条家が滅ぼしてきた諸豪族の滅亡と比しても軽いものではなかった。

事件後 信濃に逃れた次男・北条時行が一時期鎌倉を取り戻すも、結局は足利尊氏の前に敗れ、北条得宗家は完全に滅亡した(幕末の横井小楠はその子孫を称している)。
 少年期に遊芸に耽り、鎌倉幕府滅亡時の得宗家当主にあったため、「御家を滅ぼした暗君」として、後醍醐天皇足利尊氏を正当とする史書においては殊更悪し様に記されているのも被害と云えなくはない。
 現代では禅宗への信仰の深い、虚無感漂わす病弱な人物としての見方が増えている。



北条貞顕(ほうじょうさだあき)
略歴 弘安元(1278)年に金沢(かねさわ)流北条家に生まれた。傍流支族ゆえ、金沢貞顕とも云う。
 金沢流は第二代執権北条義時の子・実泰に始まり、実時→顕時→貞顕と続いて来た。

 永仁四(1296)年に一九歳で幕府に出仕。
 現代の年齢では少年でも、当時の基準では遅い年齢での出仕になったのは、父の顕時が弘安八(1285)年の霜月騒動に連座したためと考えられている。
 乾元元(1302)年、六波羅探題南方・大仏宗宣が連署に就任(後に第一一代執権)して鎌倉に戻ると、貞顕はその後任として上洛し、京都以西の責任者となった。
 延慶元(1308)年に六波羅探題南方を辞任して鎌倉に帰還し、翌延慶二(1309)年に寄合衆、延慶三(1310)年に今度は六波羅探題北方として再上洛。その間、励んでいた文献写本が金沢文庫に多数収められている。


 正和四(1315)年、貞顕は連署に就任。
 文保の和談正中の変、と落ち着かない世相が続き、嘉暦元(1326)年に執権・北条高時が二四歳の若さで後継者も決めずに辞任・出家したのに呼応して貞顕も政務の引退と出家を望んだが、慰留を命じられた。

 内管領・長崎高資より高時嫡男・邦時が成人するまでの中継ぎとして執権就任要請を受け、三月一六日に第一五代執権に就任した。
 しかし、北条邦時の対抗馬でもあり、貞顕の執権就任に反対していた北条泰家が出家すると、貞顕暗殺の風聞が立ち、貞顕は在任僅か一〇日で同月二六日に執権辞職を願い出、今度はあっさり受理された(嘉暦の騒動)。

 翌月二四日に北条守時が第一六代執権に就任。
 その後目立った事績は見られないが、元弘三(1333)年に新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉に攻め入ると得宗家当主・高時等の北条一門とともに北条氏の菩提寺である鎌倉・東勝寺で自刃した。北条貞顕享年五六歳。

被った被害 本来、文学と仏教信仰を好む穏健派で、好戦的ではなかったにもかかわらず、鎌倉幕府の滅亡と運命を共にし、得宗北条高時・孫の忠時と共に自害。息子の貞将(さだゆき)も戦死した。

事件後 北条貞顕の一族は鎌倉にて滅亡。金沢流北条氏は鎮西探題として九州にも所領を持ち、北条高政が鎌倉幕府の滅亡の翌年まで一族の残党を集めて抵抗したが、鎮圧されて滅亡した。
 歴史的には金沢文庫に代表されるように、北条支族の中でも学問・文学の家系としてその名を残している。



北条守時(ほうじょうもりとき)
略歴 永仁三(1295)年に赤橋(あかはし)流北条家に生まれた。それゆえ赤橋守時とも云う。
 赤橋流は第六代執権北条長時に始まり、義宗→久時→守時と続いて来ていた。

 応長元(1311)年に一七歳で評定衆に、正和二(1313)年に引付頭人に就任した。
 嘉暦元(1326)年三月、北条高時執権辞職に端を発する得宗家外戚と得宗家御内人との政争(嘉暦の騒動)により、高時嫡男・邦時の中継ぎとして執権に就任した金沢貞顕は在任一〇日で辞職する有様で、誰もやりたがらなかった執権に長崎高資の後援を受け、四月二四日に守時が第一六代執権に就任した。時に北条守時三二歳。
 勿論強要されて就任した執権である守時に実権があろう筈はなく、実権は得宗・北条高時、内管領・長崎高資等に握られていた。

 元弘元(1331)年八月、後醍醐天皇側近・吉田定房から倒幕計画が密告されるとその対応に当たった。
 定房の密告に対し、天皇側近の処罰を決めるのに守時は得宗の高時に意見を伺おうとしたが、高資は「執権が決めるべし」と主張したように、この時には高時高資もかつての密月状態にはなかった。

 後醍醐天皇を捕え、天皇に味方した軍勢を駆逐し、元弘二(1332)年に後醍醐天皇を隠岐島に流したのを始め、関係者を処刑・流罪に処し、元弘の変は終結したが、その年の一一月には護良親王(後醍醐天皇皇子)・楠木正成が挙兵し、翌元弘三(1333)年閏二月、後醍醐天皇名和長年の助けを得て隠岐を脱出し、伯耆国船上山に籠った。
 守時は一族の名越高家、御家人の足利高氏に船上山攻略を命じたが、四月二七日に高家は赤松軍の前に討ち死にし、五月七日高氏が幕府に叛旗を翻して六波羅探題を攻め落とす始末だった。
 しかも高氏守時の妹婿だったため、執権でありながら守時は倒幕軍との内通を疑われ、六波羅探題陥落の責任から高時に謹慎を申し付けられた。

 元弘三年五月一八日、新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉に押し寄せると、守時は疑惑の視線を払拭せんとして迎撃の為、三手に分かれた新田軍が攻めよせる要衝・巨福呂坂(こぶくろざか)にて新田軍と激戦を繰り広げた。
 一日に六五回の突撃を敢行した守時軍だったが、最期は衆寡敵せず洲崎(現:神奈川県鎌倉市深沢)にて侍大将・南条高直等九〇余名の配下と共に鎌倉幕府・北条一門滅亡に先んじて自刃した。北条守時享年三九歳。

 幕府滅亡に四日先立って守時は落命したが、新田勢は幕府滅亡まで巨福呂坂を越えることは出来なかった。
 如何に守時が奮戦したかが分かると云うものである。

被った被害 元より、すべての権力を得宗当主・北条高時と内管領・長崎高資に握られた典型的な傀儡執権だったが、傀儡でも肩書によってしっかりと責任は担わせられた。
 殊に妹婿であった足利高氏が幕府を裏切って後醍醐天皇に味方したため、幕政上では最高権力者の地位にありながら、高時から謹慎を命じられ、新田義貞が鎌倉に進軍してくると疑惑の払拭と執権としての責任から最前線に出ることとなり、結局は鎌倉幕府滅亡に先駆けて自刃に追い込まれた。
 権力的に矮小な存在であるにも関わらず、責任だけは肩書ゆえの重さを背負わされた典型的に悲惨な境遇が最大の被害と云えよう。
 子の益時も洲崎にて共に自刃。

事件後 策謀に長けた北条一族の中でも決して狡猾ならず、潔さも持った武人だったのが「北条氏らしくなかった」ためか、史上の影は極端に薄い。
 「最後の執権」でありながら、知名度も、最期が描写される頻度も北条高時の方が遙かに上で、高時が「最後の執権」と誤解したことのある人も多いだろう。
 通常の状況なら一族と皇室と妹婿の板挟みになった悲劇性や、執権でありながら前線に立った最期はもっと注目されていい人物である。



被告側人物
足利高氏(あしかがたかうじ)
略歴 嘉元三(1305)年七月二七日、清和源氏の八幡太郎・源義家の子・義国を祖とする足利氏の嫡流として足利貞氏の次男に生まれた。幼名は又太郎

 元応元(1319)年一〇月一〇日、一五歳で元服し、従五位下・治部大輔に任ぜられるとともに、得宗・北条高時の偏諱を受けて足利高氏と名乗った。

 兄・高義が早世したため、高氏が足利家の家督を相続。
 元弘元(1331)年、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵すると幕命で高氏後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加した(この時、父・貞氏の喪中で、それを理由に参陣辞退を幕府に申し出たが許されなかった)。
 元弘三(1333)年、元弘の変に敗れて隠岐に流されていた後醍醐天皇が島を脱出して伯耆船上山で挙兵すると、高氏は再度幕命を受けて幕府軍を率いて上洛した。

 この時、高氏は妻・登子、嫡男・千寿王(後の義詮)を同行させようとしたが、幕府は二人を人質として鎌倉に留め置いた。
 しかし高氏は四月二九日に、丹波国篠村八幡宮(現:京都府亀岡市)にて後醍醐天皇に味方し、幕府を討つことを源氏の氏神に誓った、と配下に告げて挙兵。
 諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨の赤松則村、近江の佐々木道誉等の反幕府勢力を糾合して入洛し、五月七日に六波羅探題を滅ぼした。

 ほぼ時を同じくして関東で、上野国御家人・新田義貞が挙兵。鎌倉を脱出した千寿王も新田軍に参加(ちなみに庶長子・竹若丸は脱出に失敗して殺害されている)。新田軍は鎌倉を制圧して鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。


 鎌倉幕府の滅亡後、高氏後醍醐天皇から勲功第一として、従四位下・鎮守府将軍・左兵衛督・三〇ヶ所の所領を受け、後醍醐天皇の諱・尊治から偏諱を受け、尊氏と改名した。
    だが、建武の新政を開始した後醍醐天皇は自らの皇子や側近ばかりを優遇し、尊氏は要職には就かなかった(足利家の執事である高師直・師泰兄弟を初めとする家臣を多数送り込んでいたにも関わらず)。

 建武元(1334)年、鎌倉幕府の滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれていた護良親王が尊氏を敵視ししていたのに対して、尊氏は先手を打ってこれを讒言し、親王は父の命令で逮捕され、鎌倉の足利直義(尊氏弟)に預けられて幽閉の身となった。
 建武二(1335)年、信濃国で北条高時の遺児・北条時行を擁立した北条氏残党の軍勢が一時鎌倉を占拠した(中先代の乱)。鎌倉を奪われた直義は脱出する際に独断で護良親王を殺害した。
 反乱制圧を命ぜられた尊氏後醍醐天皇に征夷大将軍就任を望んだが、後醍醐天皇はこれを拒否し、「征夷大将軍の地位を望むなら京を離れるな!」と告げられた。
 同年八月二日、尊氏は勅許を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向い、後醍醐天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。
 尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月一九日には鎌倉を奪還した。


 直義の助言に従って尊氏は鎌倉に留まり、そこを本拠とした尊氏は従軍した兵卒に独自に恩賞を与え、上洛命令も拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。
 同年一一月、尊氏新田義貞を「君側の奸である」として後醍醐天皇にその討伐命令を請うたが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を伴わせて尊氏討伐を命じた。
 奥州からも北畠顕家が南下して攻め寄せると尊氏は赦免を求めて隠居せんとしたが、弟・直義、直臣・高師直を見捨てられず、後醍醐天皇に叛旗を翻すことを決意。一二月には新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。

 勿論後醍醐天皇に背くのは「朝敵」の汚名を着ることになる。
 尊氏は大覚寺統である後醍醐天皇の復位で皇位を追われていた持明院統の光厳上皇と連絡を取り、正統性を得る工作をしていた。
 そして建武三(1336)年一月、尊氏は入京し、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。
 しかし程無く、北畠顕家、楠木正成、新田義貞等の攻勢に晒され、彼等に敗れた尊氏は翌年建武四(1337)年一月三〇日に篠村八幡宮に撤退した。
 京都周辺に潜伏して奪還を狙っていた尊氏だったが、二月一一日に摂津豊島河原で新田軍に大敗し、尊氏は摂津兵庫から播磨室津にへ、更には赤松則村の進言を容れて九州に下った。

 九州への向かう途中、長門国赤間関(現:山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受け、三月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて菊池武敏等を破り、勢力を立て直した尊氏は、京に向かった。
 その途中で光厳上皇の院宣を獲得し、「官軍である」との大義名分を得た尊氏は西国の武士を急速に傘下に集めるのに成功し、五月二五日の湊川の戦い新田義貞・楠木正成の軍を破り(直後に正成は弟・正季と刺し違えて自害)、六月、再度京都を掌中にした(延元の乱)。

 尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れ、これに応じた(振りをした) 後醍醐天皇は一一月二日に光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器を譲り、同月七日、尊氏は建武式目十七条を定めて新たな武家政権の成立を宣言した(事実上の室町幕府の発足)。
 ところが、後醍醐天皇は一二月に京を脱出して吉野へ逃れると、「光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、本物を持つ朕が唯一にして真実の天皇である」と称して、正統王朝であることを宣言した(南北朝の始まり)。はっきり云って、やり方がセコイな


 延元三(1338)年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、名実ともに室町幕府が成立。翌延元四年八月一六日に後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。

 南朝との戦いは軍事に優れる尊氏が戦を優位に進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正行(正成遺児)等も次々に戦死し、正平三(1348)年には吉野を陥落させた。
 元より、尊氏は「政治家」というよりも「軍人」で、幕政においては政務を弟・直義に任せ、自らは「武士の棟梁」として君臨した。
 しかしながらこの二元体制は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、足利直義と高師直の武力闘争に発展(観応の擾乱)。当初、中立的立場を取っていた尊氏だったが、最終的には師直派として正平四(1349)年、師直側の襲撃を受けて逃げ込んで来た直義を出家・引退させた。

 尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男・基氏を鎌倉公方として、東国統治機関である鎌倉府に在任させた。
 直義の引退後、直義猶子・足利直冬(実は尊氏庶子)が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平五(1350)年、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征。その隙に京都を脱出した直義は南朝に降伏し、留守を預かっていた義詮は劣勢となって京を脱出する羽目に陥った。
 尊氏も京に戻ろうとして打出浜の戦いで敗れ、尊氏は高師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平六(1351)年に和議が成立した(高兄弟は護送中に彼等を父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺さた)。

 直義は義詮の補佐として政務に復帰したが、その裏で尊氏・義詮は佐々木道誉・赤松則祐討伐の名目で近江・播磨へ出陣しながら、直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。
 この動きに察知した直義は鎌倉へ逃亡。
 一〇月に南朝と和睦した尊氏は(正平の一統)、直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(現:静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(現:神奈川県小田原市)での戦闘に勝利し、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。
 直義は正平七(1352)年二月二六日に急死。一般に尊氏による鴆毒での毒殺が根強く囁かれている。尊氏の性格上、弟を殺したことに否定的な意見もあるが、二月二六日が直義と対立した高兄弟の命日であることが、直義の死を自然死から遠ざけているのは否めない。


 直義との戦いの為に尊氏が京を留守にすると、南朝方は和睦を反故にし、宗良親王(後醍醐天皇皇子)、新田義興・義宗兄弟(新田義貞の次男と三男)、北条時行等の南朝方から襲撃され、武蔵国へ退却したが、すぐに反撃に転じ、義興や時行等を討って関東を制圧すると、京都へ戻った。
 正平九(1354)年にも一時京都を南朝方に奪われるが、翌年奪還。それに前後して戦っていた直冬討伐を企てたが、正平一三(1358)年四月三〇日、背中に出来た腫れ物がもとで、京都二条万里小路第にて義詮に後事を託して病死した。足利尊氏享年五四歳。

罪状 人柄や信念はともかく、足利高氏は鎌倉幕府にとっては完全な裏切り者である。
 勿論、「勅命に従う」や「平氏(北条氏)から源氏(足利氏)の政権を取り返す」という大義名分を立てるのは可能だが、御家人筆頭格として二代目当主・義兼以来の歴代当主は多くが北条家の娘を娶り、北条家の娘が母であった例も多い。
 そして自身も間違いなく北条家の血を引き、執権・北条守時の妹・登子を妻に迎えている血縁から云えば生半可な気持ちでは鎌倉幕府を裏切れなかった筈である。

 六波羅探題を攻め滅ぼした前年には幕命に従って後醍醐天皇に味方した河内の悪党・楠木正成を下赤坂城に攻めていた高氏が鎌倉幕府に反旗を翻した事への是非は、その後尊氏の史上の行動共々、大義を立てる観点によって善にも悪にも推移するが、少なくとも鎌倉幕府の立場に立った際の、足利高氏の裏切りの罪は決して軽くはない。

事件後 存命中の事績は有名過ぎるので端折るが、建武の新政を支えるも、武士を軽んずる後醍醐天皇と対立し、立場や云い分の相違から決して仲が悪かった訳でもない実弟・直義、その猶子にして実子である直冬、更には後醍醐天皇とも対立し、南朝の権威の前に志半ばに戦いに明け暮れた生涯を閉じた。
 薩摩守は、敵対した天皇、身内、直臣達に対して非情に徹することが出来なかった足利尊氏という人物の人格は決して嫌いではなく、むしろ好きな人物に属するが、その後の歴史の流れの中、南朝の正統性がクローズアップされる度に悪玉とされ、戦前の国定教科書ではあからさまな悪人とされ、大正時代には尊氏を見直すべき、との論文を出した商工大臣・中島久万吉(なかじまくまきち)が辞任に追いやられる事件が起きる程だった。



新田義貞(にったよしさだ)
略歴 河内源氏義国流新田氏本宗家第七代目棟梁・新田朝氏の子として正安三(1301)年に生まれた。
 新田氏は清和源氏の流れを引く、河内源氏三代目・源八幡太郎義家の四男・源義国の長子・義重が新田荘(にったのしょう。現:群馬県太田市)に因んで新田姓を称したのが始まりで、血統は高貴ながら、新田義貞の時代には僅か数郷を領するに過ぎず、義貞自身も無位無官の身だった。


 義貞が歴史の表舞台に現れたのは元弘元(1311)年の元弘の変で、大番役も兼ねて鎌倉幕府に従い、河内国にて楠木正成籠る千早城の戦いに参戦した。
 しかし、義貞は病気を理由に幕府に無断で新田荘に帰還。理由の一つとして、幕府が新田荘に対して要求した多大な軍費の取り立てが横暴で、後に義貞が幕府に背くきっかけとなったとも考えられている。

 元弘三(1333)年五月八日、義貞は生品明神に一族を集め、後醍醐天皇の呼びかけに応えて鎌倉幕府討伐のため挙兵することを宣言。
 当初集まった軍勢は僅か一五〇騎に過ぎず、義貞は利根川を超えて、一族が多数いる越後方面へ進軍する予定だったが、弟・脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意。結果として越後の一族も加わり、新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とした。
 利根川を越えると、足利高氏の嫡子・千寿王(後の義詮)もと合流。外様御家人最有力者である足利氏の嫡男が加わったことで、周辺の御家人も加わり、新田軍は一挙に数万規模に膨れ上がった。

 鎌倉街道を進んだ新田軍は、同月一一日に小手指原(現:埼玉県所沢市小手指)にて桜田貞国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突し、河越氏等の武蔵御家人の援護を得て数に勝る幕府軍を撃破。
 同月一五日に分倍河原(現:東京都府中市)に幕府軍を追い、一度は大敗したが、翌一六日、三浦氏・大多氏等の援軍を得て幕府軍を撃破。
 翌一七日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(現:東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に対して大勝利を収めた。

 鎌倉街道を更に南下し、藤沢(現:神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、軍を三手に分けて化粧坂、極楽寺坂、巨副呂坂の各方面から鎌倉に総攻撃を掛けた。
 各所の守りは固く、抜き難し、と見た義貞は干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。
 一八日に洲崎で執権・北条守時を自害に追いやり、得宗・北条高時を初めとする北条一門を一族の菩提寺であう東勝寺にて自害させ、新田義貞は挙兵から僅か一五日で鎌倉幕府の滅亡を成立させ、日本史上に大きな足跡を残した。


 しかしながら鎌倉陥落後、千寿王を補佐する為に足利高氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟等と衝突し、居場所を失った義貞は上洛した。
 建武の新政が始まると義貞は鎌倉幕府を直接攻め滅ぼした大功により元弘三(1333)年八月五日、従四位上・左馬助に任官。上野介・越後守等を兼任することとなった。
 同年一〇月には、播磨介も兼任。武者所の長たる頭人となり、左衛門佐、左兵衛督等の官職を歴任した。結果、与えられた所領は足利尊氏(この時高氏から改名)に与えられた関東三国よりも小さかったが、畿内三国の方が地理的重要度では上だった(関ヶ原の戦いで加増を受けた譜代大名と外様大名の関係に似ている)。

 建武二(1335)年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かった。
 鎌倉を本拠に武家政権の既成事実化を始めた尊氏は、義貞を「君側の奸」である、としてその追討を後醍醐天皇に上奏した。
 しかし、尊氏の増長を望まない後醍醐天皇は逆に義貞足利尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かった。
 義貞は弟・脇屋義助とともに矢作川(現:愛知県岡崎市)、手越河原(現:静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破るも、鎌倉から出撃してきた尊氏に敵わず、箱根・竹ノ下(現:静岡県駿東郡小山町)で敗れ、尾張から京都へと敗走した。


 翌建武三(1336)年正月、尊氏が入京すると、北畠顕家・楠木正成等と連合して京都市外で足利軍と再戦し、今度は駆逐に成功し、その後再入洛を目指す足利軍に対しても摂津国豊島河原でこれを打ち破った(尊氏は九州へ敗走)。
 この功により同年二月、正四位下に昇格し、左近衛中将に就任した。そして九州へ逃れた尊氏を追撃せんとしたが、播磨国白旗城の赤松則村に阻まれ、攻めあぐねている間に九州を平定して海路東上して来た尊氏軍に湊川にて楠木正成ともども敗れた。
 正成は落命し、敗走後、西宮で再起せんとした義貞だったが結局京都に戻った。

 湊川の戦いの後、比叡山に逃れた後醍醐天皇方は、賀茂糺河原等に攻めては足利方に阻まれた。その間、後醍醐天皇は足利方との和議を進め、あろうことか、義貞との連携を切り捨てて比叡山から下山しようとした。
 これに対して義貞の家臣・堀口貞満が後醍醐天皇に、新田家の忠義を無視するなら、京都に向かう前に義貞族五〇余人の首を刎ねてから行くよう奏上し、これを阻止した。

 義貞家臣の意外な強気姿勢に、義貞が裏切りかねないと見た後醍醐天皇は(←先に裏切ったのはアンタだって!)、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を義貞に委任する、と告げて義貞の官軍としての立場を保証することを約束して比叡山を下山した。
 両親王を託された義貞は嫡男・義顕、弟・脇屋義助とともに北陸道を進み、猛吹雪と足利方の執拗な攻撃に凍死者を出しながら、大迂回して越前国金ヶ崎城(現:福井県敦賀市)に入ったが、程無く、高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲された。
 義貞、義助は杣山城(現:福井県南条郡南越前町)に脱出し、城主・瓜生保と協力して包囲陣を破ろうとしたが失敗し、金ヶ崎城は建武四(1337)年三月六日落城した。
 尊良親王、義貞嫡男・義顕は自害。恒良親王は捕らえられ京へ護送された。

 後醍醐天皇から託された親王と嫡男を失った義貞は同年夏に勢いを盛り返して鯖江で斯波高経を破り、越前府中と金ヶ崎城を奪還した。
 翌建武五(1338)年閏七月二日、藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かったが、越前国藤島の燈明寺畷(現:福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と遭遇し、戦闘の末戦死した。新田義貞享年三八歳。

罪状 足利高氏同様、鎌倉幕府にとって新田義貞は裏切り者である。
 しかも、高氏が土壇場まで幕府に対して忠実だったのに比して、義貞は千早城攻めから無許可の戦線離脱までしている(通常なら古今東西を問わず死罪に相当する軍令違反である)。
 もっとも、その後の行動が一貫して後醍醐天皇に忠実だった(部下の一部が義貞に対する冷遇に腹を立てて物騒な物云いをしたことはあったが)ため、「皇室への忠義」に立つなら、新田義貞の行動は、幕臣時代の冷遇を思えば幾ばくかの同情が見られなくもない。

事件後 鎌倉幕府を直接滅ぼした大功もあって、新田庄時代とは比べ物にならない厚遇を後醍醐天皇より賜った。
 しかしながら功を足利尊氏と争う形になったことから、尊氏からは「君側の奸」として討伐命令さえ要請されたが、幸い勅命は尊氏を悪人とした。

 以後、親王を託され、最期の時まで後醍醐天皇のために戦ったが、戦死の瞬間が呆気なかったこともあって、後世の評判も、武勇で足利尊氏の、知略と忠義で楠木正成の後塵を拝することとなり、戦前の皇国史観下では正成に次ぐ英雄の立場も得たが、総合的な評価はいまいちである。
 もっとも、血統は貴くとも、武力、経済力、政治力には脆弱な基盤しか持たなかった義貞が挙兵から僅か半月で鎌倉幕府を滅亡せしめたその能力は非凡であり、その後の酷評は比較された相手が悪かった、と薩摩守は考える。
 日時は不明だが、討死から程無く正二位・大納言を追贈され、明治一五(1882)年八月七日には正一位を追贈された。



長崎高資(ながさきたかすけ)
略歴 生年不詳。北条得宗家御内人にして内管領長崎高綱(通称・円喜)の嫡男に生まれた。
 尚、長崎家は北条得宗家の支族に当たるので、北条家が平家に繋がるように、正式な名乗りは平高資(たいらのたかすけ)となっている(徳川家康が「源家康」、宇喜多秀家が「豊臣秀家」と公式文書に記すようなものである)。

 文保元(1317)年頃に父・高綱から内管領の地位を受け継ぎ幕府の実権を握った。
 前年に一四歳で執権に就任した北条高時が、若年ゆえに政務能力が乏しく、闘犬や田楽に現を抜かすのをいいことに政権を握り、文保の和談正中の変等にも関与した。
 しかし、元亨二(1322)年頃に起きた奥州安東氏の内紛では、その処理に当たって当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争は激化・長期化し、解決に六年もの時間を要し、幕府の権威を低下させた(蝦夷大乱)。

 当然、こんな性格や政務振りでは高資を嫌う者も多く、得宗家の外戚であり、霜月騒動以来の没落から勢力を取り戻してきていた安達氏が対立候補となり、得宗家の人間にも高資を嫌う者が散見される様になった。


 嘉暦元(1326)年三月、執権・北条高時が無責任にも後継者も決めずに執権を辞して出家すると、高資高時の子・邦時を推さんとしたが、さすがにこの時点で二歳の邦時を執権にするのには無理があった。
 そこで邦時が成長するまでの中継ぎとして、北条支族の金沢貞顕に執権就任を要請し、承諾を得た。
 しかし、安達氏等に次期執権に推されていた北条泰家(高時弟)がこれを恥辱として出家し、多くの人々がそれに続いて出家したので、貞顕の執権就任に不満を抱く人々が多いことが露になると、泰家とその母・大方殿が貞顕を殺そうとしているという風説が流れた。
 元より高時と共に出家することを望んでいた貞顕は執権辞任・出家を申し出た。
 以前は貞顕の引退を無理やり引き止めた高資だったが、泰家を出家に追い込んだことで貞顕執権に執着していなかったこともあり、今度はあっさりそれを認め、貞顕は三月二六日に僅か一〇日の在職で辞任した。
 最終的にはやはり高資の推挙を受けた赤橋守時が最後の執権となった(嘉暦の騒動)。


 そんな高資の専横が益々世の恨みを買ったのか、元弘元(1331)年には高資の元の主人で、高資が補佐した北条高時がその排除を図ろうとしているという風説が広まり、高資によって高時側近が処罰された。高時自身は自らの関与を否定し処分を免れたが、この一件は高資の専横が、幕府内はおろか、主家である得宗家にとっても動かし難いものになっていた事を示している。

 しかしながら、元弘三(1333)年、新田義貞軍が鎌倉を攻め寄せると、君側の奸に有り勝ちな、土壇場での主君を見捨てての逃亡は見せず、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害して果てた。
 父・高綱も、嫡男・高重も最後は北条高時とともにあり、高重は幕府方最後の抵抗を示すように新田軍にかなりの痛手を与え、一矢を報いていた。

罪状 収賄政治と内管領の権威で実権を得たことをいいことに自らの権力基盤となった北条高時にすら忠実ならず、蝦夷大乱における賄賂に目が眩んだ失政で幕府の権威を失墜させ、滅亡への序章を築いた罪状は甚大である。

 この手の佞臣にありがちな、御家滅亡時の逃亡が長崎高資には無く、一族共々鎌倉幕府・北条一門に殉じた最期がまだ高資の罪状を軽減していると云えようか?

事件後 長崎高資の父・高綱、嫡男・高重も共に自害し、長崎氏は滅亡し、「事件後」はない。
 九州・長崎県の地名の元となった長崎氏が同族との説もあるが、はっきりしない。



関連人物
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
略歴 第拾頁参照。
事件との関わり 正中の変で責任を問われずに済んだ後、良く云えば諦めず、悪く云えば懲りずに倒幕に執念を燃やし続けていた。
 一時は元弘の変に敗れて隠岐に流されるも、楠木正成、皇子・護良親王、名和長年、赤松則村等の助力を得、皇統の権威を武器に足利高氏新田義貞等も従ったことで鎌倉幕府を滅ぼし、京都への帰還に成功し、光厳天皇を廃位し、皇位に復するに至った。

 自らは武器を振るってもいないし、その性格、大義名分の用い様には疑問が残るとは云え、鎌倉幕府を滅亡に導いた執念そのものは見上げたものである。

事件後 念願の鎌倉幕府滅亡と、自らの血統による皇位継承は達成したものの、倒幕に協力した貴族、御家人、寺社に対して適切な論功行賞をしたとは云い難い。
 それがために中先代の乱、経済政策の失敗の中、足利尊氏の離反を招き、偽の三種の神器を渡してまで自らの皇位にしがみついて南北朝時代を始めることとなった。

 結局京都への帰還は叶わず、最後の最後まで朝敵討滅・京都奪回を周囲に訴え続けた訳だが、院政を、両統迭立を、鎌倉幕府を、執権北条氏を、冷遇されて離反した武士達を恨み憎みながら終わった後醍醐天皇の生涯とは幸せだったと云えるのだろうか?
 決して好きな人物ではないが、もう少し謙虚さを持てばこの人物の人生はもっと光輝いていたのではないかと薩摩守には思われてならない。



吉田定房(よしださだふさ)
略歴 文永一一(1274)年に権大納言吉田経長の子に生まれた。
 父・経長が大覚寺統に仕え、亀山上皇、後宇多上皇の院政において院執権を務め、権大納言に昇っていたこともおあり、定房も早くから亀山上皇に仕え、その信任を得ていた。
 正安三(1301)年に後二条天皇が即位して皇位が大覚寺統に戻ると院評定衆及び伝奏に任ぜられ、徳治元(1306)年には後宇多上皇の使節として鎌倉に派遣されてもいた。

 後宇多上皇からは次男・尊治親王の乳父に任ぜられ、文保二(1318)年に親王が後醍醐天皇として即位すると側近として仕えた。
 同じく側近である北畠親、万里小路宣が「」の字を持つことから、三人合わせて「後の三房」と呼ばれた。
 そして後醍醐天皇からも皇子・尊良親王の乳父を引き続き勤めるよう命ぜられた。
 後宇多法皇、後醍醐天皇定房の自宅に行幸し、後宇多法皇が院政を停止して後醍醐天皇が親政を行う際には鎌倉幕府に出向いて幕府の了承を得るという重任を託されていことからも並の信頼ではなかったことが伺える。


 三年後の正中元(1324)年に正中の変にて倒幕密議が発覚すると、定房後醍醐天皇の使者として鎌倉に下向して、幕府に密議における後醍醐天皇の関与を否定した。
 一方で、ただ庇うだけではなく、これに懲りずに―少なくともこの時点では―無謀な倒幕密議を進めんとする後醍醐天皇を諌めもした。

 元徳二(1330年六月二一日に後醍醐天皇から意見を求められた際には定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出。尚も倒幕を諦めない後醍醐天皇を見かね、定房は元弘元(1331)年の元弘の変で、敢えて倒幕密議を六波羅探題に密告し、戦の中に後醍醐天皇が殺されるような事態だけは避けんとした。

 結果、密告を知った後醍醐天皇が笠置山で挙兵するも、定房の懸念通りに倒幕は見事に失敗。後醍醐天皇は隠岐に流された。
 定房は持明院統の後伏見上皇に請われて院評定衆に加わったが、後醍醐天皇への忠義は失っておらず、元弘三(1333)年三月には鎌倉幕府に対して各地で発生している倒幕の動きを鎮める為に後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を提出した。

 その二ヶ月後に鎌倉幕府が滅亡
 天皇位に返り咲いた後醍醐天皇建武の新政を行い、定房に内大臣、民部卿、恩賞方、雑訴決断所頭人等の要職を歴任させた(←後醍醐天皇の性格を考えると、密告が恨まれておらず、後醍醐天皇への定房の想いが絶対的に信頼されている様相は特筆に価する)。

 しかしながら延元元(1336)年、足利尊氏によって建武政権は倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れ、定房も随行。半年余りも経った延元二(1337)年七月、北朝では吉野の南朝へ出奔した定房を民部卿から解任した。
 そしてそれから半年後、延元三(1338)年一月二三日、吉野にて逝去した。吉田定房享年六五歳。
 側近や武士を捨て駒のようにしか見ていない言動の目立つ後醍醐天皇だったが、吉田定房の死を悼んで詠んだ歌が『新葉和歌集』に採録されている。

事件との関わり 正中の変以来、鎌倉幕府が警戒を強めている中にも関わらず、無謀な倒幕計画に執着する後醍醐天皇を幕府の追討から守る為に、倒幕計画を敢えて幕府に密告という手段を取った吉田定房だったが、通常は語感的にも評判の良くない「密告」がこの事件に関しては悪評を得ていない。

 変後、光厳天皇に出仕したは云え、後醍醐天皇の帰京を幕府に促し、幕府滅亡後に多大な恩賞と官位を改めて賜り、内大臣にまでなったことを見ても定房後醍醐天皇への忠義は明らかである。

事件後 後醍醐天皇が吉野に逃れた後、光厳上皇との縁から北朝方に残る道も吉田定房にはあったが、結局定房は一時的な別離はあっても後醍醐天皇の側近としてその生涯を終えた(同じ「三房」でも万里小路宣房は最後には北朝方についた)。



名和長年(なわながとし)
略歴 生年不詳。伯耆国名和(現:鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主・名和行高の子に生まれた。
 官職が伯耆守(ほう)であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(くすの)正成、結城(ゆう)親光、千種(ちく)忠顕と合わせて「三木一草」と称された、とのことで、丸で満州国発足時の「二キ三スケ」みたいだが………何か苦しくない?。

 大海運業者でもあり、水上の悪党でもあった名和長年は村上源氏雅兼流を自称していたが、元弘元(1331)年の元弘の変で鎌倉幕府の倒幕計画が露見して捕えられ、隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、元弘三(1333)年に島を脱出するのを手伝い、これを船上山に迎え、倒幕運動に加わった。


 鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まると、後醍醐天皇より、楠木正成等とともに天皇近侍を命ぜられ、記録所、武者所、恩賞方、雑訴決断所などの役人を兼任し、帆掛け船の家紋を与えられた。
 また、名和氏の商業に勤しんで来た経緯を買われ、京都左京の市を管轄する機関の長である東市正に任じられた。


 建武二(1335)年に西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政権転覆を企んでいた事が発覚して逮捕されると、公宗を出雲国へ流刑する途中に処刑した。
 倒幕運動において六波羅探題を滅ぼした足利尊氏との仲は良くなく対立し、護良親王が尊氏の讒言を受けた際には後醍醐天皇の命を受けて、結城親光とともに親王を捕縛した。

 足利尊氏が、信濃での北条時行蜂起・鎌倉一時占拠(中先代の乱)を受けて、勅許も得ずに討伐に向かって建武新政から離脱すると、楠木正成、新田義貞等と共に尊氏と戦った。
 しかし、延元元(1336)年六月三〇日、湊川の戦いに勝利して京都に入った尊氏に敗れて討死した。討死にした場所は、京都大宮とも、三条猪熊とも云われている。
 名和長年の戦死により、後醍醐天皇は頼みとした「三木一草」をすべて失い、以後、南朝方が優位に立つ事はなかった。

事件との関わり 名和長年後醍醐天皇の隠岐脱出・船上山立て篭もりを手引きするきっかけとなったのは、天皇側近の千種忠顕が隠岐から名和湊に辿りついた際に地元の住人に頼りになる人物を訪ねたことに端を発している。

 五月二三日(前日に鎌倉幕府滅亡)に船上山を出た後醍醐天皇を守護して入京した長年は京都奪還に尽力した功で東市正に、息子の義高も検非違使に任ぜられた。

事件後 建武の新政が結果として失政となり、後醍醐天皇への不満を抱く者が増える中、名和長年後醍醐天皇のために西園寺公宗や足利尊氏とも戦い続けた。
 最後の戦においては、出陣途中に京童の「三木一草と呼ばれて天皇の恩を受けた三人(楠木正成、千種忠顕、結城親光)は戦死したのに名和長年だけがまだ生き残っている」との声を聞き、「今日の戦いに負けたら死のう」と独り言を云って出陣したと云う。

 楠木正成をも自害に追い込んで勢い付く足利勢を前に、名和軍・新田軍も苦戦を強いられ、長年は敵の重囲に陥り、得意の弓で奮戦し、数百騎の敵を撃ち落とす大奮戦の果てに九州・松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。
 二年後の延元三(1338)年五月二二日、奇しくも鎌倉幕府滅亡から丁度五年に当たる日に息子・義高も泉州堺で討ち死に。残された一族は九州に落ち延び、肥後に土着した。

 明治一九(1886)年に正三位、昭和一〇(1935)年には従一位を追贈された。また明治一七(1884)年、長年の末裔で、福岡県名和神社宮司であった名和長恭が男爵を授けられた。



判決 被告・足利高氏新田義貞は鎌倉幕府に対する不忠により一族郎党全員斬首とするが、原告となる北条家が滅亡しているので、刑の執行を無期猶予とする。
 また、同じく被告・長崎高資は幕政不行き届きで切腹を命ずるべきところなれど、鎌倉幕府の滅亡と共に切腹済み故に被疑者死亡による書類送検に留める。

 一つの時代が終わり、政権の主が移り、それは同時に権威・大儀の主が移ったことも意味し、先日の忠臣も今日の逆臣に、先日の鎌倉幕府に対する賊軍も今日の朝廷に対する官軍となる………まさに諸行無常・諸法無我である。
 鎌倉幕府成立より多くの御家人一族の血を流し、時には同族や異国兵の血も流してきた。
 当然その渦中において北条得宗家に味方した者も敵対した者も、別の云い方をすれば、北条得宗家を味方につけられた者もつけられなかった者も生き残らんがために多くの血を流さざるを得なかった。

 そして一つの時代が終わる常として、滅びる者があり、それに殉じる者達は次々と命を落とし、それを見限った者達は次々と離反する、という「櫛の歯現象」が起きる。
 それぞれに信念と云い分があって戦い続けた往時の人々の生き方を薩摩守は否定したくはないが、責める責めないは別にしても、「誰が誰を裏切ったか」の問題は問題として、目を背けて旧きをあざ笑い、新しきを手放しで礼賛する歴史の片手落ちは避けたい、と考える。
 須らく、歴史を学ぶ意義に「温故知新」を忘れない為にも。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新