6 見出し難い現実の「良心」

「生まれついての悪」はあるか?
 『ジョジョの奇妙な冒険』第1部にて、シリーズをまたいでの強敵ディオ・ブランドーと初めて相対したスピードワゴンは、彼が匂いで人の善悪を見極められると自己紹介した後に、ディオに対して、

「こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッ〜ッ!!こんな悪には出会ったことがねぇほどになァ〜ッ環境で悪人になっただと?ちがうねッ!!」

 と痛罵し、

「こいつは生まれついての悪だッ!」

 と断じた。

『ジョジョの奇妙な冒険』は第4部までしか読んでいないので、後に娘まで登場し、続編漫画・派生作品も多い同作におけるディオの人となりを安直に断じることは出来ないが、第3部のラスボスとして太陽光によって消滅するまでの言動・思考を見た限りでは「良心の欠片」もない、極悪人としか云いようのない人物だった。

 このディオを断じたスピードワゴンの「生まれついての悪」と云う台詞は少年ジャンプ連載で見た時以来、30年以上も道場主の脳裏に疑問を投げ掛けている。

 「生まれついての悪」は本当に存在するのか?」

 と。
 人間性善説も、人間性悪説も、シルバータイタンは受け入れかねていて、世の多くの人々同様、人間と云う者を、環境次第で白にも黒にも染まる存在として認識しいる。だが、どうあっても矯正不可能としか思えない凶悪な者を見聞きした際には、「生まれついての悪」と云う単語が脳裏を過ることが度々ある。
 シルバータイタンは死刑存置論者でもあるから、罪状が凶悪極まりない者に対してはその命を絶つことに異を唱えないこともあるが、逆を云えばどんなに心根が凶悪であっても実際に悪事を行っていない者を罰してはいけないと思うし、本音を云えば「生まれついての悪」を認めたくはない。
 まあ、「生まれついての悪」を定めるにはそれ以前に基準となる「事の善悪」を定めなくてはならないから、世のすべての人々が認める「正義」を定義出来ない以上、定義上は「生まれついての悪」は存在し得ない訳だが、やはり疑問は尽きない。

 一方、世の凶悪犯罪者を巡る報道を見た際、昭和の時代には凶悪犯の家族もある程度世に曝され、「子が子なら、親も親だぜ!」、「この親にして、この子あり、だな!」といった不快の念を抱いたことが道場主の記憶にもある。
 だが、勿論すべてがそうではない。凶悪犯本人以外の家族は極めて真っ当な人間だったり、普通の人間だったりした例は決して少なくない。それゆえ、環境が悪いとも思えないのに凶悪犯罪をしでかした上に罪悪感を欠片も抱いていない、世に云う「サイコパス」を見ると、「なぜこんな奴が生まれた?」と云う疑問を抱くとともに、「生まれついての悪」と云う単語を思い浮かべてしまうことがるのである。

 だが、様々な思考を経て尚、やはり「生まれついての悪」は信じたくない。勿論、感情論なんだけどね(苦笑)。
不完全故の「良心」と「邪心」
 少し前述したが、万人が納得する「正義」は現時点で確立されていない。個人的思想の中において「完全な正義を確立した!」と思っている(思い込んでいる?)者もいるとは思われるが、様々な価値観が混在し、争いの絶えない世において「完全な正義」を提議しても、必ず方々から反論され、叩かれ、揚げ足を取られる。
 絶望的なことを書けば、人間の不完全さ故に個人の行動範囲においてすら人間は自己を律し切れず、自分で決めたルールにさえ従えない無力感と罪悪感に苦しむことがあり、善悪の定義を放棄する者も少なくない。
 中には、下手に正義に生きることで失敗、落ち度、至らなさを論われることを厭うて「悪」を自称する者までいる。

 だが、人間は悪にもなかなか徹することが出来ない。そこが人間の人間たる所以で、種としての伸びしろに期待が持てる点でもある。
 考えてみれば、人間が最初から完全無欠の存在で、最初から一切のルールを踏み外さなければ「良心」も「邪心」もなく、罪悪感と云う言葉も存在しないだろう。
 幼少の頃、いじめに遭った道場主は、「何でこんな酷いことをする奴が存在するんだ?」、「何故人間には邪心があるんだ?」と激しく疑問に思ったが、仮に良心しかなく、万人がそれに寸分違わず行動するのであれば、確かに世の中は平和で安全かも知れないが、果たしてそれが「人間」と云えるのだろうか?
 それはもはや「出来の良いプログラム」としか、シルバータイタンには思えない。

 人間は不完全故に「良心」と「邪心」の狭間に苦脳し、しかし、それ故に成長もするし、努力し、楽しむことに意義の深い人生が送れると考える次第である。



大事なのは「数値」よりも「ベクトル」
 実際に、善悪はなかなか測れるものでは無い。同じ考えや行動でも、時代や状況や世の価値観が異なれば褒められもするし、非難もされる。そしてその度合いも千差万別である。
 素晴らしい行動を行っても大して褒められなかったり、逆に批判されたりすることもあれば、些細な悪事を針小棒大に罵られたり、逆に称賛されたりすることもある。

 それゆえに、シルバータイタンは数値よりもベクトルに注目したい。
 自らの善悪が質量的に定義出来ないのであれば、せめてその地点から善の方向に向かうことを心掛けようと思うのである。同時に悪のベクトルに向かわない、或いは悪化に歯止めを掛けることも大切で、その為には「罪悪感」と云う、決してその場では快く思えない感覚もまた大切と考える。

 仮面ライダーシリーズを初めとする特撮作品は基本、勧善懲悪ものである。「悪」が存在しなければ「善」であるヒーローの出番はなくなる。それゆえ「悪」の存在は作品的に必要不可欠で、視聴者はこの「悪」に(基本的には)怒りや憎悪を抱く。
 だが、悪の中にも世間一般では悪とされながらも彼等の出自・価値観・生き様・理想の中では善だったり、追い込まれた状況や立場から悪と分かっていてもそれを貫かなければならなかったりする。それ故、多くの悪は改心することなく、悪として滅びる。

 その展開に快哉は叫びつつも、悪が時として垣間見せる罪悪感、良心の呵責、善へのベクトルは、一人の人間としてシルバータイタンは見過ごしたくない。
 たとえ、それが滅ぼすしかない極悪であったとしても、である。


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令和四(2022)年四月一日 最終更新