朝鮮側の勇将

 おおよそ、侵略などと言うものは成功の可能性の低い愚行である。
 言葉も文化も風習も異なる民族の支配化に入ることをみすみす容認する民族は皆無と言っていい(「日韓併合は韓国側が望んで日本の保護下に入ったのだ。」とホザく阿呆な歴史家(轢死家?)には顔を洗って出直してくることを勧める。どこの国でも併合の際には「先方が望んだ。」という体裁を取るもので、「禅譲」の多くが「簒奪」であることを見れば明らかである)。
 それゆえに余程の悪政を布いていない限り官民一体の迎撃を受けるし、その支配も長続きしない。組織的抵抗を力で押さえることは出来ても半永久的に一人一人が抵抗する要素を持った社会を押さえるのは極めて困難である。その例は古今東西枚挙に暇がなく、この朝鮮出兵も例外ではなかった。
 日本軍は一〇〇年以上戦い続けてきた戦慣れの軍隊が二〇〇年の泰平に慣れた、腐敗悪政の国家に突け込んだために最初は目覚しい快進撃に成功したが、朝鮮側も、軍隊が、民衆が、僧侶が明の援軍と供に反撃に転じた。
 質量供に圧倒的不利な中、国土を守るために戦った将兵は日本では余り有名ではないがその尽力は誠に涙ぐましく、愛国者の名に相応しい。がその一方で個人としても軍人としても好ましからざる人物がいたのも確かである。ここでは国土防衛に尽力した将の内、今も朝鮮・韓国で名高い勇将達をピックアップし、その活躍をメインにそれにまつわる日朝の人々の動きとともに見ていきたい。



 李舜臣
 郭再佑
 惟政
 権慄
 高敬命
 その他の諸将



李舜臣(イ・スンシン、り・しゅんしん、이순신)
略歴 おおよそ、戦国史マニアで彼の名を知らないものはモグリとされるのは勿論、朝鮮人・韓国人で彼の名を知らない、という者は非国民扱いされるといってもあながち過言でないくらい有名な男である。
 道場主など一五歳になるまでキムチが食べられなかった為に身内から非国民扱いされたのだから(←多少誇張しています)。
 勿論その人気は今も朝鮮半島で絶大なものがあり、水兵の世界に生きる人々の中にも彼を尊敬する者は多く、日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させた東郷平八郎も彼を尊敬していた。当時の日本人(正確には日本政界)が韓国(大韓帝国)を保護国の対象とし、そこに住む人民の心の痛みを顧みないほどに軽く見ていたことを考えれば、軍人と軍人の世界とはいえこれはなかなか特筆に価しよう。

 はっきり言って李舜臣は「悲劇の英雄」である。勿論それが彼の名声を高めているのはやはり日本も朝鮮・韓国も中国も同じアジアの人間である。

 李氏朝鮮の宣祖九(1576)年に三二歳で科挙の武科試験(この時落馬で骨折しながらも柳の木皮で折れた足を縛る不屈の精神で試験を続行したエピソードを持つ)に合格して軍人の仲間入りした舜臣だが、これは当時としては遅咲きらしい。順調と言えないスタートを切った舜臣はその後妬みや濡れ衣のために相次ぐ左遷と、親友にして旧友にして左議政(今日の首相)である柳成龍(ユ・ソンヨン、りゅう・せいりゅう)の引き立てによる返り咲きとを繰り返した。
 舜臣が水軍を率いて対日戦線に従軍したのは四八歳のときだが、その五年前にも彼は外敵と戦っていた(鹿屯(ノトン)島の戦い)。
 戦った相手は後に中国で覇を唱えた清を建国した女真族である。この戦いにも彼の活躍と悲劇が見られる。この戦いにて彼は左足の踵に矢を受けながらそのまま戦い続けて敵を撃退するというギリシャ神話のアキレスも吃驚の奮闘をした(笑)。そして上官の李鎰(イ・イル、り・いつ)に兵力増強を何度も要請したが無視された。この時既に彼は妬まれていた様である。

 援軍の来ない鹿屯島に女真族の一派である兀良哈(オランケ)の猛攻を受けた舜臣は敵将を討ち、撃退した上に捕虜となっていた味方を数多く救出したが、馬鹿にならない損害を蒙った。
 李鎰はその責を舜臣に転嫁して斬罪に処そうとしたが、舜臣は李鎰の非と自らの功績を主張して刑に服さなかった。
 舜臣は斬刑こそ免れたものの、一兵卒に落とされた。当時の一兵卒は白衣(当時の日常服)が軍装だったので、これを「白衣従軍」という。そして舜臣の白衣従軍の屈辱はこれで終らなかった。

 しかし捨てる神あれば拾う神ありである。秀吉軍侵攻の前年に朝鮮では日本の侵略がないとする意見が大勢を占めながらも申し訳程度の防備増強が為され、日本に近い海域に有能な武将を配置した。この時前述の柳成龍が全羅道水域の守備に舜臣を全羅左水使として抜擢した(持つべきものは友達である)。この抜擢は七階級も特進した大昇進であり、当然の様に群臣から批判の声が上がったが、舜臣の力量を正しく評価していた宣祖王(第一四代李氏朝鮮王)がその声を沈めた。

 任地に着いた舜臣は即座に兵器と軍紀の実情調査を行い、その整備を怠ることなくやがて日本軍の侵攻を迎えるのであった。

文禄 約二〇〇年の泰平に慣れた上に、政府上層部の大半が「日本は侵略してこない」とたかを括っていて、更には両班(ヤンバン:李氏朝鮮の貴族で、特権階級)の腐敗体質から民衆の支持を失っていた朝鮮は日本軍上陸(天正二〇(1592)年四月一二日)から二〇日目で首都開城を蹂躙され、七十数日後には二人の王子が捕らえられ、先鋒加藤清正軍が兀良哈に達するほどの不甲斐なさだった。
 そんな惨めな陸上戦の一方で李舜臣率いる水軍は上陸の二五日目に慶尚道玉浦(オポ)・合浦で藤堂高虎率いる日本水軍を撃破し、開戦以来最初の勝利をもたらした。ちなみに同じ水軍でも慶尚右水使元均(ウォン・ギュン、げん・きん)は戦わずして逃げいていた。
 朝鮮軍をなめ切っていた日本軍の間にあっても「李舜臣」の名は早くも侮り難い敵将として知り渡り、李氏朝廷はこの戦功に嘉善太夫(従二品)の位階を授けた。
 物量に勝る豊臣軍はその後も水軍を建て直してはかかってきたが、舜臣はゲリラ戦で日本水軍を撹乱する。周知の通り、日本軍の補給は大打撃を受け、陸上戦の快進撃にも歯止めがかかった。
 連戦連勝と全羅右水使にしてよき後輩である李億祺(イ・オキ、り・おくき)の援軍に気勢を上げた水軍を率いた舜臣は元均・李億祺とともに天正二〇(1592)年五月二九日に唐項浦(タンハンポ)沖に急襲を敢行し、豊臣水軍の軍船二六艘を沈める完全勝利を得た。
 またこの戦いは有名な亀甲船(クプソン)のデビュー戦でもあった。当時の現物が一つも残っていないのでいまだに謎の多い亀甲船は元々兀良哈対策に舜臣が考案した者らしい。
 大敗を喫した豊臣軍は見乃梁(キョンネリヤン)海上に軍を集結させた。ここは暗礁が多く、大船を動かし辛い海域で、点と線の戦いに慣れていても面の戦いに慣れない日本軍は地形を頼りとした。
 だが舜臣は七月八日に数艘の板屋戦船で巧みな挑発を行い、脇坂安治の水軍を誘き出して突出した脇坂水軍を「鶴翼の陣」で包囲して撃滅。脇坂は僅か一三艘で釜山方面に敗走した。この完勝により舜臣は正憲太夫(正ニ品)を授かった。翌日には加藤嘉明・九鬼喜隆といった豊臣水軍生え抜きの二将も敗れた。
 この間陸上戦では朝鮮軍は苦戦を続け、朝鮮側では翌年八月に李舜臣を忠清道・全羅道・慶尚道の三道水軍統制使に任じて水軍を託すと、一方では和平工作を進めた。ここに文禄の役は一時休戦の形で終結した。

慶長 休戦中、李舜臣を恐れた豊臣軍は対馬の人・要時羅をスパイとして送り込み、加藤清正・小西行長の再来襲の偽情報を流すが、これを見破った舜臣は出撃命令に応じなかった。
 すると李朝朝廷内では待っていたように舜臣を妬む群臣達により命令違反として彼の位階を剥奪して、二度目の白衣従軍を命じた。
 慶長二(1597)年二月の事で、護送車で漢城に追放される彼を民衆は嘆き哀しんで何度も車の前を塞いだと云う。
 五ヶ月後、舜臣抜きで戦った朝鮮水軍は巨済島沖でそれまでの快勝が嘘のような大敗を喫し、李億祺将軍は自らの最期を悟ると入水し、元均は逃走中に豊臣軍に斬り殺された。
 尚、この戦いにおいて道場主が自らの分身のモデルとした塙団右衛門が敵船拿捕の手柄を挙げ、彼の主君加藤嘉明は内股に矢を受けたり、海中に落ちたりしながらも先頭に立って抜刀して奮戦した事をえこひいきとして(苦笑)付け加えたい。
 翌月、朝鮮王朝は大慌てで舜臣を三道水軍統制使に再任した。白衣従軍中に老母を病で失い、末子が戦死し、多くの戦友(例:李億祺)を失い踏んだり蹴ったりの彼に残されていたのは僅か一二艘の軍船で、しかも豊臣水軍の再来は間近に迫っていた。
 が、漢(おとこ)の真価は逆境にどうあるかにある!九月一六日に全羅道鳴梁(ミョンリャン)に一三三艘の敵船を迎えた舜臣は潮の干満を利用して豊臣水軍を翻弄し、敵船三一艘を沈めて西進を阻んだ。一〇倍の敵を迎え撃って、自軍の三倍近い敵船を沈めた勝利を快勝と言わずしてなんと言おうか!である。

 約一年二ヶ月を経た慶長三(1598)年一一月一八日に豊臣水軍は鳴梁戦の復讐戦とも言うべき戦いを露梁(ノリャン)にて五〇〇艘の軍船を率いて挑んできた。
 朝鮮・明の連合軍は二〇〇艘で迎撃し、これを撃破した。既に三ヶ月前に豊臣秀吉が没しており、ここに最後の海戦も終結し、李舜臣は、朝鮮軍は国土防衛に成功した。しかしながらこの最後の戦いにおいて天運彼に味方せず、舜臣は流れ弾に胸板を貫かれ、致命傷を負った。
 舜臣は盾でもって自分の周囲を囲わせ、駆け寄る甥(兄の子)李莞(イワン)に「戦闘中だ!俺の死を知らせるな!」と言い残して、既に敗走を始めた日本水軍を見ながら息を引き取った。李舜臣享年五四歳、最期の最期まで国防を考えて迎えた激死だった。
 供に戦った明の水軍提督・陳璘(ちんりん)は粗暴な性格で知られ、柳成龍は舜臣と陳璘の衝突を懸念するほどだったが、(舜臣がうまく彼に譲って衝突を避けていた事もあったが)舜臣の死を知った陳璘は三度船上に座り込んで慟哭したと云う。

戦後 李舜臣の死の七年後、民衆の手によって早くも廟が建てられ、舜臣の画像が祭られた。
 前述の東郷平八郎を含め多くの水軍の世界に生きるものが彼に敬意を表し、日本の中学校の歴史教科書にすらその名を現し、李氏朝鮮国王の名を一人として知らない人間でも李舜臣の名は知る者は多い。
 現在釜山市の龍頭山公園に建つ李舜臣像は日本への窓口とも言える彼の地にて日本を睨む方角で建てられている。話は逸れるが、中国三国志の有名軍師・諸葛孔明はその死に際して漢中の定軍山に自らを葬るように遺言し、蜀皇帝劉禅は「孔明は死して尚、魏を見張るつもりか…。」と言って、その遺言に従った(「供え物不要」の遺言には従わなかったが)。諸葛孔明と李舜臣は外敵と戦い、国を守った士として、死後も外敵を監視する役を担った(または担わされた)わけだが、両者の諡号(しごう:死後に故人の功績に対して贈る名前)がとも に「忠武」であるのは果たして偶然だろうか?孔明の事を知る後世の李氏朝鮮王朝がそれにあやかって救国の英雄・李舜臣に送ったと薩摩守は見ているが如何なものだろうか?
 ともあれ、その功績を称える声が朝鮮半島において止むことはない、恐らくは半永久的に……。

大韓民国ソウル特別市鍾路区世宗路に立つ李舜臣像とその前で合掌する薩摩守世宗文化会館に置かれている亀甲船の模型



郭再佑(クァ・チェウ、かく・さいゆう、곽재우)
略歴 李舜臣が朝鮮水軍の代表将帥なら郭再佑は義兵軍の代表将帥であった(←正式にそういう役職に就いた訳ではない)。
 注目すべきは彼が生粋の軍人ではなく、文人だったという事である。泰平に慣れて、戦に臆し、逃亡兵が相次ぐ中、敢えて目立つ紅衣を纏ってゲリラ戦でもって豊臣軍を苦しめ、義兵を勇気付けた再佑は「更衣(ホンウイ)将軍」と呼ばれた。

 豊臣軍が上陸した天正二〇(1592)年、再佑は故郷の慶尚道の宣寧(ウイリョン)で自然と供に暮らす四一歳の中年だった。三四歳の時に科挙の文科乙科に合格したものの、妥協を苦手とした性格からその答案が王の機嫌を損じた為に無役だった。そんな中、文人の彼が国家自体泰平に慣れた状況下で戦の経験を持つ筈もなかった。
 良くも悪くも中国文化を世界一継承した朝鮮人の世界では中国同様に「武」よりも「文」が尊ばれた(勿論平時のことであり、乱世では実質的には「武」が尊ばれる)。そんな社会に生きた文人が武人以上の戦術・士気・連携で「武」に邁進したのは偏に郷土愛だった。

文禄 多くの義兵の将に当てはまる事だが、豊臣秀吉が侵略してこなければ平和の内にその名は歴史に埋没したのではないかと思われる。その中にあって郭再佑はそれまでの無役文人が仮面であったかのような動きを見せた。
 再佑が過ごしていた慶尚道は日本から最も近く、必然的に真っ先に日本軍の猛攻を受けた。
 天正二〇(1592)年四月一二日に釜山での最初の豊臣軍上陸から一二日後に、日本軍は星州(ソンジュ)、その三日後には北西隣の忠清道に至ったが、この半月の間豊臣軍は無人の野を行くが如くの進軍を見せ、再佑の地元である宣寧は釜山―星州を結ぶラインを西に外れたものの、さほど離れてもいない金海(キメ)・昌原(チャンウォン)・昌寧(チャンニョン)・玄風(ヒョンブン)が蹂躙された。
 多くの民衆に犠牲が出たその惨状に再佑は御先祖の墓前で慟哭して決起を誓うや、家中の有り金をはたいて十数人の下人と壮士の沈大承(シ・テスン、ちん・たいしょう)、朴弼(パ・ピ、ぼく・ひつ)、権鸞(クォン・ナン、ごん・らん)が加わって義兵が編成された。

   再佑を初め、全員が戦の未経験者で、武装は武器が行き届かずに鎌を持つ者もおり、敢えて紅衣をまとった再佑を除いて白衣従軍で白い鉢巻を締めた状態だったが、彼等の装備は武器や鎧ではなく、土地と家族を守るための高い戦意だった。
 日本軍に装備、技量・数供に大きく劣る義兵にとって頼りとなる戦法は敵も味方も意表を突く、奇襲戦法であった。再佑は機略戦略もそうだが、自身のいでたちからして敵味方の意表を突くものだった。
 紅い絹布の軍服に、両翼に雉の羽を飾った白金の兜を被り、白馬に乗った彼はその大胆さは、いい意味で味方の度肝を抜き、民兵の士気を盛り上げた。
 そんな民兵は再佑を「天降紅衣将軍(チョンガンホンイチャングン)」と称した。

 具体的な戦略としては、五月下旬に雨にぬかるんだ道を晋州(チンジュ)城へ向かう日本軍の迎撃に出た。
 再佑軍は日本軍がぬかるんだ道に足を取られない為に立てた標識を取っ払って伏兵し、立ち往生する豊臣軍にド派手な再佑率いる義兵が奇襲し、緒戦に大勝利を収め宣寧を死守した。
 再佑率いる義兵の勝利は忠清道の趙憲(チョン・ホン、ちょう・けん)・霊圭(ヨン・キュ、れい・けい)、全羅道の高敬命(コ・ギョンミョン、こう・けいめい)、、慶尚道では鄭仁弘(チョン・インホン、てい・じんこう)、京畿道でも洪季男(ホン・キョナ、こう・きだん)、他にも多数の義兵将が立ち上がった。朝鮮全土での義兵達の殆どが再佑をきっかけとして立ち上がったと言って良かった。
 更に義兵の活躍は、秀吉軍に惨敗を喫して無能を露呈する形になってしまった官軍のプライドを刺激し、その正常化にも貢献した。その間接的功績は李舜臣に勝るとも劣らぬものがあった。

 再佑の活躍は更に続いた。
 ゲリラ、奇襲、夜襲、影武者(約一〇人いたらしい)、と寡兵が用い得る戦略の限りを尽くし、豊臣軍を悩ませた。再佑は「敵が戦慣れした大軍であるのに対し、自軍が烏合の衆で、逃亡兵の多い(1593年6月の第2次晋州城の戦い軍議上での言葉)」のも重々承知していた。
 専業の兵士でもなく、数々の不利を背負い込み、それでも国土を守らなくてはならない現状をよく把握し、地の利を得た郷土を軽々しく離れず、自軍のできることを徹底したのであった。
 そしてこの第ニ次晋州城の戦いは激戦となった。
 第一次で完勝したのが祟って、豊臣軍はその撒き返しと威信をかけて総力を結集して攻め込んで来た。この時の再佑達の活躍は不明だが、朝鮮軍は完敗し、晋州城は落城した。
 再佑軍は決して強かったわけではなかった。しかし己を知り敵を知る、という孫子以来の兵法の原則に忠実だったことが弱い筈の再佑軍に予想外の活躍をもたらしたのだった。

 一方で李舜臣に劣らぬ活躍をした再佑にも腐った朝鮮官僚の弊害が襲いかかった。
 豊臣軍に敗北を重ね、再佑の活躍を妬ましく思った慶尚右監司・ (キ・ス、きん・しゅ)は義兵に反逆の疑いがあると朝廷に奏上。証拠として糧秣に窮した再佑が独断で国庫を開いた事を挙げた。
 が、ここで興味深い救いの手が伸びた。
 再佑の危機を救ったのは慶尚右道招諭使・金誠一(キ・ソンイ、きん・せいいつ)であった。
 彼も初めは腐っていた。彼はかつて朝鮮通信使の副使として来日しており、その時に正使が日本の侵略に備えるべし,と奏上したのに対し、彼は日本の侵略はない、といい加減な報告をして国王の機嫌を取り結び、戦初の惨敗の一因を為した。だが、処刑されるところを柳成龍のとりなしで降格で済んだ彼は心を入れ替えて再佑を初めとする義兵達の支援を積極的に行い、再佑の間で和解に務め、再佑の反逆の疑いは無実である、と上奏し続けた。
 ある意味「前科」のあった彼の奏上は下手をすれば己の寿命を縮める薮蛇にもなりかねない訳だから、それを省みなかった所に誠一の改心ぶりがうかがえて興味深いし、またはそれほどに一人の男の心を動かすほど再佑の愛国振りは徹底していたとも言えようか。

慶長 日明の交渉が決裂し、慶長の役が始まった。ここでも義兵の将として、また官軍の将としても活躍した郭再佑だったが、彼が通り一辺倒の愛国者でない事を示す一件が起きた。
 それは継母・許(フォ、きょ)氏の訃報だった。彼は愛国者であったことに間違いはないが、それ以上に彼は親孝行者であり、頑固者だった。
 昌寧の火旺山(ファワンサン)の防禦使に任じられ、加藤清正と激戦を繰り広げていた最中に訃報に接した再佑「母の喪に服する。」と称して三年間軍役を離れてしまったのであった!
   朝鮮人・韓国人は良くも悪くも儒教思想が強く、孝行への概念が大変に強く、融通が効かない面も多い。目上の人の前で煙草を吸わない事や冠婚葬祭を欠かさないのはいいとしても、親より先に死んだ子の墓を作らなかったり、血統を重視し過ぎて婚姻等に数々の理不尽な制約を課したり、と近年徐々に緩和されつつあるが、その功罪はともに大きい。
 この時の再佑の行動も、忠よりも孝を優先する余りの行動だった。
 これに対して王はより高い官位を示して軍務への復帰を要請したが、再佑は頑にこれを拒んで喪に服し続けた。
 「生前孝養を尽くせなかったので三年の喪に服するのはこれ人の道である。」というのが彼の言い分だった。そしてその喪中に豊臣秀吉の死をもって、日本との戦いは終ったのだった。

 軍隊の常識からすると軍務放棄は死罪ものである。しかも再佑のそれは思い切り私事によるものだった。
 しかし彼が罪に問われた形跡はない。偏に朝鮮人・韓国人が孝を重んじる民族だったからだろうか。

戦後 郭再佑は継母の喪が明けても軍に戻らなかった。
 日本軍は既に引き上げており、再佑はその後役職にも就こうとはしなかった。文禄二(1593)年には星州牧使(ソンジュモサ)兼助防将(チェバンジャン)で正三品の位についた男がである。
 さながら戦前の生活に戻ったかのようで、戦場での派手な姿は一時の幻影だったかのようであった。
 再佑は国と郷土を愛しつつ、出世には関心がなかったのか、以下の詩を残している。

 「栄華を辞し 禄を捨てて雲山に臥せば憂いを忘れ 自ずから身体は閑なり 古より神仙は無いと言うが わが心に悟開けばそこに在り」

 そんな郭再佑には「忠翼」の諡号が贈られている。




惟政(ユ・ジョン、い・せい、유정)
略歴 約二〇〇年の泰平に慣れた李氏朝鮮軍は戦慣れした日本軍のために緒戦では戦にならない敗戦・潰走を重ねた。朝鮮軍が日本の侵略を撃退し得た要因は数多いが、朝鮮軍の奮闘を挙げるなら、水軍と義兵がその二大双璧であった。
 そして様々な義兵がある中、僧兵を率いて奮闘した事で異彩を放つのがこの惟政であった。
 詳細はこれから語ることになるが、彼は根っからの僧侶だったことをいの一番に述べたい。戦前・戦中・戦後を通じて。
 話は逸れるが、朝鮮半島では高麗時代が仏教の最盛期で、それ以外の時代では儒教が主流と言って良かった(勿論時代によって多少の差異はあるが)。青磁・世界初の金属活字と並んで仏教文化は高麗史を通して世界に誇る隆盛を極めたが、李氏朝鮮の時代に入ると朝廷は廃仏興儒政策を進め、前朝では貴族扱いの僧侶が賎民階級に落とされ、ひどく冷遇されていた。
 李氏朝鮮の中宗三(1544)年生まれの惟政は、秀吉軍侵攻の約二年半前の天正一七(1589)年一〇月、五六歳の時に鄭汝立(チョン・ヨリ、てい・じょりつ)の起こした己丑獄事事変に巻き込まれて無実の罪で投獄生活を送り、獄中の囚人達の精神的な支えとなっていた。
 やがて無実であることが証明されて惟政は釈放された。彼の釈放に尽力したのは仏教に変わって厚遇されていた近隣の儒学徒であったことは興味深い。そしてそのまま金剛山(クカンサン)で修業に励む惟政だったが、秀吉軍の侵略はまさにその時に始まったのだった。

文禄 快進撃を続ける豊臣軍が村々を襲い、非戦闘員達をも刃にかける中、惟政の元に朝廷から彼の師・休静(ヒュ・ジョン、きゅう・せい 西山大師とも呼ばれる)の檄文が届いた。
 檄文を読んだ惟政は義僧兵を募って休静のいる順安(ヌナン)に急行したが、彼は単純に師と供に戦うのが目的で兵を率いたのではなかった。根っからの僧侶である彼の目的は民衆の救助と殺戮の防止だった

 惟政の師・休静は名僧として名高く、各地に檄文を飛ばして僧兵の決起を促した。それは郭再佑に匹敵する働きと言って良かっただろう。そんな師のために駆け付けた惟政は国王の許可を受けた休静から義僧都大将(僧兵の総司令官)に任じられ、平壌では約二〇〇〇の僧兵と供に主に日本軍の後方撹乱で補給ルートの遮断、という遠征軍を迎え撃つ常道で平壌奪還に貢献した。
 元来宗教勢力とは(宗教国家でない限り)国家の干渉を原則として受けない者である(あくまで原則だが)。だが干渉を受けない、とは言いかえれば保護も受けないのである(税金を払わない者は護ってくれないということだ)。それゆえ、少林寺や日本の僧兵、欧州の教会騎士団の様に宗教勢力は自前の武力で自衛した。
 殊に、仏教が冷遇された李氏朝鮮時代の寺社勢力が自前の武力を持っていたことは想像に難くない。そして宗教勢力による武力には「信仰」という団結力と戦意の基を保持していた。

 惟政は国王から禅教両宗判事を授かったが、彼の真骨頂は寧ろここからであった。
 文禄三(1594)年四月から日明講和会談が始まると惟政は明からの救援軍の将・李如松(リ・ルスン、り・じょしょう)将軍にその代表を命じられた。皮肉なことにこの戦争は日本が朝鮮の攻め込んだことで明国に喧嘩を売ったと見なされ、講和会談で朝鮮は蚊帳の外に置かれた。戦場になったのは朝鮮なのに、全権は明に握られたのである。  だが、そんな中で惟政は朝鮮代表として堂々と振舞い、秀吉のわがまま極まりない要求を不合理である、と堂々と主張した。
 またその際に、朝鮮官民が鬼とも恐れた加藤清正とも面談し、清正が「汝の国にも宝があるか?」と問えば惟政「わが国では貴殿の首に金と邑一万戸をもって買いたいという。これに勝る貴重な宝があろうや」と応じた。同胞を多く死に追いやった清正を前に堂々と人民の敵意を主張した惟政惟政なら、豪快に笑ってその思いを受け止めた清正もまた清正であった。

慶長 詳細は別項に譲るが、元々双方の君主に事実を伏せた誤魔化しに近い講和が整う筈もなく、慶長の役が始まった。
 惟政は官民一体の迎撃を国王に訴えた「討賊保民事疏」を上奏して再び戦場へと向かったが、御仏の教えに従って彼自身は敵兵を殺めることなく、築城及び軍需物資の調達、輸送などで大きな戦功を上げた。侵略してきた敵兵を打ち滅ぼすのも国防の上で勿論大切なことだが、兵站に徹したこともまた大切であると供に自らの立場に従った立派な行為ともいえた。

戦後 僧侶である彼の活躍は戦後にこそ遺憾なく発揮された。
 前述した様に、国家権力とは無縁であるゆえに、本来宗教階層は中立的存在である。日本戦国時代でも多くの僧侶が敵対する大名同志の間を行き来して時に戦を調停した様に、キリスト教の神父・牧師、イスラム教の聖職者達もまた中立の立場で調停に尽力した例は枚挙に暇がない。そして惟政もまたその意味において僧侶としての役割を果たした。
 終戦から六年後の慶長九(1604)年八月、惟政は朝鮮通信使に同行して徳川家康と会見。戦時中奴隷や技術者として日本軍の捕虜とされ、日本にまで連れてこられていた人々をつれて朝鮮に連れた帰る事に成功した。その数なんと三〇〇〇余!(帰りの船によく全員乗れたよなあ…(笑))
 李舜臣、郭再佑、権慄達も勿論命懸けで祖国を護った立派な人物だが、惟政のこの活躍は現在の日本と北朝鮮の拉致問題を見ると現代人として恥じ入ると供に惟政の名をもっともっと有名にすべきとの(独り善がりな)使命感にさえ駆られる。
 ただでさえ戦争には多くの犠牲が伴う。失われた命は決して帰って来ない。遠く海を越えた異国の地に連れ去られ、生き別れとなった家族が六年の時を経て一人の僧侶の尽力で再会が叶った時、彼等はどれほど喜び、その僧侶に感謝したことだろうか?
 勿論惟政が来日していなくても捕虜にされていた人々が帰国できた可能性は極めて高かった。
 元々この戦争は豊臣秀吉という(その時点で)狂った独裁者によって起こされた、日本人の大半が乗り気でない戦いだった。江戸幕府を開いて一年半の家康にとって交易や治安の為にも周辺諸国との友好は望むところだったし、朝鮮側に誠意を見せることで秀吉の政治の否定が為されるのは必然的な算盤勘定だっただろう。それは以後の江戸幕府と李氏朝鮮の友好的な歴史を見ていても明らかである。日朝の和睦は歴史的必然とも言えただろう。
 だが、惟政と言う人物の高潔さと人を率いる力を見ると、家康との会談が順調にまとまった要因に彼の尽力があったことは否定できないだろう。少なくともそんな風に考えさせられる何かが彼にあるのは間違いない。




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平成二七(2015)年七月三〇日 最終更新