朝鮮側の勇将



権慄(クォン・ユ、ごん・りつ、권율)
略歴 日露戦争において、大日本帝国では名将を称えて、「陸の大山(巌)、海の東郷(平八郎)」と呼んだ。これを秀吉の朝鮮出兵時の李氏朝鮮軍に置き換えれば、海は当然李舜臣である。そして「陸」に出てくるのがこの権慄であり、朝鮮半島では李舜臣と並び称される名将である。

 日本ではどうしても李舜臣の名が抜きん出ている為、他の諸将の活躍は目立たない。権慄も例外ではなく、ごく普通の武官として戦争を迎え、泰平の中で脆弱になっていた官軍の中で比較的活躍を重ねていた彼だが、活躍の数はさして多いわけではない。しかし大きな敗北が無いことと、かなり重要な戦いに大勝をあげているところに権慄の魅力がある。

文禄 秀吉軍の侵攻を受けた天正二〇(1592)年、権慄は五五歳で、義州(ウィジュ)牧使を引退し、静養の身であったが、平和慣れした朝鮮官軍が不甲斐なさを露呈する中、彼は光州(クァンジュ)牧使に命じられ、国家の危機に瀕して老骨に鞭打って任地・光州に向かった。
 権慄が光州に到着する頃には国王は首都・開城を捨て、平壌に向かっているような状態だった。全羅巡察使李洸(イ・クァン、り・こう)は近隣から集結して編成した兵四万の内、半数の指揮を権慄に委ね、権慄は全羅道都節制に昇進し、梨峠(イチ)で一五〇〇の兵を率い、小早川隆景軍と対峙した。
 この激戦で福縣監の黄進(ファン・ジン、こう・しん)が戦死し、陣営に混乱が起きたが、権慄は御年五五歳の身で自ら抜刀して陣の先頭で大声を張り上げて歴戦の猛者揃いの小早川軍と刃を交え続け、勝利を収めるのに貢献した。
 この勝利の意義は大きい。全羅道の死守に成功した事を意味し、日本軍が快進撃を続ける中で、南部に打ち込まれた楔としてその快進撃を鈍化させるもととなったからであった。

 その後、全羅道巡察使に昇進した権慄は漢城のすぐ北の幸州(ヘンジュ)山城で二三〇〇ほどの軍勢でその守備及び日本軍の牽制に務めたが、権慄が各地から集めた精鋭であったことに加えて、僧将の處英(チョ・ヨン、しょ・えい)も一〇〇〇の義僧兵を率いて加わったため、質・士気ともに高いものがあった。
 日本軍側でも、この精鋭を倒してこそそれまでの汚名を雪げるとばかりに宇喜多秀家を総大将に、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行が補佐し、小西行長・黒田長政・毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・小早川隆景といったそうそうたるメンバーが雁首揃えた。

 三万の日本軍精鋭が襲いかかったのは文禄二(1593)年二月一二日のことであった。
 朝鮮軍の士気も高かったが、この一戦に大局を賭ける日本軍の士気もまた旺盛だった。特に先鋒としての面目を取り戻そうとする小西行長軍は未明より猛攻を開始し、梨峠での雪辱を碧蹄館(ペチェグァン)で明の大軍を破った勢いそのままに果たそうとする小早川隆景率いる七番隊も同族の吉川広家率いる五番隊、毛利元康率いる六番隊ともに続々と進撃してきた。
 権慄は火車(ファチャ:荷車に積んだ箱から火薬の力で多数の矢を一斉に発射する一種のロケットランチャー。李氏朝鮮にて発明)を駆使し、矢石を投じ、目つぶし用の灰袋を投げつけて小西軍をよく防ぎ、梨峠戦同様に太刀を抜刀して大号令とともに日本軍に斬り込んだ。

 薩摩守はある本で戦の指揮官たるもの声が大きいことを要される、という意の文を見た事がある。味方の戦意を高揚させ、敵の戦意を挫く為にも声は大きければ大きいほど言いのだろう。そういう意味において自ら先頭で抜刀して大声で味方を叱咤激励して戦った権慄は名将の資質を備えていたと言えるだろう。
 権慄の大号令に叱咤された人々は官軍兵も義兵も僧兵も死力を尽くし、女性達までもが民族衣装・チマチョゴリに投擲用の石を運び続けた(余談だがこの時の前掛けがヘンジュチマの元となったらしい)。
 激戦は朝鮮側に援軍が到着した事で日本軍が撤退を余儀なくされたことで終結した。
 朝鮮側では官民一体となって得た意義ある勝利であり、日本側には首都防衛を揺さぶられる手痛い敗北で、総大将の宇喜多秀家をはじめ石田三成、吉川広家、前野長康が負傷する始末だった。この後日本軍では厭戦気分が高まり、講和への模索が本格化した。
 一方で権慄の名は比較的弱体であった朝鮮官軍の中で李舜臣に匹敵する名声を得、その名は日本・明にも轟いた。

慶長 恥ずかしながら幸州山城以降の権慄の活躍は薩摩守の研究不足もあってはっきりしていない。
 慶長二(1597)年には総大将に等しい都元帥として明軍と連携して日本軍に打撃を与えた事だけは調べ得た(苦笑)。

戦後 終戦の翌年である慶長四(1599)年七月権慄はこの世を去った(享年六三歳)。
 権慄の訃報に接した宣祖は悲しみの余り二日間政務が執れなかったと云う。
 たった二回とはいえ、極めて意義の大きい大勝で見せ場を掻っ攫った彼は幸州に建てられた「忠荘祠」に祀られ、山頂には記念碑が、城には銅像が建てられている(朝鮮戦争で壊れたが後に再建)。
 その救国の英雄としての声望は李舜臣に匹敵し、陸上では並ぶ者がないといっても過言ではないだろう。個人的に、郭再佑と並んでもっと有名になっていて然るべき名将であると薩摩守は思っている。




高敬命(コ・ギョンミョン、こうけいめい、고경명)
略歴 遅咲きの出世、両班の陰謀に苦しみながら水軍を率いて日本軍を散々悩ませて国を救いながら自身は最後の戦いで壮絶な戦死を遂げた李舜臣の悲劇は多くの朝鮮人・韓国人の涙を誘うが、その李舜臣並の悲運の名将がこの高敬命である。
 李氏朝鮮の中宗二八(1533)年生まれの高敬命は科挙の文科試験に合格し、本来は文人・学者だった。秀吉の出兵が開始された天正二〇(1592)年には既に六〇歳で、釜山東莱府事を解任されて故郷で隠居生活を送っていた
 だが、時代と泰平で有事を忘れた朝廷の現状が彼に安穏たる生活を許さなかった。

文禄 首都漢城は開戦二〇日にして陥落した。高敬命は即座に二人の息子高従厚(コチョンフ)、高仁厚(コインフ)を伴って義兵を組織した。
 元は宮仕えの身であった敬命は先の羅州(ナジュ)府使の金千鎰(キムチョンイ)と相談し、各地に檄を飛ばし、多くの義兵を挙げる基を作った。

 言い出しっぺが頼られる(というか、意見を出した責任を求められる)のが世の常、というと少々語弊があるが柳彭老(ユ・ペンノ、りゅう・ほうろう)が六〇〇の民兵を率いて合流したのを皮切りに民兵だけではなく、各地で敗走した官軍の敗残兵も高敬命を頼り、六〇〇〇に膨れ上がった全羅道最大義兵軍は高敬命を大将に選任した。
 元より高敬命は義兵軍を組織するのだけが目的で、自らを将の器と考えてなかったので光州牧師の丁允佑(チョン・ユヌ、てい・いんゆう)に軍を委ねる気でいたのでその選任を辞退しようとしたが、丁に聞き入れられなかったために大将として命を懸けて戦うことを心に誓い、六月一日、柳彭老、安瑛(アン・ニョン、あん・えい)、楊大樸(ヤン・テボ、よう・たいぼく)を補佐役に指名して軍編成を為した。

 進軍を開始した敬命は闇雲に日本軍に突入しなかった。
 まずは義兵軍を組織したことを朝廷に奏上して進撃途上の各地に軍需物資の供給を要請し、六月一三日に全州に達すると数百名単位で要所要所に兵を配置し、豊臣軍に備えた。
 そして激戦の予想される上に防衛の要衝となる海岸地帯に「倡義救国」の檄を飛ばし、本来目指した役割にも余念がなかった。

 しかし緻密な戦略、盛り上がる声望、揺るぎ無い愛国心を持ちながら敬命は官界の仲間に恵まれなかった。
 七月初旬に錦山(クサン)に日本軍(小早川隆景軍)集結を知った彼は忠清道の義兵将軍趙憲(チョ・フォン、ちょう・けん)と共同しての挟撃を図って使者を出し、官軍の防禦使・郭(クァ・ヨン、かく・えい)と作戦会議を開いた末、数百騎を率いて攻撃をしかけたのは七月九日のことだった。
 だが、官軍の及び腰に敗走を余儀なくされた。再び郭と軍議を行った敬命は翌一〇日に八〇〇騎でもって再度日本陣に突撃を敢行。後から官軍が呼応する手筈だったのだが、豊臣軍は弱体の官軍への一斉攻撃を開始したところ、官軍は戦うどころか我先にと逃げ出した。
 官軍が敗走しては作戦は瓦解、勝ち目のない戦いに敬命の周囲は撤退と再起を提案したが、敬命「敗将には死あるのみ。」と言い残して敵大軍に躍り込んだ。
 二人の息子、従厚・仁厚兄弟もまた父に殉じて若い命を戦場に散らした。日本軍上陸から僅か三ヶ月足らずのことで、官軍が逃げる中、勇敢に戦った高父子や義兵達の壮絶な戦死は多くの朝鮮人民の涙と義憤を誘い、後々の義兵奮闘の基となった。

戦後 高敬命の戦死の地・錦山には現在、高敬命記念碑が建てられている。七年に渡る戦争の中で、戦初に呆気なく戦死したこともあり、多くの勇将達の中にあって高敬命の名はそう多くは出てこない。しかし老躯に鞭打って勇敢に戦ったことは多くの義兵に多大な戦意を与えた。
 彼は命と引き換えに自らが目指したことを究極までに為し得た。何度も書いているが、日本軍を撃退し得たのは水軍・義兵の二大双璧であった。
 敬命は正しく義兵の為にその名乗りを挙げ、義兵の為に命を散らした。恐らく朝鮮侵略がなければ、官軍が本来の役割は立派に果たしていれば彼の名が歴史においてここまで登ることはなかっただろう。
 無名の内に歴史にその名が埋没することと悲劇の歴史にその名が知れ渡ることと、どっちが彼にとって望む所だったのだろうか?歴史を追う時にいつも考えさせられる。願わくば今後の歴史に勇将の名を聞きたくないものである。世界の何処にも。




その他の諸将
概略 上記の諸将以外にも国王・文官・官軍・義軍・僧兵と数多くの人々が国家と国土を護る為に尽力した。
 中には自らの権益を守るために汲々とする者も多かったが、概ね他民族の支配を受けることを拒むという点において共通した概念があり、その為に少なからぬ尽力をしたと言えるだろう。
 本来ならその全員を上記の諸将同様に論述したい所だが、残念ながら薩摩守の調査にはまだまだ及ばざる所もあり、いつの日か詳細がわかった者に関しては独立した項目を設けたいが、現在の所は名前と所属の列挙に留めさせて頂きたい。
 勿論全員を列挙出来ている訳ではない。諸将の子孫の方々の中には「うちの御先祖が載っていない!」と激怒される方がいるかもしれませんが、その折には是非ともクレームとともに詳細を(苦笑)寄こして頂きたく存じます。

王族
宣祖(ソン・ジョ、せん・そ、선조) 李氏朝鮮第一四代国王
臨海君(イヘグン、임해군) 王子・加藤清正軍の捕虜となる。
順和君(スンファグン、순화군) 王子・加藤清正軍の捕虜となる。

文官
李山海(イ・サンヘ、り・さんかい、이산해) 領議政(宰相)
柳成龍(ユ・ソンヨン、りゅう・せいりゅう、류성룡) 左議政(副宰相) 李舜臣の濡れ衣を晴らしたり、人材登用に功あり。また戦記を残す。
尹斗寿(ユン・ドウス、いん・とじゅ、윤두수) 左議政(副宰相) 平壌司令官も兼任
黄允吉(ファン・ユンギ、こう・いんきつ、황윤길) 通信使正使として来日。日本の侵略への警戒を提言。
金誠一(キ・ソンイ、きん・せいいつ、김성일) 通信使副使として来日。党派の対立から「日本の侵略はない」。と言って、開戦後罪に問われた。以後改心し、郭再佑が濡れ衣を被せられた際にはこれ晴らすのに尽力した。

武将
鄭發(チョン・バ、てい・はつ、정발) 朝鮮軍戦死第一号。
李元翼(イ・ウォンイ、り・げんよく、이원익) 都体察使(首相兼軍司令官)
李鎰(イ・イル、り・いつ、이일)
申砬(シン・リプ、しん・りつ、신립) 猛将として名高かったが、緒戦であえなく敗戦。南漢江に入水。
元均(ウォン・ギュン、げん・きん、원균) 慶尚右水使。初め戦わずして逃げる。李舜臣と対立し、失脚させるが舜臣を書いた水軍は日本軍に大敗し、自らは戦死。国民的英雄・李舜臣の手記にて酷評されているので今も尚、朝鮮半島内での人気は低いが、近年、元々は猛将であったことが見直されつつある。
宋象賢(ソン・サンヒョン、そう・しょうけん、송상현) 東莱(トンレ)城主。緒戦で日本軍に敗れる。
李陽元(イ・ヤンウォン、り・ようげん、이양원) 留都大将(首都防衛司令官)
金命元(キ・ミョンウォン、きん・めいげん、김명원) 都元帥(全軍司令官)
韓克誠(ハン・クソン、かん・こくせい、한극성) 咸鏡北道兵使
李渾(イ・ホン、り・こん、이혼) 咸鏡南道兵使 加藤清正に敗れる。
金時敏(キ・シミン、きん・じびん、김시민) 晋州牧使

義軍
成安(ソン・アン、せい・あん、성안)  慶尚道で決起。
鄭仁弘(チョン・インホン、てい・じんこう、정인홍)  慶尚道で決起。
金沔(キ・ミョン、김명) 慶尚道で決起。
金千鎰(キ・チョンイ、きん・せんいつ、김천일) 全羅道で決起。晋州城の激戦で落城に際して戦死。
洪季男(ホン・キョナ、こう・きだん、홍계남) 忠清道で決起。
趙憲(チョ・ホン、ちょう・けん、조헌)  忠清道で決起。元両班でもある。立花宗茂・安国寺恵瓊軍と戦い、錦山に戦死。
霊圭(ヨン・キュ、れい・けい、영규) 忠清道で決起。趙憲と行動を供にする。立花宗茂・安国寺恵瓊軍と戦い、錦山に戦死。
李廷馣(イ・ジョンアン、り・ていあん、이정암) 黄海道で決起。黒田長政軍を破る快挙を為す。
鄭文孚(チョン・ムンブ、てい・ぶんふ、정문부) 咸鏡道で決起。
李桂(イ・ケ、り・けい、이계) 平安道で決起。

僧兵
休静(ヒュ・ジョン、きゅう・せい、휴정) 惟政の師。別号・西山大師。惟政を初めとする多くの僧兵の決起を促し、国王より僧兵の総指令を命じられる。

明人
祖承訓(ソウ・チョンシュン、そ・しょうくん) 五〇〇〇の兵を率いて朝鮮を救援。
沈惟敬(チェン・ウェイチン、ちん・いけい) 停戦使として小西行長と交渉。後に虚偽が発覚して明にて処刑。
李如松(リ・ルウスン、り・じょしょう) 朝鮮救援軍提督 四万を率い、小西行長から平壌を奪還するが碧蹄館で小早川隆景に敗れる。以後戦意喪失。
宋応昌(ソン・インツァン、そう・おうしょう) 対日講和に務める。
謝用梓(シェ・ヨンズイ、しゃ・ようしん) 宋応昌の配下講和使として来日。
徐一貫(シュ・イグァン、じょ・いっかん) 宋応昌の配下講和使として来日。




前頁へ
冒頭へ戻る
戦国房に戻る

最終更新 平成二七(2015)年七月三〇日