「殺された」人達

第四頁 皇統死守偏


推定被害者 漆
称徳天皇 (しょうとくてんのう 養老二(718)年〜神護景雲四(770)年八月四日)
容疑者藤原氏
得をした者白壁王(光仁天皇)
概要 聖武天皇と光明皇后の一人娘にしてバリバリに藤原の血を引く女帝で、内親王の身で唯一人皇太子の地位に就いた人物でもある(それ以外の女帝は「幼帝の母親」が大半で、夫帝の急死などにより一時的に帝位に就いたものばかりで皇太子の位に就いた者は皆無)。

 称徳天皇は初名を阿部内親王といい、同母弟に基皇子(もといのみこ)がいた。
 時の帝・聖武天皇と権力第一の藤原氏の三女である藤三娘こと光明子の間に産まれた基皇子はオムツも取れない赤子の内に立太子され、順当に行けばこの同母弟が父の後を継ぐ筈だった。
 しかし基皇子は生後一年も経たずに幼くして落命したため、長屋王の変・光明子の立皇后・その他の皇子の死を経て、阿部内親王は内親王の身で初めての立太子を受け、大仏開眼を目前にした天平勝宝元(749)年に病弱だった父の聖武天皇から譲位され、帝位に就いた(孝謙天皇)。

 聖武天皇の崩御後は母・光明皇太后と従兄にして愛人とも言われた藤原仲麻呂の補佐を受け、仲麻呂の推す淳仁天皇に譲位し、一度は上皇となり、政治の一線から退いたが、大病を患った際にその看病に務めた僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになった。
 これに不安を覚えた仲麻呂は淳仁天皇を説いて、孝謙上皇に「怪しい僧をお近づけにならぬよう。」と告げさせたが、余計なお世話とばかりに激怒した上皇は淳仁天皇から国家の大事を担う権利を取り上げ、小事のみを任せるようになった。
 落胆した仲麻呂は劣勢挽回とばかりに塩焼王(しおやきのおう)を立てての反乱を試みるも失敗に終り、妻子供に斬られ、淳仁天皇は廃帝となり、淡路に流された(恵美押勝の乱。淳仁天皇は明治になるまで、「廃帝」扱いで、「淳仁天皇」となったのは明治になってから)。

 重祚(ちょうそ。一度退位した帝が再び即位する事)した孝謙上皇称徳天皇となった。
 益々道鏡を寵愛し、道鏡は法王に、その弟や弟子達までがトントン拍子に出世した。だが、称徳天皇の晩年に流血を伴うものではがなかったとはいえ、大事件が起きた。

 所謂、宇佐八幡宮神託事件であった。
 女帝と道鏡に媚び諂っていたと思われる者が、「道鏡が帝位に就けば天下は泰平になる。」との神託を得たと女帝に耳打ちした。
 神託に狂喜した女帝だったが、皇族以外の即位は余りに前例のないこと(後にも例はないが)なので、反対の声を抑えることを目的に和気清麻呂を宇佐八幡に派し、神託を伺わせた。
 だが、称徳天皇の期待に反し、平城京に帰郷した清麻呂は「臣下が帝位に就いた例はなく、道に外れた者は追放すべし。」との神託を伝えた。
 期待を打ち破られ、激怒した女帝は清麻呂と彼の姉・法均尼(ほうきんに。俗名:和気広虫(わけのひろむし))の二人を流罪とした。
 しかもこの時、清麻呂に改名を命じており、その名は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という文字通り汚名を着せる意地悪振りだから、この一面だけを見るとかなり狭量な暴君である。

 藤原氏を押さえ、現職の天皇を退位させて重祚し、自らが寵愛する者に破格の出世を与え、それを阻止せんとした直言の士を苛め抜いた末の流罪にしてまで我を通す称徳天皇の前に道鏡への譲位強行は時間の問題と思われたが、神護景雲四(770)年八月四日に称徳天皇は病死し、道鏡への譲位は完全にその道を断たれた。

 王政復古から終戦に至るまでの天皇陛下万歳国家体制の中で、称徳天皇は暗に(道鏡に譲位しようとした)その意図を非難され、称徳天皇を直接に非難できない分、道鏡は日本史上三大悪人の一人とされた(後の二人は平将門と足利尊氏)。
 そして今少しの余生があれば道鏡への譲位を行われた可能性が強かった背景は、道鏡の失脚と死を「臣にあらざる不遜な野望を抱いた事への報い」とし、自然死と考えるには余りに適時的だった称徳女帝の崩御には暗殺説が囁かれた。

死の影響 称徳女帝の死は、それを境に天国にあったものは地獄へ直行させ、地獄にあったものは天国へと返り咲かせた。

 云うまでもなく女帝の後ろ盾で権力の座に登り詰めていた弓削道鏡及びその実弟に弟子達は権力の座を追われ、道鏡自身は下野に流され、二年後に寂しくその生涯を終えた。
 一方で、女帝の為に強制改名に流刑まで加えられた和気清麻呂は一躍、「万世一系を護った英雄」として名誉と地位と実名(笑)を回復し、藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ふじわらのももかわ)・藤原良継(ふじわらのよしつぐ)達は藤原仲麻呂以来の落ち目から立ち直り、その陰謀の中から既に六二歳になっていた高齢の白壁王(しらかべおう)が光仁天皇として即位し、次代の桓武天皇へと繋がっていった。

 光と闇の反転が如何に称徳女帝が強大な権利を一手に掌握していたかが端的に現れていると云えるだろう。
 独裁者・強権発動者の死は事の善悪は別にして、その死によって失脚する者、生を得る者の過多にその権力の大きさが表れていると云えるであろう。
 だが一方で、女性の身で天皇になったゆえに生涯独身の立場に追いやられた女帝の立場は、当然子を残す事は許されず、終るべくして終わったものであり、それは誰の目にも映っていた推移であることを失念してはならないだろう。

薩摩守の見解 まずは称徳天皇が生まれから孝謙天皇としての引退までを藤原家の背後関係を抜きに考えられなかった境遇ゆえに「女性としての不幸を背負い込んだ人」と見ることから始める必要が有ります。

 前述した様に、女性の身で皇太子となり、聖武天皇の直系とはいえ、他にも王や皇子がいる状態でありながら女帝となり得た(というか祭り上げられた)称徳天皇はその登り詰めた地位ゆえに身分的に釣り合う男性もなく、生涯独身を余儀なくされました。
 その反動もあってか、仏教と儒教に傾倒した女帝が独善に陥り、退位後に新たな視点を見つけ、血縁より、自らが寵愛した「有徳」への譲位を決意した点にはある種の同情が持たれます。

 そしてこれらの背景と、女帝の立場を鑑みて思うのですが、称徳天皇の発病から崩御、その後の白壁王擁立・道鏡失脚には藤原一族を中心に和気清麻呂や吉備真備(きびのまきび)達までが一枚噛んだ陰謀がぷんぷんに匂うとはいえ、薩摩守は女帝は天寿を全うしたと見ています。

 端的に言って殺す必要がなかったからです。
 「女帝と僧侶」という組み合わせでは、子を為せず、称徳天皇か道鏡のいずれかが天寿を全うすれば称徳女帝の理想は自然に潰えます。
 (他の皇族や藤原氏にとって)最悪、女帝から道鏡への禅譲が行われていたとしても、天武天皇が天智天皇の崩御後に弘文天皇を倒して帝位を奪取した例を見れば一代限りの譲位など幾らでも潰せたと思います。

 事実、称徳天皇の崩御で抵抗らしい抵抗もないまま道鏡が失脚し、その後二年で没したとはいえ、命を取られず、僧籍を剥奪されなかった事からも道鏡自身の野心度は低く、また女帝の発病から崩御、埋葬までの間、道鏡が女帝に近づく事を阻止された事実からもいざとなれば禅譲を防ぐだけの団結しての反対体制を天皇周辺は充分に持っていたとも思われます。
 ただ、称徳女帝の両親である聖武上皇、光明皇太后の臨終に際して、盛大な加持祈祷が行われたのに、二人の娘にして仏教への帰依も強く、現に道鏡の加持祈祷で命を永らえた事のある女帝の臨終に加持祈祷が行われなかったことから、「延命阻止」という意味での「暗殺」が行われた可能性はある意味否定できないかも知れません(実効性はともかく、意図の上では「殺意が有った」と見做し得るので)。




推定被害者 捌
足利義満 (あしかがよしみつ 正平一三/延文三(1358)年八月二二日〜応永一五(1408)五月六日)
容疑者天皇家・公家
得をした者足利義持・後小松天皇
概要 この人も拙作『認めたくない英雄達』に取り上げた一人である。云わずと知れた足利幕府第三代将軍で、南北朝の騒乱を統一し、武家として征夷大将軍に、公家としては太政大臣に就任し、室町幕府の最盛期を築き、鹿苑寺金閣を初めとする北山文化を花開かせ、勘合貿易をもって明皇帝から「日本国王」に封じられ、天皇家・宗教関係にも大きな発言権を持った大人物である。

 現在では何人かの作家が検証したことで、「次男・義嗣を宮中で元服させ、天皇家乗っ取りを企んでた」という説がそれなりに囁かれているが、戦前は皇国史観を重んじる歴史教育の中でひた隠しにされた。
 ちなみに皇位に関して述べるなら、史実として足利義満の死後、朝廷から「太上天皇」(上皇)の位が追贈されようとしたが、嫡男にして四代将軍の義持が「畏れ多い。」として断った。

 そんな生前・死後の双方に波瀾を呼んだ足利義満が五一歳で息を引き取ったのは、「発病から僅か五日」という短い日数だった為にその死に暗い影が投げかけられるのであった。

死の影響 足利義満の死によって人生が大きく変わった存在が三つある。第一は父・義満に最も愛された次男の義嗣、第二は能を初めとする芸能関係者、第三が貿易商人であった。

 足利義嗣は将軍位を継いだ兄・義持よりも父・義満に可愛がられ、同時に皇太子と共に宮廷内で元服の儀式を受ける、など破格の待遇を与えられた。
 義満が皇位を狙っていた、と主張する人々は、正確には「義嗣を皇位に据え、自らは上皇になって、足利天皇家を作ろうと目論んで。」いたと見ている。
 実際、後円融天皇の側室の一人は義満との不義密通の疑いで天皇に峰打ちで半殺しの目に遭わされた。つまり義満は天皇の寝所に入りこんで女官達と房事(アレの事)に耽れる程の力があった。
 勿論南北朝を統一した功績と幕府の総帥としてのバックボーンが物を言ってのことである。

 だがそんな義満の急死で皇位簒奪計画は(あったとしての話だが)頓挫し、(これは確実な史実だが)嫡男で、将軍たる自分を差し置いて父に溺愛された義嗣を憎んでいた義持によって義嗣は皇位どころか父の元−つまり冥界に追いやられた。勿論義満存命中には考えられないことである。

 第二の芸能関係者は「最大の後援者を失った。」という意味において義満の死に痛手を受けた。
 これには当時、芸能の世界に生きる人々が世間から白眼視されていたことに関係があった。些か差別問題に触れる話になるので、慎重に筆を進めたい(薩摩守自身は韓国系日本人ということもあり、差別の愚かさが骨身に染みているつもりである)のだが、当時「河原者」という言葉があった。

 農業国・日本にあって、産業の基本は「農」を中心とした第一次産業で、第二次産業はそれより一段下に見られ、第三次産業は卑しい職業とされていた。
 第三次産業の中でも雑役・遊芸を生業とした人達は、住むに不便で、湿気から衛生状態も良くない環境である河原に、半ば追いやられる様に住んだ。そこから「河原者」と呼んで卑しめたのがこの時代である。
 歌舞伎役者を卑しめて「河原乞食」と呼んだのもこれに由来する。更に当時の税制は「農地」に対して課税されたので、「河原」は「非課税の地」だったので、そこに対する妬みもあった(仏教徒として、余り書きたくないが、宗教法人が非課税であることを妬んでいる人も多いでしょ?)。
 そこへ行くと当時卑しい職業とされた歌舞伎役者の世界に陽の目を与えた足利義満は、些かオーバーに表現すると「救世主」とも言えた。

 義満の建てた鹿苑寺金閣が京都の北山に位置したことから「北山文化」という言葉が生まれた点にも見られる様に、義満は文化の保護者だった。
 義持の時代も北山文化の時代に含まれるが、義満や後の世の八代将軍義政ほどには文化保護に邁進したとは言い難い。となると元々蔑視されていた歌舞伎の世界が時の権力者の保護を得て隆盛を極めるとこれを面白くなく思う者も多数出て来たのは必然でもあった。
 当然、そのバックを失うと妬みも相俟って蔑視は倍増。少しばかり後の世の話だが、義満の保護を受けた世阿弥は義満の没後、六代将軍義教によって佐渡に流刑となった。その背景的詳細は薩摩守の研究不足で割愛するが、最高権力者が与えた待遇の落差は言わずもがなであろう。

 第三の貿易商人は義満の死後に義持が勘合貿易を廃止したことから打撃を受けたことが明白である。
 薩摩守は『認めたくない英雄達』義満の項で、国内では朝幕を押さえて尊大に振る舞いつつも、大国の国主・明皇帝には卑屈だった義満の「内弁慶、外地蔵」振りを酷評したが、プライドを捨てて経済的な視点だけで見ると勘合貿易を初めとする中国相手の朝貢貿易は相手に「名」を与えて「実」を取るものとして実は実入りが多い。
 自らを兄貴分として立てて、貢物を持ってへりくだって来る「周辺地域」の「主」に対して歴代王朝の中華の皇帝は「国王」の位と貢物に倍する手土産を与えて機嫌よく帰すのが通例で、当然中華皇帝による後ろ盾の元、中国からの特産品及び国内輸出の利益を一本化できるから「名」より「実」を取る周辺諸国の王(または最高権力者)は挙って中国に朝貢し、またその態度をさほど恥ともしなかった(周辺国も、日本が渤海や蝦夷に朝貢させ、シャムがラオスに朝貢させ、琉球が与那国に朝貢させる、と云う風に見習いさえした)。
 当然勘合貿易に携われる商人は巨大な利権を得たも同然で、義満が死して、義持が「我等は明皇帝の家来では無い!」として朝貢貿易である勘合貿易を中止したことにより、その利権が失われた商人達の懐の痛みは想像を絶する。

 足利義満には天皇家を簒奪しようと思えばするだけの力はあっただろう。
 彼の死が朝廷並びに幕府内においても大きなものがあったのは間違いないが、決して政治の世界だけにその影響が留まるスケールの男ではなかったのである。

薩摩守の見解 結論から言うと薩摩守にとって足利義満暗殺説は白黒が全く持ってはっきりとしません。早い話、「分からん!」と云うことです(苦笑)。

 上記の義満の考えを鑑みると、政治の世界では天上天下唯我独尊とでも言いた気な義満の姿が目立つが、時代そのもので見ると義満の死を喜んだ者(天皇・貴族・足利義持・鎌倉公方・寺社関係)と義満の死に痛手を受けた者(足利義嗣・文化人・歌舞伎役者・貿易商人)とでは後者の方が多い様に思われます。
 勿論支持者が如何に多くとも、一人でも怨む者がいれば暗殺が画策される可能性は充分にあります。義満が発病から僅か五日で遺言らしい遺言もせずに息を引き取ったことや、彼に翻弄されていた朝廷がわざわざ「太上天皇」の位を追尊したのも不可解な話です。

 しかし医学の発達した現在でも健康優良者が原因不明の急死を遂げることはあるし、朝廷が「「太上天皇」の位を追贈されるぐらいの人間になら良い様にされていたとしても面子が立つ。」と考えたとしたら(チョット苦しいが)、追贈もさほどおかしな話でもない気がします。
 作家・井沢元彦氏の説では天皇家の血統を守ろうとした人々が自分達と気脈を通じた二条満基(にじょうみつもと)の学問の弟子にして、且つ義満に寵愛され、容易に近付き得た世阿弥を利用して毒を盛らせた(義満の大叔父・直義も祖父の尊氏に鴆毒(ちんどく)で毒殺されている)、というのが真相になるのですが、説自体の筋は通っているものの自信を持って支持するには薩摩守自身の検証が足りない様に思われてなりません。
 些か無責任ですが、現時点では薩摩守の私見としては義満暗殺説の真偽は謎としておきたい。より大きな無責任を避ける為と御理解頂ければ幸いです。


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令和三(2021)年四月一七日 最終更新