「殺された」人達

第参頁 子飼末路偏


推定被害者 伍
加藤清正 (かとうきよまさ 永禄五(1562)年六月二四日〜慶長一六(1611)年六月二四日
容疑者徳川家中
得をした者徳川家康・秀忠
概要 この人物ほど小説や歴史考察の中で「暗殺された!」と半ば決めつけられた人物も珍しい。

 加藤清正に関しては拙作『朝鮮出兵』でも取り上げているので、そちらを参照して頂きたいが、この頁でネックになるのは豊臣秀吉、ひいては豊臣家の為に何処までも尽くした男が徳川家にとって如何に邪魔な存在だったかと言うことだろう。

 秀吉が織田信長の足軽大将にしか過ぎなかった頃から「子飼の部下」として活躍し、賤ヶ岳の戦いを皮切りに秀吉とともに大出世した清正は、天下統一に際して秀吉から肥後の北半分を与えられた。
 朝鮮出兵でも活躍し、関ヶ原の戦いでは主戦場には立たなかったものの、「石田三成憎し」の念から家康に味方して九州にて尽力し、戦後、肥後五〇万石の大身となったが、徳川家に従いつつも豊臣家存続に尽力していた。

 家康の将軍就任後、それまで元旦に豊臣秀頼の元に出向いて行っていた年賀の挨拶を多くの大名が行わなくなっても清正は欠かさず、秀頼の下に通い続けた(一応、家康への挨拶を済ませた後だったが)。
 単に豊臣家の顔を立て続けただけでなく、徳川家の養女を刺客の可能性を認識しつつも側室に迎え(この側室と閨を供にするとき、清正は必ず懐剣を帯びてたらしい)、娘と徳川頼宜の婚約を結んでは徳川家と上手く付き合いながらも、いざと言う時に秀頼を迎える為に熊本城を築城し、独自に南蛮貿易をして財を蓄えもした。

 亡き太閤への恩に報い、豊臣家を存続させる為に、清正は敢えて秀頼に徳川に膝を屈することも勧めもした。
 慶長一〇(1605)年の徳川秀忠将軍就任御礼上洛時と、慶長一六(1611)年の家康上洛時には二条城へ挨拶に行く事で徳川との融和を図らんとした。
 勿論力で勝る徳川が跡取り無き秀頼(実際には国松がいたが、まだ公の存在ではなかった)を亡き者として豊臣を潰さんとする事は充分過ぎるほどに考えられた。淀殿が秀頼の上洛に強硬に反対したのには、主筋としてのプライドに固執しただけでなく、ただただ秀頼暗殺を恐れる母心でもあった。
 当然の事ながら清正は秀頼の身辺警護に立ち上がった。
 清正は浅野幸長とともに懐中に短刀を忍ばせて終始秀頼に近侍して隙を見せなかった。
 しかもこの時、本来なら福島正則も同行する筈を、清正達は「急な腹痛を起こした。」として敢えて同行させなかった。これには秀頼一行に万が一のことがあった場合に大坂城に篭って、仇討ちする為の一芝居だったとも言われている。

 生涯、秀吉の恩を忘れなかった加藤清正はこの二条城会見直後に己が役目を終えたかのように熊本に帰国後、大坂の陣を待たずに病没した。享年五〇歳。
 その死は二条城にて家康が出した毒饅頭を秀頼に代わって食した説を筆頭に、毒殺説を唱えるものが多く、故隆慶一郎氏は著書の『影武者徳川家康』『捨て童子松平忠輝』にて清正の死を徳川秀忠が放った裏柳生の忍びがイタリアから密かに伝えられた「錐刀(すいとう)」と呼ばれる針の如き暗殺用の短刀で刺された際に、狙った心臓ではなく、清正の背の高さから(実際には清正はで短躯であった)腸を刺し、腹膜炎に苦しんで死んだとしている。
 会見直後にして、開戦前の死は自然死と考えるには余りに徳川に都合が良過ぎた。そこが呼んだ推測はとてつもなく大きい。

死の影響 歴史の結果を見ると、大坂冬の陣に豊臣方が頼りとした大名達は一人として大坂方に属さなかった。かつての大名や、大名の一族としては長宗我部盛親(浪人)、真田幸村(浪人)、長岡興秋(細川忠興次男)、福島正守(正則の弟)といった面々がいたが、現役は皆無だった。

 秀吉に恩を受けた大名達が一人として駆け付けず、中には細川忠興の様に援軍要請の書状の封すら切らずに家康に転送した者さえいた。
 既にそれだけ豊臣と徳川の力関係は名実ともに逆転しており、己一人ではなく、多くの家来や家中を抱えた彼等は皮肉にも大身となったゆえに一武士としての忠義のみに生きられなくなっていた。

 殊に福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治といった羽柴秀吉時代以前から秀吉に可愛がられていた大名達は「先代(秀吉)には世話になったが、当代(秀頼)にはなっていない。」とした。
 正則や嘉明の言動を考えると清正が存命でも秀頼に従って大坂城に入城したかどうかは簡単には言い切れない。だが、清正が前田利家病没直後の石田三成襲撃未遂事件の七将のリーダー格だった事を考えると「清正が生きていたら…。」とは考えられずにいられないものが多くの人々の心にあるのは間違いなかろう。

 加藤清正の領国は肥後だったが、九州には他にも薩摩には島津、小倉には細川、福岡には黒田がいた。
 いずれも一癖も二癖もある連中である。長州の毛利も抱きこんで連合すれば幕府の力を持ってしても一筋縄ではいかない相手と推測される。そんな推測からも、彼等のリーダーとなり得た清正の死は豊臣家滅亡を早めた気がしてならない(いずれ滅ぶものだったとしても)。

薩摩守の見解 加藤清正暗殺の可能性は二割程と見ています。
 生前の徳川政権下での秀頼への忠義を見れば徳川にとって生きていない方が都合のいい存在であったことに間違いはありません。前述の様に家康の養女を側室に貰った後、清正はこの側室と床を共にする夜は必ず懐剣を忍ばせていた、と言われています(←やることやるときには懐剣をどうしてたんだろう?)。
 つまりは暗殺されるだけの要因もあれば、その危険性を当の本人である清正も認識していました。

 しかしながら実際に暗殺するかどうかは別です。
 清正の死に前後して、秀吉に可愛がられてた浅野長政・幸長、真田昌幸、池田輝政、といった大名達が次々に世を去り、そのタイミングが清正暗殺説の信憑性を高めていますが、逆を言えばこれらが暗殺であれば(または暗殺の疑いが持たれる様であれば)、「次は自分かもしれない…。」と懸念する福島・毛利・加藤嘉明・佐竹辺りが「ダメモト」で反逆に走る可能性もあり得ます。
 そうなると秀吉に恩義を感じていなくても野望や闘争心の強い島津や伊達も油断ならなくなり、家康から秀忠への政権過渡期(当時の家康はいつくたばってもおかしくない老齢)を思えば、清正は暗殺するより、飼い殺しの対象だったと薩摩守には思われます。

 仮に暗殺されたものだとしても、薩摩守は巷間で囁かれている「毒饅頭(を秀頼の身代わりに喰った)説」に関しては鼻で笑っています。
 二条城会見における秀頼暗殺など、まず考えられず、会見時の食事による中毒死と考えるには、会見から死亡までの三ヶ月間は余りにも長過ぎるからです(少なくとも当時の毒薬にそこまで遅効性を持つ物は存在しない)




推定被害者 陸
福島正則 (ふくしままさのり 永禄四(1561)年〜寛永元(1624)年七月一三日)
容疑者福島正則(本人)
得をした者特になし
概要  加藤清正と並ぶ豊臣秀吉子飼の猛将で、俗に「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名高い。
 実際、「七本槍」の叙せられた七名の中で福島正則一人が五〇〇〇石を与えられ、残り六名は三〇〇〇石であった。そんな彼に自然死ではない疑惑があるのは余り有名ではない。もっとも彼の場合は「暗殺」疑惑ではなく、「自害」疑惑なのだが。

 清正とは良き友であり、好敵手でもあり、幼き日より秀吉の「子飼」として軽輩時代の秀吉を「親父様」、その糟糠の妻・ねねを「お袋様」と呼んで慕った。
 秀吉のためには水火も辞さず各地を転戦する一方で、長浜以降秀吉に従った石田三成を始めとする「文治派」とはそりが合わなかった。そして文官とは肌が合わない猛将に在りがちな様に彼は喜怒哀楽の激しい人情家で、関ヶ原の戦いでは小山評定で率先して家康への合力に応じる口火を切り、宇喜多秀家隊と大激戦を繰り広げる一方で、先鋒にこだわって家康四男である松平忠吉の抜け駆けにさえ憤りを明らかにした。

 しかし戦場を後にすれば彼は愛も情けも知る男であった。
 江戸の酒を買いに行った家来が嵐で八丈島に緊急避難した際に流人であった宇喜多秀家に酒を譲ったことを褒め、関ヶ原直後の段階では関所を閉ざして正則の家来の通過を拒んだ伊奈昭綱の首を堂々と家康に要求してそれを通す一方で、非が家来にあると知るやその家来を罰しもした。
 当然秀頼にも礼儀を尽くした。そして家庭では恐妻家=愛妻家であった。

 だが、次第に徳川の政治力・武力が盤石化するや広島城と家中を重んじなければならない立場となり、大坂の陣に際しては秀頼の援軍要請を断った。だが豊臣家への恩を完全に忘れていた訳ではなく、弟の正守が入城し、元の大坂福島屋敷の兵糧米はこっそりと城内に収公される様に裏から手を回していた。
 正則のせめてもの報恩行為だったが、これが原因かどうかはともかく、徳川からは最後まで豊臣に合力しかねない人物と見られた。
 大坂冬の陣では加藤嘉明・黒田長政とともに(戦場での裏切りを警戒して)江戸城留守居役を命ぜられ、翌年の夏の陣でも一人正則だけが再度の留守居を命じられたが、早い話、最後の最後まで危険視されたゆえに江戸城中にて幕閣の監視下に留め置かれたのであった。

 豊臣家の滅亡、家康の死を経た後に待っていたのは徳川秀忠による親豊臣派大名の取り潰しで、正則はその第一号にされた。
 武家諸法度違反による改易第一号でもあり、正則は広島城の城壁修築の許可を幕府の重臣・本多正純に願い出ていたにもかかわらず、正純は惚け、「正式な許可が幕命で出されていないのに、独断専行である。」とされ、正則は元和五(1619)年に嵌められた形で改易(正確には小藩への減封)に処された。

 福島家中の面々は「あれほど(幕府に)忠節を尽くしたのに…。」と抗議の意を露わにしたが、当の正則は「先代(家康)になら、忠義を尽くした、と抗議もできたが、当代(秀忠)には云っても始まらない。」として、抵抗もせずに改易(くどいが転封)命令に従い、川中島四万五〇〇〇石の領地へ移った。

 福島正則は寛永元(1624)年七月一三日、失意の内に病没した。享年六四歳。その死に関して、「本当の死因は四九万石の大身から十分の一以下の左遷への屈辱から自ら腹を掻き切った」とも云われている。

死の影響 福島正則への処分は武家諸法度による改易処分第一号で、正則の死以上にその処罰の方が後々の歴史に影響を与えた。
 彼の改易の後、加藤(清正)家を始め、豊臣恩顧の大名達の多くが、改易、小身への転封に処され、前田利常、伊達政宗は阿呆の振りまでして幕閣の危険視を避け、島津家は土着言語を更に捻じ曲げてまで公儀隠密の潜入を阻まんとした(間違いだとしたら、鹿児島県民の方々には申し訳ないが、鹿児島弁が他の九州の方々にさえ難解なのはこれが原因と聞いています)。

 嵌められた形での左遷に正則が周辺の毛利・蜂須賀・池田・浅野と連合して幕府に抵抗していれば幕政の安定も不透明なものとなっていたであろう。
 加えて語るなら、豊臣恩顧大名の中で最も血の気が多かった正則が六年の蟄居生活の後に徳川家に対する反骨を示さず世を去ったことは、親豊臣大名に徳川幕府への反骨精神に諦観を与えたかも知れない。正則の死が平和を乱さないことに貢献したと言うのは穿った物の見方だろうか?

薩摩守の見解 薩摩守は福島正則自害説に否定的です。
 それは左遷から死まで六年の歳月があったことです。これが一年早ければ「改易同然の左遷への屈辱」と「豊臣恩顧の大名の末路に対する自責」から亡き秀吉が逝去したのと同じ年齢に達したことに合わせて追い腹を切った、とも取れるのですが、如何せん中途半端です。

 勿論正則の性格を考えれば、その猛将然とした一徹さから屈辱に耐え兼ねての自害も考えられなくはないのですが、それには六年の歳月は長過ぎます。
 やはり猛将らしからぬ穏やかで寂しい死に後世の人々が「大人しい死にしたくなかった。」と考えるのが妥当でしょう。中国において正史では病死だった徐晃・張遼が『三国志演義』では戦死にされた様に……。



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令和三七(2021)年四月一六日 最終更新