Page Last.すべてのキャラクターを活かすには?

 特撮の限らず、すべてのストーリーは主人公だけでは成り立たない。悪役(正確には主役達と敵対する存在)、脇役、チョイ役も必要だし、主人公とその関係者のバランスは作品を生かしも殺しもする。その辺り、長期シリーズや長編としてヒットした作品は実に主人公以外の存在を活かしている。
 ただ、当然ながら、一番大切なのは主人公で、それ以外の存在は主人公より重い存在となることはない(←人気は別もの)。それゆえにストーリー的にも存在感には軽重も濃淡も出てくる。
 同時に戦いがメインテーマである故に、戦死する者、逃亡する者、安全を優先して前線から外される者、目的を遂げて引く者、etc、様々な形で「降板」が生まれ、それ自体は自然な事である(真にリアリティを求めるなら、週一の割合で1年間も命懸けの戦いを続けながら、その間、1人の出入りもない方が不自然極まりない)。

 同時に、「降板」はそのキャラクターが持つ個性・設定・役割にけじめをつける重要な展開でもある。何せ、最終回では全員が「降板」してしまうのに先駆けて降板するのだから。
 故に本作で散々触れて来たように、どんなチョイ役でもレギュラーを張ったメンバーに降板理由が明らかにされないと消化不良感が否めないし、酷い時には「結局、そのキャラクターを活かし切れてないやんけ!?」と責めたくもなる。

 各キャラクターの「降板」についての考察は本頁以前に譲るが、この最終頁では「降板」が生まれる本質を考察し、どうすれば無益・無情な「降板」が生まれず、すべてのキャラクターが活きるかを考察してみたい。
すべては「手探り」だった?
 散々文句言っておきながらなんだが、「手探り」で番組を作り続けてきた制作陣には同情している。
 仮面ライダーシリーズも、ウルトラマンシリーズも、戦隊シリーズも長い歴史を築き得たが、初っ端の作品がコケていれば「シリーズ」と呼ばれることもなかった訳で、実際に、コケたが為に後々に生まれたかも知れない名作が制作の機会を失ったケースも多数あるだろう。
 そしてシリーズ化に成功すれば、後発作品は最悪でも先代を貶めない人気の保持が義務付けられる。勿論それに失敗すればシリーズは長い休止を余儀なくされる。ま、仮面ライダーシリーズやウルトラマンシリーズともなれば、過去作が築いた功績が余りにも大きいから、不人気作品のためにシリーズが終了しても再開する余地は半永久的に残されていると言えるのだが。

 ともあれ、そこまでの実績を積むまでは様々な生みの苦しみがあったのは想像に難くない。何せ手本が存在しないのだから。主人公は勿論、それを際立たせるために周囲のキャラクター、背景、敵役、現実の世情との兼ね合いに想像を絶するほど頭を悩ましたことだろうし、最終的な決断のすべてが正解だった訳ではなかっただろう(勿論、大まかには正解だったからこそ後発が続いている)。

 となると、然程重要な役割の振られていないキャラクターや、制作陣の観点から後々の作品展開に相応しくないと断じられたキャラクターを、人件費・整合性の問題で切ったこともあっただろう。
 同時に、キャラクターを演じた俳優側に原因や問題があって「降板」という結果になったこともあるだろう。一例を挙げれば、急病・負傷・家庭事情や本人の意志による退職、或いは俳優の所属する事務所と制作陣の間に折り合いの着かない事情が生じて雇用が中断されることもあるだろう。
 いずれにせよ、急遽の降板、並びにそれらに言及がないという流れは好ましいものではない。少なくとも降板キャラクターを愛好していたファンの反感を買うのは避けられない。故に制作陣とて好き好んで急な降板の断を降したり、端から降板理由を無視したストーリーを作っていたりした訳ではないと信じている。
 ただ、視聴率と戦いながら様々な梃入れや個性を持つ俳優陣の人心掌握に腐心した制作陣に完全な正解を求めるのはいつの時代にあっても酷な話と云えよう。


主役の在り方の変遷 今でこそ、様々な個性を持った主人公が生まれ、幅を効かせている。だが、主人公に対して、「ヒーローかくあるべし」の縛りはまだまだ強く、その縛りは過去に遡れば遡る程厳格だった。
 前頁でも触れたが、当初はウルトラマンにはベータカプセルとスプーンを間違えるという「人間らしさ」すら認めない風潮が強固に存在した。そして主人公が完全無欠の存在であれば、ボケ役や頑迷な間違いに固執する役は周囲に振られる。没個性キャラクターも当然存在した。となると、視聴者的にも「嫌な奴」、「どうでも良い奴」に陥る者も出た。
 また、男尊女卑の気風がまだまだ濃かった時代、女性キャラクターは主人公と恋仲にでもならない限り、事務役で終わることも珍しくなかった。当然、都合が悪くなれば簡単に切り落とせる存在でもあった。

 幸い、数多くのヒーロー番組が生まれる中、ヒーローや主人公の在り様も多様化し、完全無欠な存在は稀となった。
 そのことは業界にとっても、視聴者にとっても僥倖だった。
 未熟さを持つ故に主人公は視聴者にとって親しみ易い存在となり、未熟故にそんな主人公を支える周囲のキャラクターの役割や個性も多様化した。当然、主人公の対人関係も多様化し、対人関係の持つ軽重・濃淡も多様化した。

 設定上、主人公との関係が軽い、淡い立場に位置付けられたキャラクターは不運かもしれないが、そういう存在も必要ではある。全員が重い、濃い対人関係を持ったら見ているだけで疲れる番組になりかねない(苦笑)。
 要は主人公の「在り様」があって、他のキャラクターの「在り様」があるのだから、そう考えると主人公と絡んで重要ではないキャラクターは1人も存在しないことになる。当然どんなキャラクターも唯一無二の存在であることを制作陣には肝に銘じて「理由なき降板」を避けて欲しいものである。
 困難だとは思うが、それが実現出来れば、その作品は「すべてのキャラクターを活かした名作」としての一要素を持てるのだから。


ファンが生み出す後付けの「理由」 一部の例外を除いて、一つの作品に登場したキャラクター達は、主人公以外はその作品限りのキャラクターである。仮面ライダーシリーズの立花藤兵衛やウルトラマンシリーズのタケナカ参謀or評議長(佐原健二)や、フルハシ隊員or隊長or参謀(毒蝮三太夫)など例外中の例外である。
 となると、各作品のキャラクター、それも途中で現れて途中で消えたようなキャラクターなど、数多い特撮作品や長い特撮史において、(敢えて酷な言い方をするが)「塵芥」に等しい存在である。

 だが、どんなキャラクターにも強烈に支持・愛好するファンがいる。それだけ人の好みや価値観が千差万別と云えばそれまでだが、一つ断言できるのは、ファンは制作陣の想像を遥かに超えてキャラクターの存在感を拡大するということである。

 ファン達は一つの作品のストーリー中に没した存在をそのままにしておかなかった。後日譚となる小説・OVA・漫画・同人誌等が生まれ、消えたキャラクター達が再登場し、それらは逆に制作陣にすら影響を与え、特番に俳優陣が登場したり、専門書のインタビューに答えたり、DVDやブルーレイ化された作品の特典映像にコメントしたり、といった「返り咲き」を実現した。
 かかるファンの底力が無ければ、滝和也を演じた千葉治郎氏とて多くの人々の前には現れなかっただろう。何せ千葉氏は俳優を引退して久しく、俳優に戻ってはいないのだ。

 勿論、俳優諸氏の中には俳優業廃業後の行方が知れない方、鬼籍に入られている方もいる。当時のキャラクターとして再登場することを断固として拒否されている方もいる。それでも何らかの形でキャラクターが返ってくる声が止むことはない。
 小説、漫画、デジタル映像、遺影等の手段でもはやこの世に存在しない立花藤兵衛、死神博士(天本英世)、坂田健(岸田森)が画面上に現れた例も有る。
 おこがましいのを承知で言えば、この私、シルバータイタンがこの作品を通じて一過性で消えたキャラクターの存在感を強くアピールしている。

 そんな「想い」は時に「語られなかった話」を後から生み出した。
 『ウルトラマンレオ』第40話でシルバーブルーメに呑まれたモロボシ・ダンがどうやって助かったのかは長く謎だったが、『ウルトラマンメビウス』の設定でウルトラの母に救われていたことが公式設定となった。それこそ、セブンの行方不明に納得が行かず、再登場したならしたで何故に助かったかの理由を求める声が強かった故のことであろう。

 今後も生まれてくる特撮作品において、「理由なき降板」は今後も生まれるだろう。その時点で「理由」が付けられないケースも生まれるだろう。
 だが、時間がかかったり、後付けだったり、作中の設定のみでもいいから「理由」は作って欲しいと思う。何故なら、無駄なキャラクターなど誰一人存在しないのだから。そしてそれはフィクションも現実も同様であるとシルバータイタンは信じるがゆえに


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平成三〇(2018)年六月一三日 最終更新