第壱頁 梶原景時……元祖・讒言者?

名前梶原景時(かじわらのかげとき)
生没年保延六(1140)年(?)〜正治二(1200)年一月二〇日
寵愛してくれた主君源頼朝・源頼家
寵愛された能力実務・管理能力、汚れ仕事実行
嫌った者達源義経、畠山重忠、和田義盛、三浦義村、由利八郎、結城朝光等
略歴 保延六(1140)年に生まれたと云われているが、はっきりしない。
 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、後三年の役にて源義家の下で戦った鎌倉景政の従兄弟が梶原氏の祖で、遠縁に当たる大庭氏とともに源氏の家人であったが、平治元(1159)年に平治の乱で源義朝が敗死すると梶原景時は大庭景親とともに平家に従った。

 その二一年後の治承四(1180)年八月、義朝の遺児・源頼朝が挙兵し、伊豆目代・山木兼隆を討つと、景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦い頼朝軍を打ち破った。その際に景時頼朝を救ったのは有名である。
 『源平盛衰記』によるとこの戦で、景時は山中の洞窟に潜む頼朝を発見し、「もはや、これまで。」と自害しようとした頼朝景時はおし止め、匿う旨を告げる一方で、しっかり恩も着せたと云う。
 そして洞窟の中を尚も怪しむ景親に対して、盗掘の前に立ちふさがって、「疑うのか?男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ!」と詰め寄ったので、景親は諦めて立ち入らなかった。我意を通すことに掛けてはかなり強引だったようである。
 そしてこの時の景時の行為が、人間不信男にもかなりの恩を感じさせたのだった。

 その後、安房に逃れて再挙した頼朝が、千葉常胤、上総広常ら東国武士を招聘し、大軍を編成して鎌倉に入ると、景時は同年一二月に土肥実平を通じて頼朝に降伏し、その傘下に入った。
 翌養和元(1181)年正月に頼朝と正式に対面し、数ヶ月前の恩義と、弁舌が立ち、教養のあることが気に入られた景時は、鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行等の諸事を任された。

 寿永三(1184)年正月、景時は嫡男・景季とともに源義経軍に従軍し、源義仲との宇治川の戦いに参陣(この戦いで景季は有名な先陣争いを佐々木高綱と展開)。
 戦勝後、諸将が鎌倉の頼朝への戦の報告を行った中で、景時の報告書が「義仲を討ち取った場所」、「様子」、「他に討ち取った主だった敵将の名前」等の詳細を充実させていたことで、頼朝に益々気に入られた。

 同年二月七日の一ノ谷の戦いに義経の侍大将として参陣。だが、この直後から頼朝の弟・義経と肌が合わず、これが近未来における両者の悲劇に繋がった。
 景時は配置転換を願い出て、源範頼の侍大将となって参戦し、父子で大いに活躍。特に景季は平重衡(清盛五男)を捕えた。
 直後、景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻り、四月に土肥実平とともに上洛すると、各地の平氏所領の没収にあたった。

 元暦元(1185)年正月、頼朝は義経に屋島攻略を命じ、以後、屋島の戦いから壇ノ浦の戦いまで景時もそこに加わることとなったのだが、これは景時・義経双方の悲劇となった。
 両者は戦い前の軍議の度に嫌味を云い合い、平家滅亡後にその対立は更に深刻化させた。

 戦後、後白河法皇から勝手に官位を受けた咎で頼朝の怒りを買った義経は鎌倉帰還を許されず、京へ追い返された。九月に景季が上洛して在京の義経の元に頼朝からの命令を伝えに訪れた。
 その命令とは、頼朝が対立していた叔父・行家を追討せよ、とのことだったのだが、義経は体調不良を理由に、景季と合うのを一日延期させ、命令も「体調が回復してから。」として即座には従えないとした。
 鎌倉に戻った景季からその報告を受けた景時は、頼朝に、「(義経様は)謀反を企んでいるに相違ない。」と耳打ちした。

 結局、義経は京から奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れ、秀衡死後の文治五(189)年に衣川にて藤原泰衡に殺された。鎌倉に届けられた義経の首を見聞したのは景時と和田義盛だった。
 だが義経の首を確認した頼朝は、「義経を討てば罪を許し、恩賞を与える。」という約束を物の見事に反故にして奥州征伐を敢行。これに景時も従軍した。

 建久元(1190)年、頼朝の初上洛に随伴。建久三(1192)年には和田義盛に代わって侍所別当に就任。だが、そして正治元(1199)年正月に頼朝が死去すると景時の運命は急転直下した。
 一先ずは、宿老として二代将軍・源頼家を託された景時だったが、北条時政を初めとする一二人の重臣は年若い頼家が政務を司るのは時期尚早、として景時を含む一三人の合議制が敷かれることとなった。

 だが、頼家と有力御家人との対立が生じ、その時の結城朝光の態度を景時が頼家に伝えたことで、景時は他の御家人達の怒りを買い、これが元で梶原景時並びに一族郎党は命を落とすこととなった。



主君の寵愛 旧ソ連のヨシフ・スターリン並みに猜疑心の塊と化していた源頼朝にとって、梶原景時は本当に危ないところを救われた恩義もあって異例の信頼が抱け、同時に「汚い仕事」を任せられる男だった。

 寿永二(1183)年一二月、上総広常と双六を打っていた景時は、そのルールを巡って諍いとなり、俄かに盤をのりこえて広常の頸を掻き斬ってこれを殺害した。
 これは当然頼朝の密命によるものだった(←そうでなければかかる死闘は死罪に相当する)。
 石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた頼朝の前に上総広常は二万の軍勢を率いて馳せ参じたのは良いが、その軍威をたてに、下馬の礼をせず(本人曰く、「祖父の代から下馬の礼をしたことがない。」)、その後も事ある毎に「朝廷の事を気にし過ぎるな。」と頼朝に直言していた。
 そんな広常を疎ましく想っていた頼朝は、広常に謀反の企てがあると疑い、さりとて罪状らしき罪状の無い広常を「疑わしい」、「態度が悪い」だけで死罪に出来ず、結果、景時に命じて遊戯のトラブルが昂じた形を擬して殺害させたのである。
 だが、この様な密命を担った者を世間が白眼視するのは世の常だった。

 勿論、頼朝にとっては都合のいい家臣である。
 身内すら信用出来ない男である頼朝だったが、身内を手に掛けることに心の痛みが全くなかったとは思わないし、世間体も気にしたことだろう。そんな頼朝にとって、景時がもたらす「○○様には反逆の意があると思われます。」、「□□殿がカクカクシカジカと申していました。」との報告は凄く都合のいいものだったことだろう。
 つまりは、「こんな報告が(景時から)来る以上、身内といえどもこれを討たざるを得ない。」と広言出来た訳である。勿論すべてに景時が関わった訳ではないが、源頼朝という男は範頼(弟)、義経(弟)、義経の子(甥)、行家(叔父)、義仲(従弟)、義高(義仲の子)等を死に追いやっている。
 ただ、視点を御家人、特に義経と好意的に接していた御家人にしてみれば、「景時さえ余計な告げ口をしなければ鎌倉殿は御身内を手に掛けずに済んだのに……。」となってしまうのだが。

 純粋に能力面で見れば、事務能力・実務能力の高さを景時は愛でられている。
 前述した様に宇治川の戦いにおける戦勝報告を喜ばれたのもそうだし、義経や(新旧を問わず)そのシンパに嫌われることになったのも、景時が「報告係」として頼朝に信頼されていたと事と直結している。

 また守護職としては、播磨・備前・美作・備中・備後の五ヶ国が託されたのだから、これは能力と寵愛の両方が無くては成立しない話である。そしてその手腕を認めればこそ、頼朝は範頼に、西国平定・西国統治に関して景時と土肥実平の両名によく相談するよう命じている。

 源頼朝と云う人間不信男の信頼を得られたと云うのは極めて稀有な資質あってのことだが、その信頼を保持する為にはとことん頼朝と密接しなくてはならなかったのが皮肉であり、悲劇だったと云えよう。



末路 梶原景時並びにその一族郎党の死は、有力御家人をことごとく敵に回したことあった。直接のきっかけとなったのは、一三人の御家人の一人・結城友光の言を源頼家に伝えたことだった。

 源頼朝死後、北条時政を初めとする有力御家人はまだ若く、ボンボン色の強い頼家が独裁するのを拒否し、宿老による十三人の合議制がしいた。そこに頼家が「一の郎党」として頼みとしたことで景時もこれに加わったが、半年後に結城の発言と、景時の「讒言」が起きた。
 結城が、現況に対して、「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。
 景時はこれを「将軍様に対する誹謗」として頼家に訴え、勇気への断罪を求めたと云う。その翌々日、御所に勤める女官・阿波局から「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げられた結城は驚き、三浦義村に相談。二人は和田義盛ら他の御家人達に呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。

 正治元(1199)年一〇月二八日に、
 東重胤、安達景盛、足立遠元、安達盛長、天野遠景、稲毛重成、宇都宮頼綱、岡崎義実、大井実久、小山朝政、葛西清重、河野通信、工藤行光、佐々木盛綱、渋谷高重、首藤経俊、曽我祐綱、千葉胤正、千葉常胤、土屋義清、土肥惟平、長江明義、中原仲業、二階堂行光、二宮友平、畠山重忠、波多野忠綱、八田知重、榛谷重朝、比企能員、藤原朝光、三浦義澄、三浦義村、毛呂季綱、結城朝光、若狭忠季、和田常盛、和田義盛(←五十音順)その他大勢を含む合計、六六名の御家人による景時糾弾の連判状が一夜の内に作成されたというから景時の嫌われ振りは尋常ではなかった(←メンバーの中に頼家の岳父・比企能員までもが含まれていることに注目)。
 将軍側近官僚として直に連判状を受け取った大江広元だけが景時を惜しんで、頼家への提出を躊躇していたが、和田義盛に強く迫られて結局は頼家に言上した。

 一一月一二日、頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何ら弁明せず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。
 一時は謹慎によって鎌倉に戻れた景時だったが、それでも一〇日ももたずに鎌倉追放を申し渡され、和田義盛、三浦義村が景時の鎌倉邸を取り壊した。
 二九日、播磨守護・美作守護の職を奪われ、翌正治二(1200)年一月、景時は一族とともに上洛の途に就いた。
 だが同月二〇日、その道中である駿河にて偶然居合わせた在地武士達の襲撃を受け、狐崎に合戦となったが、景季を初めとする息子達も次々と討たれ、観念した景時は西奈の山にて自害して果てた。梶原景時享年六一歳。
 その首級は翌日探し出され、一族三三名の首が路上に懸けられたと云う。尚、梶原一族が命を落とした西奈の山は「梶原山」と呼ばれている。

 この時の景時の上洛目的はどうも、幕臣に見切りをつけ、朝廷の直臣になろうとしたものと見られている。『吾妻鏡』では「景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛し、武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだ。」と報告されているが、『吾妻鏡』が北条家によって編纂された史書であることを考慮に入れれば、この記述を鵜呑みには出来ない。
 いずれにせよ、鎌倉武士の間では「讒言者」とされた景時だったが、政治力・実務管理能力を高く評価されていた京都においては、景時は「頼家の大忠臣」とみられており、「景時を死なせたことは頼家の大失策」であるとされた。そんな景時にとっては京の方が住み心地のいい所となっていたかも知れない。

 その裏付けになるかどうかは断じ難いが、幕府御家人達による景時(正確にはその「残党」の)追討は執拗を極め、景時が庇護して御家人となっていた城長茂が奈良吉野で長茂の甥・城資盛が越後で、長茂与党として藤原高衡(秀衡の子)が討たれた。
 そして景時の死から四年後、源頼家も殺されたのだった………。



評価と実像 まずは梶原景時『平家物語』を始めとする源平合戦一の人気者・源義経及びそのファンを敵に回してしまっていることを念頭に置かなくてはならないだろう。
 多くの方々にとって、源平合戦に関する知識は『平家物語』にかなり依存しており、史実と異なる点もかなり当たり前の様に受け入れられていることに留意しなくてはならない(勿論薩摩守も例外ではない)。
 頼朝と義経の対立は双方に問題があると薩摩守は観ている(その度合いの大きさは個々人によって見方が異なるだろうけれど)が、それでも「判官贔屓」という言葉が残っている様に、『平家物語』において源義経がスーパースターとなり、現代においても大きな人気を保持していることは疑いない。
 「梶原景時」=「源義経を讒言したと男」との図式が存在していることは、物凄いマイナスイメージをもたらしているだろう。

 少し景時と義経の論争を見てみよう。
 まず有名なのが、屋島の戦い前の軍議にてかわされた「逆櫓」に関する論争である。景時は船戦を得手とする平家と戦う為にも、兵船に逆櫓をつけて進退を自由にすることを提案したが、それに対して義経は「最初から逃げることを考えていては兵の間に臆病風を生む。」と主張して反対した。ここで、景時止せばいいのに「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」なんて云い返しをしたものだから、評判を大きく落とした。
 結果として屋島の戦いは、暴風の中を渡海した義経が奇襲攻撃に成功し、景時の本隊が到着したときには平家軍退却後だった。ここで「六日の菖蒲」なんて洒落の効いた嫌味で云い返しをした義経も大人気ない奴である。
六日の菖蒲………菖蒲は「端午の節句」=「五月五日」に飾る花で、「六日」に持ってきたのでは「遅れた」ということになる。

 そこに「菖蒲」を「勝負」と引っ掛けて、自らの奇襲攻撃で戦が終わった後にやって来た景時に対して、義経は「勝負に遅れてやってきた奴」という嫌味をかましたのである。
 う〜ん、くだらん……道場主の駄洒落といい勝負…イてっ!(←道場主に殴られたらしい)

 続く壇ノ浦の戦い前の軍議でも両者は云い争った。
 早い話先陣担当を巡るもので、景時と義経の双方がこれを希望し、景時は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と云い放ったため、景時父子と義経郎党とが斬り合う寸前になったと云う。何で一言多いんだろう、この親父……。

 いずれに非があるかは置いておくにしても、こんな展開を辿っては双方が互いに悪意を抱かない方がおかしいだろう。

 戦後、頼朝が義経に鎌倉入りを禁じたのも、景時の報告が有ってのことで、逆にここまで来ると、義経の怨みを買っていることが明白な景時としては「止まれなかった」のかも知れない。
 義経が鎌倉入りを禁じられて、京都にいた時、前述した様に景季が義経に頼朝の行家追討命令を伝えに行ったことが有った。後日、景季からの報告を受けた景時は、「面会を一両日待たせたのは不審。その間に食を断って衰弱して見せたのだ、行家殿と同心しているのは間違いない。」と言上したと云うのだから、これでは彼を「讒言者」と見る人間が出て来るのは無理もない

 頼朝が畠山重忠の説得で義経を許しかけた際も、景時の「もし九郎(義経)殿が鎌倉に入られたら、鎌倉殿はどうなるか……。」の一言で、取り止めにしているのだが、もしかしたら「どうなるか……」は景時自身の事も指していたのかも知れない。

 景時の立場に立てば、「それがしは鎌倉殿に有りのままを告げただけだ!」との云い分もあるだろうし、北条家が編纂した『吾妻鏡』景時が指摘した内容自体は非としていないのだが、時代を越えたスーパーヒーロー義経を面前にして、要らん一言が多かったのはまずかったし、それを「報告」したとあっては、二昔前の、クラスメートの細かい悪事まで担任の先生に逐一密告したクラス委員長の様に見られたのもまずかっただろう。
 更に、悪いことに景時には対義経以外にも「讒言者」という揶揄を生む材料的事績がかなり残されている。仮に景時を「讒言者」とするなら、その「被害者」は源義経・和田義盛・結城友光等ということになる。それでなくても、所謂「目付」という御役目は人の怨みを買い易いのに……。

 例を挙げると、夜須行宗と畠山重忠と由利八郎の例がある。
 夜須行宗の例は壇ノ浦の戦いでの恩賞を巡っての話である。景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立てた。結果、訴訟となり、夜須の戦功を明らかにする証言が出たことで、敗訴した景時は鎌倉の道路普請を罰として科せられた。

 畠山重忠の例は彼が罪を受けて謹慎させられた時のことである。
 千葉胤正に預りとなった重忠は罪を恥じて絶食。頼朝は重忠の武勇を惜しんで赦免したのだが、景時は重忠が恨みに思い謀反を企てていると言上した、と云う。
 頼朝が重忠へ使者を遣わせて訊問させると、重忠はこれを恥辱として自害しようとし、使者はこれを押しとどめて申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得。景時が訊問役となったが重忠は身の潔白を断固として訴え、頼朝もようやく疑いを解いた。
 元々重忠は人望のある者で、この時の景時の疑いようは他の御家人達の恨みを買うことになった。ただ、都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の様に、景時が赦免を願い出た者達がいたことも触れておきたい。

 最後の由利八郎の例は、罪を云々した話ではなく、景時の人望に関する話である。
 文治五(1189)年の奥州征伐に際し、景時は捕虜になった泰衡の郎党・由利八郎を尋問した。ところが、景時の傲慢な態度に由利八郎は黙秘を貫き、代わった畠山重忠が礼法に則って遇したところ、由利は感じ入って尋問に応じるようになり、「景時と重忠は雲泥の違い」なんて言葉を残したものだから態度からして人に嫌われる人物として類推されるようになってしまった。

 他にも、建久三(1192)年に頼朝が征夷大将軍に就任した際に、景時は和田義盛に代わって侍所別当に就任したが、『吾妻鏡』では景時が義盛をだまくらかしたり、讒言したりして別当職を奪ったとしている。
 ただ「侍所別当」という、政所・問注所と並ぶ重職は明らかに人が良くても武骨者の義盛よりは事務能力・実務能力に優れていた景時の方が向いていたと云える。頼朝にも頼朝なりの判断があったことだろう(←薩摩守は頼朝を嫌い抜いているが、政治家としての能力は高く評価している)。
 また『吾妻鏡』の記述だから、本当に騙しや讒言があったかは不鮮明(何せ和田義盛も後には北条家ともめて殺されている)だが、確かな事実として、この一件で景時は義盛にも恨まれた。

 或る意味、梶原景時と云う人物は、「源頼朝」・「職務」・「ありのままを述べる」ということに忠実過ぎたのかも知れない。
 景時の実務・管理能力は今更云うに及ばずだろうし、戦働きにしても息子・景季を上手く使い、戦功を挙げている。何より、只の性悪告げ口野郎ではあの頼朝が信頼する筈がない。
 実際、北条寄りの史書である『吾妻鏡』ですら景時の能力や報告内容は肯定し、京都人寄りの『愚管抄』『増鏡』では景時の評価も高く、特に『増鏡』景時頼朝の仲を「分け隔てなし」と記しており、両者が主従でありながら、盟友に近かったとしている。
 となると、景時が多少思い上がったのは仕方がなかったことだったかも知れない。勿論、それは良くないことだし、景時の訴えには誤りも散見されているから、「讒言された」側にしてみれば、訴えた相手があの頼朝だから、文字通り「命にかかわった」し、景時を恨んだのも当然過ぎるほど当然と云えた。
 今少し思い上がりと、感じたことをその場で云ってしまうことを抑えていれば、自身暴走に歯止めをかけ、要らざる敵を減らせたのではないかと思われるのだが、景時の事を笑えず、「他山の石」とすべき人物は現代にも多いのではないかと思われる

 景時の不幸は彼と彼の一族郎党だけには止まらなかった。景時誅殺が、「邪魔者は消してしまうべきだ!」との風を生んでしまい、その後、将軍頼家・実朝を初め多くの御家人が北条氏の魔の手に掛ったことも景時誅殺に端を発していると考えるのは薩摩守だけではあるまい。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新