第弐頁 長崎高資……魁!賄賂奉行

名前長崎高資(ながさきたかすけ)
生没年?〜元弘三(1333)年五月二二日
寵愛してくれた主君北条高時
寵愛された能力家業に伴う強権の発動力
嫌った者達北条高時、北条泰家、安達時顕等
略歴 生年は不詳。長崎氏は元寇直後に専横を振るった平頼綱の弟・長崎光綱が祖と云われているが、異説もあり、はっきりしない。長崎高資は光綱の孫で、父・長崎円喜(ながさきえんき)は北条得宗家に仕える御内人 (みうちびと)兼内管領だった。

 初めは父や安達時顕らの見習として取次役などの執権側近雑務に従事。正和五(1316)年に北条高時が若干一四歳で第一四代執権となるとほぼ同時に、父から内管領職を譲り受け、幕府の実権を握った。
 『保暦間記』(←偏向性が強く、史料としては信憑性が薄い)によれば、元亨二(1322)年頃に起きた奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争を激化させ、幕府の権威を大きく失墜させたと云う。

 嘉暦元(1326)年、は、出家した執権北条高時の後継をめぐり得宗家外戚の安達氏と対立。
 高資高時の子・邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族庶流の金沢貞顕(かねさわさだあき)を執権とした。
 しかし、高時の弟・泰家らの反対により貞顕はたったの一〇日で辞任して剃髪したため、赤橋守時が(最後の)執権となった。所謂「嘉暦の騒動」であった。
 高資の専横に一応の歯止めが掛った形となったが、この時既に高資御内人ではなれない評定衆に就任する程の権勢を持っていた。

 元弘元(1331)年、高資の専横を憎む高時はその排除を図ろうとしているという風説が広まり、高資の叔父・長崎高頼等、高時側近が処罰された。
 高時は自らの関与を否定し処分を免れたが、専横を極めた高資に対しては得宗家であっても無力であった。
 そして主従も秩序もあったものじゃなくなっていた鎌倉幕府とともに、高資一族にも、北条得宗家にも、滅亡の日はすぐ近くまで迫っていたのであった。



主君の寵愛 長崎高資を重宝したのは第一四代執権・北条高時だったが、程なく彼も高資を疎ましく思う様になった。
 高時高資を寵愛した時間は決して長くないのだが、では何故一時的な寵愛は生まれたのだろうか?

 一言で云うなら、

高時がガキだった。」

 ということである。

 執権就任時、高時は一四歳に過ぎなかった。一〇代前半での元服が珍しくない時代だったが、それでも「ガキ」と見做される年齢である。
 高時の祖父は元寇を退けたことで有名な第八代執権・北条時宗で、父は時宗嫡男の第九代執権・北条貞時である。貞時の三男である高時は、長兄・次兄が早世していたことで北条得宗家当主と執権に就任することが内定していたと云っていい。
 それでも貞時逝去時はまだ八歳だった故に、第一〇代〜第一三代執権は北条家の支族から中継ぎ的に執権が輩出された(同様に、第五代時頼と第八代時宗親子の場合も、時頼逝去時に時宗が幼かったので、第六代・第七代は支族から選出した)。
 つまりはモロに血統と体裁上の年齢に達したことで、なるべくしてなった執権で、そんな高時に政治への意欲など有ろう筈もなく、彼は田楽・闘犬に耽った。お飾りとしての執権職に端から厭世的だったのか、特に高時の闘犬への傾倒ぶりはひどく、諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、終いには税として徴収し出す始末だった。
 勿論気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美が与えられたので「闘犬狂いの執権様」のご機嫌を取ろうと守護、御家人達は競って珍しい犬を飼っては献上。鎌倉には四〇〇〇〜五〇〇〇匹の犬が集められ、月に一二回も「犬合わせの日」が定められていた。学問好きで歴史にも造詣が深かったであろう徳川綱吉がこの史実をどう意見していたか取っても聞きたい気がする(笑)

 ここまで遊興に耽ってくれると高資としてもやり易かっただろう。
 まあ一四歳と云う年齢自体が「一人前」とは到底見做されない年齢だった(現代でも、法令上成人となる「二十歳」が職場を初めとする社会で「一人前」と見て貰えるのは稀である)ので、就任前から高資が「名目・政治補佐」、「実質・政治代行」を務めることは決まっていたのが、遊んでいたい高時にとっては、面倒な「仕事」を丸投げ出来る対象である高資「都合のいい存在」だった訳である。

 逆を云えば「寵愛」と云ってもそれしきのものに過ぎなかったと云うことである。当然「ガキ」もいつまでも「ガキ」のままではない。執権としての自覚も、得宗家当主としての自我もいずれは芽生えて来ることだろう。よしんば、高時が政治を完全に高資に丸投げし続けたとしても、後継者問題まで丸投げすることはなかった。

 それどころか執権退位時の高時は円喜・高資父子に殺意すら抱いていた。もし高時に早くから政治的意欲があれば執権就任時に実権を握っていた高資をもっと早くから疎んじていたであろうことは想像に難くない。



末路 後醍醐天皇が討幕の兵を挙げ、頼りにしていた足利高氏(足利尊氏)も天皇方につき、鎌倉幕府に滅亡の日が迫った。
 戦争勃発当初、長崎高資は父や安達時顕・高景等とともに強硬態度でいて、後醍醐天皇に対しても厳しい報復を主張した。
 しかし後期になって高氏が六波羅探題を落とし、鎌倉にも新田義貞軍が侵攻。迎撃に出た執権・赤橋盛時も落命し、奮戦した高資の子・高重も敗走を余儀なくされた。
 事ここに至り、幕府の滅亡は不可避となり、高資北条高時ら北条一門や父・円喜、子・高重、その他の幕臣とともに鎌倉東勝寺に火を放って自決した。
 元弘三(1333)年五月二二日、長崎高資没、享年不明。



評価と実像 まず注目したいのが、長崎高資が鎌倉幕府と運命を共にしている点である。
 所謂、「君側の奸」でも、本当に腐った奴は寄生した宿主(=お追従した主君)が死ぬ前に逃げ出す。だが鎌倉幕府滅亡に際しては最後の執権・赤橋盛時のみならず北条高時を初めとする三人の元執権並びに北条一族二八三人、安達時顕ら幕臣八六七人、そして高資と父・円喜、息子・高重もこれに殉じた。
 謂わば、長崎氏は一族挙って鎌倉幕府に殉じたのである(天皇方に降伏して斬首された弟・高貞の様な者もいたが)。特に高重は新田義貞の首を狙って戦闘すること八〇回以上に及び、最後は僅か八騎で高時の元に戻り、「最早これまで…。」と自害を勧めたと云う。

 この鎌倉幕府と長崎家の最期を見れば、長崎高資並びに長崎一族は、金と権力に汚くても主君である北条得宗家に対する忠誠心があったとみていいだろう。
 勿論、単純に「最早これまで…。」状況に「最期ぐらい潔く」と思った可能性もあるし、延命の道を探ったが八方塞だった可能性もある(現に降伏した高貞は殺された)。『保暦間記』『太平記』に描かれている長崎一族を見れば、欲の強さから生きることに執着した姿を想像しそうになるが、例によってこれらの書物が鎌倉幕府を悪玉し、高時高資を悪し様に書く傾向を差っ引く必要はある。
 ただ、その様な視点を考慮したうえで、薩摩守は「鎌倉幕府と北条得宗家あっての長崎家」との想いや自覚はあったと見ている。

 実際、元弘三(1333)年五月二二日をもって鎌倉幕府は滅びたが、北条得宗家の滅亡はもう少し先の事だった。高時の次男・北条時行(ほうじょうときつら)が信濃に落ち延びたからである。つまりは新田義貞の鎌倉襲来の過程において、長崎一族がその気になれば逃げること自体は必ずしも不可能だったとは断定出来ない。
 ここからは薩摩守の推測になるのだが、北条一族や長崎一族が鎌倉幕府と運命を共にした主因は、前述の、「幕府なくして自分達はない。」との自覚があったからではないか?と考えている。
 本来、幕府の長は征夷大将軍である。その征夷大将軍とて天皇から任命される役職の一つで、律令制度の官位から云えば正二位で、摂政関白よりも明らかに格下だった(隠居後や死後に一位を追贈されることはある)。
 ましてや将軍補佐である執権は従四位に過ぎず、執権の被官である御内人に至っては、律令制上は無位無官である。そんな立場で高資は実質上の権力を欲しい侭にしていたのだから、世情の嫌悪感は尋常ではなく、幕府滅亡後にいずれかの勢力を頼ろうにも、その首を斬られて朝廷に献上される可能性が想い斬り高かったことは少し想像力があれば容易に推測出来ることである。

 勿論、主君を蔑ろにし、賄賂を受け取っていた時点で長崎高資は立派な(?)な悪徳政治家である。古今東西収賄に走る権力者は珍しくもなんともないが、高資の場合、武士にとって命とも云えると血を巡る訴訟で、相争う双方から賄賂を貰う様では「筋を通す」と云う誇りすらない。
 死の商人に例えるなら敵対する両方の国に武器を売る様なもので、「金の亡者」と呼ばれても反論の余地はないだろう。

 ただ、高資を初めとする長崎一族の専横を許したのには北条一族の責任も小さくはない。元寇以降、御家人は(敵の土地を奪えていないので)恩賞も貰えず、戦費を賄う為の借金も返せない状況で、元の三度目の襲撃に備えさせられるという踏んだり蹴ったりの状態にあったのに、同じ襲撃に備える目的で西国における北条一門による支配は強化されたのでは人気の出る筈がない。
 そして長崎家は、現代風に云えば「北条家の召使い頭」の家格ゆえに、本来なら権力も大きくなかっただろうけれど、義務も大きくなかった筈である(それを云い出すと頼朝のクソ馬鹿野郎がしっかりしていれば北条家の専横・思い上がりも無かった訳だが)。  世間に嫌われることを次々しでかした北条家の、尻拭いを押しつけられたとあっては、それに対する見返りを求めたとしても不思議ではない。

 御家人の支持を失い、悪党が跋扈し、後醍醐天皇が敵意を向けてくる………それが高資の置かれた政治状況で、一片同情の余地がなくも無い。
 天皇方の倒幕運動に際して、正中の変では後醍醐天皇を「無関係」として日野俊基・日野資朝を罰し、その後吉田定房が討幕謀議を密告した際も天皇を流刑に留めたが、これには主家を庇おうとする日野一族(日野俊基・日野資朝)・三房(吉田定房・北畠親房・万里小路宣房)等に高資が己の立場を投影し、後醍醐への重罰を躊躇ったからではないか?と薩摩守は見ている(まあ後醍醐はだからと云って恩を感じたり、反省したりするような奴ではなかったが)。

 拙作『鎌倉施設軍事裁判』でも触れたが、鎌倉時代とは、皇室も将軍家も執権得宗家も丸で安定せずに内紛を繰り返し、多くの血が流れた悲惨な時代である。そんな世情に在って、本来なら無位無官の長崎家が権力を握ったのは、当の長崎家にとっても不幸だったかも知れない。

 正直云うと、長崎高資の人物像に対して薩摩守は大して迫れていないと思っている。単なる研究不足である。ただ様々な業績をなぞってみても、彼が大器量人とも、人格者とも思えない。政争に図っているし、姑息ながらも権力も握っていたのだから馬鹿ではないだろうけれど、大物でも決してない。
 生まれ持った環境や、乱れた世相もあってあのような生き方になってしまったとは思うが、その器量で覆い切れない大任と世の声を背負わされた彼もまた時代の犠牲者的一面があった様に薩摩守には思われてならない。
 そして生まれ持った環境ゆえの人生だったので、その最期も生まれ持った環境の最期とともにしたのだと。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新