第壱頁 源頼朝………傍迷惑過ぎる夫婦喧嘩!周囲を巻き込むな!

名前源頼朝
生没年 久安三(1147)年四月八日〜建久一〇(1199)年一月一三日
役職鎌倉幕府初代征夷大将軍
恐れた妻北条政子
恐妻要因後ろ盾確保、せこい浮気と政子の過剰な報復姿勢
略歴 超有名人物に付き略(笑)。



恐妻振り 源頼朝は正式には北条政子しか妻としなかった。あくまで「正式には」だが。
 祖父の為義も、父の義朝も多くの子を為し、それに比例して多くの妻を持った訳だが、頼朝政子しか正式な妻とせず、為した子の数も祖父・父と比べて格段に少なかった。「清和源氏の棟梁」ともなれば、数人の妻妾を抱えていて当然とも云えたが、頼朝はそうしなかった。

 頼朝が一人の夫として政子を生涯愛していたのは間違いないが、度助平の頼朝政子以外の女性に食指をそそられなかった訳ではなかった。それどころから四六時中性欲を満たしたい欲求が強い様で、頼朝が他の女性に目を向けた時期は政子が臨月にあった時と云うのが注目される。
 品の無い云い方をすれば、出産間近の妻とヤれないから他の女性=亀の前に一時的な目移りをしていたと思われるが、頼朝は亀の前の身柄を伏見広綱の邸に、そしてその事実を政子隠さんとした(まあ、バレたから歴史に残っている訳だが(苦笑))。

 勿論亀の前がちゃんとした側室だったなら堂々と(?)愛妾を抱けたことだろう。
 だが、隠していたという事は政子に亀の前と関係していることを知られたくなかった訳で、実際に時政の後妻・牧の方から政子へこの事実がバラされた折には大事となった。  早い話、政子は報復に出たのである。その手法はえげつない物で、浮気した頼朝ではなく、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させたのである。
 広綱にすれば君命に従ったのを理由に「主君の奥方」と云う逆らい得ない存在から報復を受けたのだから、とんだとばっちりであった
 政子の亀の前に対する報復感情は全く分からないものでは無いが、夫ではなく、夫の浮気相手、それも夫に命じられて亀の前を匿った伏見の邸を破壊させたと云うのがいやらしく、えげつない。

 そしてそれ以上にえげつなく、不可解なのは頼朝である。
 第三者を巻き込むというこの夫婦の愚劣な夫婦喧嘩はこれで収まらず、這う這うの体で逃げ出した亀の前の姿に激怒した頼朝は、過剰報復を命じた政子ではなく、政子の命令に従った牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻を切り落とすと云う恥辱を与えた。
 宗近もまた、伏見同様、「義理の孫」にして「主君の奥方」と命令に従って、「当の主君」という最も逆らい得ない相手から代理報復を受けたのである。

 事態は悪しきエスカレートを遂げ、今度は頼朝のこの仕打ちに、頼朝の岳父で、宗近を岳父とする北条時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになった。そしてそれでも政子の怒りは収まらず、伏見広綱は遠江へ流罪となった。

 一言云いたい………

 頼朝政子!夫婦喧嘩するならテメー等二人で勝手にやっとれやぁ!!!」

 と。

 伏見は主君の浮気隠蔽を命じられ、宗近は過剰な報復を命じられ、快諾し辛かったであろう命令に従っただけで決して逆らい得ない相手から過剰な報復を受けたのである。
 現代社会で云えば、社長の命令に従って会長に報復され、その会長に命じられて報復した者が社長に報復されたようなものである。そして当の本人達は掠り傷一つ追わず、何の罪悪感も抱かず、謝罪一つしていないのである(薩摩守が知る限り、宗近・伏見が赦免されたり、頼朝夫婦の謝罪を受けたりした形跡は皆無である)。

 頼朝は寿永元(1182)年七月に亡き兄・義平の未亡人だった祥寿姫(新田義重の娘)を妻に迎えようとしたことがあったが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかったと云う事があった(政子が亀の前の邸を襲撃させたのは、この四ヶ月後)。無理もない話である。



恐妻、その背景 結論から云えば、源頼朝は間違いなく北条政子を愛していた。そしてその子に恐妻の要因もあったと見られる。
 忠義も血縁も降伏も丸で信用しなかったこの源頼朝と云う男(一応、「恩に着る」と云う言葉は知っていたようだが)と北条政子及び北条家との絆は独特を通り越して不可解ですらある。
 弟達に冷たく(同母弟には優しかったが)、馳せ参じた坂東武者も不平派と見れば粛清し、降伏して来た者は丸で信じない人物だったが、薩摩守は源頼朝を血も涙もない冷血漢と見ている訳ではない。愛情と云う感情は持ちつつも、その優先順位が厳格過ぎた様に思われる。
 息子の頼家が初めて鹿を射た際にそれをわざわざ書状にして送らせて政子を呆れさせたのは有名である。
 源義高(木曾義仲の嫡男で娘・大姫の許婚)を頼朝が殺したことで大姫が義高慕わしさの余り若い命を散らした際の夫婦揃っての嘆き振りは頼朝嫌いの薩摩守でも胸が痛む。
 要は自分を含む自分に近い血縁・縁戚への強い愛情を持ちつつも、順位格差が酷いのが源頼朝と云う男なのだろう。

 一般に「恐妻」は、「妻に嫌われたくない。」と云う感情から起きる物らしいが、それでも頼朝は浮気を辞めず、バレた際には報復する政子自身は全く攻めず、政子の命令に従った者に報復したのである。
 頼朝政子に嫌われたくない一心で直接報復をしなかった(そしてそれでも浮気を辞めなかった)訳だが、かと云って、頼朝はひたすら政子の云いなりになっていた訳ではない。
 頼朝が静御前の義経を慕う舞に激怒した際に、同じ女として静の気持ちが分かると云って庇った政子の怒りにぐうの音も出なかったのは有名な話だが、それでも懐妊していた静の子(=義経の子)が男児として生まれた際には、その命が断たれるのを政子は止められなかった。
 では何故に、頼朝はかほどまでに政子を恐れ、政子もかほどまでの実力行使に出れ得たのであろうか?

 政子がとんでもなく嫉妬深かったのは、それはそれで事実だが、それを差っ引いてもえげつない。一応、政子がここまで過剰に走ったのには、北条家の立場を守らんとしたとの弁護論を聞いたことがある。
 家柄で語れば、北条家は平家の流れを汲むと云っても、伊豆の小土豪に過ぎなず、その娘に生まれた政子は、清和源氏の棟梁である頼朝の正室としては余りに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったと云われている。
 結果的に後世、北条家は鎌倉幕府を牛耳ったが、その過程で北条氏は本来同格だった有力御家人を何人も謀略に嵌め、滅ぼした。「執権」と云うのも正式な官職ではなく、権威的には北条家は大した家柄とは云い難かった。
 それゆえ政子は万が一にも「北条の血を受け継がない頼朝の子」を誕生せしめない為にも、頼朝が他の女性を寵愛するのを断固として阻止せんとした訳である。

 一方で、頼朝の方でも、政子を愛しつつも、北条家という後ろ盾も共に重んじたい気持ちがあり、それゆえに政子に強く出られなかったと推測される。
 背景的に頼朝と北条家の関係、そして頼朝自身の愛憎を考察するのに彼の流人としての青春時代が背景にあるのも見逃せないだろう。
 平治の乱に敗れて捕らえれ、本来なら父や兄と同様処刑されるところを平清盛の義母・池ノ禅尼の取り成しで助命されたのは今更な話だが、伊豆蛭ヶ子島に流された頼朝は比較的自由な生活を送りつつも、常に様々な意味で監視の目が光っていた。
 年頃になった頼朝は伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋仲となり、子供まで成したが、平家の威光を恐れた祐親は頼朝と娘を引き裂き、その子(つまり祐親にとっては孫)まで殺害した。さすがにこの時頼朝を襲った傷心には同情する。
 ついで頼朝が恋仲となったのが政子だったが、政子の父・北条時政は当初これに激怒した。時政もまた祐親同様、平家の顔色を慮った訳で、政子を同じ伊豆の代官である山木兼隆に嫁がせたが、政子はすぐにここから逃げ、娘の決意を痛感した時政も腹を括り、頼朝に賭けた。

 掛かる婚姻を経たとあっては、頼朝にとって政子は真に「糟糠の妻」で、その実家である北条家の面々は何としても味方につけておきたい、間違っても敵に回せない一族だった。
 実際、味方すると決めた以上、北条家もとことん頼朝に随身し、石橋山の戦いでは時政の嫡男・宗時が戦死している。
 年齢を経る程に人を信じなくなった頼朝だったが、さすがに一介の流人に過ぎなかった自分を、時の最高権力者を敵に回すのを覚悟の上で随身してくれた妻とその一族を大切にする想いはあった様で、頼朝の恐妻の一因となっていであろうことは想像に難くない。

 過去作で何度も広言しているが、薩摩守は源頼朝が大嫌いである。何の権力も武力も持たない身から天下を取った者が猜疑心に捉われるのは古今東西枚挙に暇がないが、それら数多くの例と比較しても頼朝の猜疑心は酷過ぎると思う故に。
 だが、そんな頼朝も「恩義」という言葉は知っていた様で、平家族滅の際にも、自分を助命してくれた池乃禅尼の実子・平頼盛の命は助けている。少々えげつない書き方をすると、政子以外の女性に対する想いはこいつの性欲で、政子及び政子との間に出来た子供達への想いを観れば、純粋に愛情は持っていたと思われる。

 厄介なのは、善なる想い・情・思想は行き過ぎれば悪しきそれら以上に厄介という事だろうか?頼朝が一時戦場で行方不明になった時、頼朝の身を案じる政子を励まさんとして、頼朝の弟・範頼が、「私がいます。」と云ったのを知った頼朝は、「範頼が政子を狙っている………。」と邪推したのも一因となって、後に範頼を殺めている。
 浮気騒動は上述した通りである。とにかく、改めて頼朝政子に云いたい…………他人を巻き込むな!!!………と。


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令和四(2022)年一月三日 最終更新