第弐頁 足利義政………恐れているのか、頼っているのか………

名前足利義政(あしかがよしまさ)
生没年永享八(1436)年一月二日〜延徳二(1490)年一月七日
役職室町幕府第八代征夷大将軍
恐れた妻日野富子
恐妻要因頽廃と関心有無の両極端性?



略歴 日本史上、最も陰惨で多くの血が流れた時代、戦国時代…‥…何故に世の中がかほどに酷い時代を迎えてしまったのか、その責任は様々な人物にある訳だが、薩摩守が独断と偏見で選ぶ「戦国時代将来のA級戦犯」はこの足利義政である。

永享八(1436)年一月二日、室町幕府第六代将軍足利義教を父に、側室日野重子を母に、その五男に生まれた。母は日野重子で、幼名は三寅、後に三春
後継者以外の男児は出家して然るべき京都の寺院に入寺すると云う足利家の慣例に従っていたが、父と兄が相次いで不幸に見舞われたことで、期せずして世に出ることになった。

嘉吉元(1441)年六月二四日、父・義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害され、嫡男にして同母兄である義勝が第七代将軍となった。だが、将軍就任から僅か八ヶ月後の嘉吉三(1443)年七月一二日に、義勝は赤痢の為に享年一〇歳で早逝した。勿論嗣子がいる筈もなく、義勝の同母弟であった三春は八歳にして室町幕府第八代征夷大将軍に選出された。
文安三(1446)年一二月一三日、後花園天皇より、義成(よししげ)の名を与えられ、文安六(1449)年四月一六日に元服し、同月二九日に将軍宣下を受けて、齢一一歳にして正式に第八代将軍に就任した。

一四歳の時に政務を執る「判始」の儀式を行い(←先例より一年早い)、慣例に従って管領細川勝元が一旦辞意を表明したが、これは将軍親政を始める儀式のようなもので、実際に現代で云えば中学生にしかならない年端の者に実権を握らせたか否かは説明不要であろう。
ただ、義成によって度々自筆安堵状が発給され、宝徳二(1450)年には義成の独断に抗議した母・重子が出奔するという事件が起きたと云うから、全くの傀儡ではなかったと思われる。だが、やはり実権は乳母の今参局(通称「御今」)、育ての親とも云える烏丸資任、将軍側近の有馬元家が握っていた。
この三名は名前・姓・通称が「ま」で終わることから、彼等を君側の奸として嫌った洛中の人々は落書で「三魔」と呼んだ。当然、この三名に対抗する者もいて、母重子も度々人事に介入した。
享徳二(1453)年六月一三日、後花園天皇の第一皇子(後の後土御門天皇)の諱が、成仁親王と決まったことをうけ、親王の諱と同字である「成」の字を忌避して、義成義政と改名した。

将軍就任時は若いながらも情熱的に政務に取り組まんとの意欲を持ち、守護大名の家督相続に関する内紛解決に積極的に介入し、時には辣腕を振るい、関東での享徳の乱を関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定等に鎮圧させるといった将軍振りを発揮した義政だったが、有力守護の内紛、土一揆の頻発、武士と寺社勢力の対立、飢饉や自然災害と云った問題が後を絶たず、それらの解決を巡って周囲とそりが合わなかったり、有力大名の中に義政に反発する者も現れ出したりし、徐々に義政は政務に倦んでいった。

義政が二六歳となった寛正二(1461)年、大飢饉が京都に大きな被害をもたらしていた。一説では餓死者は八万二〇〇〇の人に及び、賀茂川の流れが死骸のために止まった程であったとされる。
三年後の寛正五(1464)年、疲れ果てた義政は二九歳の若さで将軍引退を決意し、(この時点では)実子が居なかったことから弟・義尋を還俗させ、養子として次期将軍とした。
これに対して義尋改め足利義視はまだ若い兄に実子が出来た際に揉め事になるのを厭うて一度は断ったが、義政は実子が生まれてもすぐに出家させるとして、誼を九代将軍とすることに変更はないとした。
だが、義視が懸念した様に。一年も経たない寛正六(1465)年一一月に妻・富子が男児(後の足利義尚)を出産した。
義尚誕生を受けて義政が義視との前約をどう考えていたのかは定かではない(義視は義尚誕生後も順調に官位昇進を続けていた)が、義尚の乳父であった伊勢貞親等近臣は義政の将軍継続を望み、義視を支援する山名宗全・細川勝元等との対立は深まり、義尚派と義視派の諍いは結果的に応仁の乱に至ることとなった。

 文正二(1467)年一月、畠山家の家督争いに対して義政は各大名に介入を禁じたが、山名宗全は従わず、宗全と不仲だった細川勝元との戦闘に及んだ。義政は当初は停戦命令を出したが、三月五日に「応仁」と改元された同年六月に東軍の勝元に将軍旗を与え、西軍の宗全追討を命令し、応仁の乱は一一年にも及ぶ戦乱の渦中に洛中を陥れた。

応仁の乱は詳細をまとめればそれだけで一つのサイトになりかねない程複雑で、対人関係も責任所在もややこしい展開を辿ったが、文明五(1473)年、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が相次いで死んだことを契機に、義政は一二月一九日に将軍職を義尚へ譲って公式には隠居した。
しかしこの時の義尚はまだ九歳。当然政務を執れる年齢ではなく、隠居した者が実権を握り続けると云う歴史のお約束(苦笑)がここでも為された。実権は義政が握り、日野勝光(富子の兄)や伊勢貞宗がこれを補佐した。
文明九(1477)年にようやく応仁の乱が終わり、文明一一(1479)年には義尚が判始めを行い、政務を執ることとなったが、義政が実権をどうしたか説明の必要はあるまい(苦笑)。
これに不満を抱いた義尚は奇行に走るようになり、翌年・翌々年と髻を切って出家しようとする騒ぎを起こした。

 もはや家族関係にすら倦んだ義政は文明一三(1481)年に富子から逃れるように長谷の山荘に移り、翌年から東山山荘の建築を本格化させ、翌年には東山山荘の造営を初め、祖父義満が建てた金閣を参考にした慈照寺、通称・銀閣を建てた。
 翌文明一五(1483)年六月に東山山荘に移り住み、以後義政は「東山殿」と呼ばれるようになったが、相変わらず義尚には実権の殆どを譲らなかった。

文明一七(1485)年五月、義政と義尚、互いの側近奉公衆が武力衝突する事件が起き、義尚との親子仲は劇的に悪化。これを受けて六月、義政は剃髪して出家し、翌文明一八(1486)年一二月には改めて政務からの引退を表明した(それでも対外関係と禅院関係に関しては最後まで権限を手放そうとしなかった)。

延徳元(1489)年、義尚が六角討伐の陣中、二五歳の若さで死去。嗣子はなく、義政はここで再び政務をとる意思を明らかにし、実際に政務を執った。しかし同年八月に義政は中風に倒れ、翌延徳二(1490)年一月七日、銀閣の完成を待たずして義尚の後を追うように薨去した。足利義政享年五五歳。



恐妻振り 足利義政の正室は日野富子である。富子の祖父・日野義資は義政の母・日野重子の兄で、義満の代から将軍家と姻戚に在った日野家が更に結び付きを強める為に為した婚姻であることは誰の目にも明らかだった。

 二人は康正元(1455)年八月二七日に義政が二〇歳、富子が一六歳の時に結婚。既に側室もいた義政だったが、富子との仲はそれなりに良好で、長禄三(1459)年一月九日には第一子が生まれ、後にも二人の間には義尚を初め、三人の子が生まれた。
 だが、最初の子は不幸にしてその日の内に夭折した。医学が未発達な当時、乳幼児の早世は決して珍しい話ではなかったが、義政富子の嘆きは尋常ではなく、これに付け込んだ重子が、幼児の夭折を「今参局が呪いを掛けたせい。」と讒言すると、悲嘆からこれを真に受けた義政は乳母であった彼女(一説には性教育も実践で担い、女児もいたと云われている)を琵琶湖沖島に流罪とし、御今は途中で無理矢理自刃させられた。
 その後、義政の側室四人も追放され、富子は義母にして大叔母である重子と共に御台所としての地位を確固たるものとしていた。

 そんな二人の夫婦仲が明らかに冷え切っていたのは応仁の乱前後で、推測するに、義政が義視に将軍職を譲ることも、その際の約束も富子の同意を得ていなかったのだろう。富子は当然の様に自分が腹を痛めて産んだ義尚の将軍後継を望み、義尚の後見を務めた山名宗全とともに義視と対立した。
 だが、実際に応仁の乱が最高権力者にして後継問題の責任者にもかかわらず義政富子もどっちつかずの態度に終始した。一応立場としては一貫して義視を後援した細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして六〇億円もの資産を得たと云われている。

 採り上げておいて何だが、そんな富子義政が恐れていたかと云うと微妙である。
 愛情があったとは思えないが、憎んでいたとも怖がっていたとも思えず、恐らくは関わらずに趣味に没頭したかったのであろう。結果、互いが互いを無視する(と云うと些か過言だが)タイプの夫婦関係に陥ったのだろう。
 一般に日野富子は守銭奴振りで史上の評判も芳しくないが、昨今では義政が余りに政治に無関心・無責任で、幕府と朝廷が執り行う最低限の儀式費用を捻出する為にも富子が動かざるを得なかったとの擁護論も為されている。
 「やらねば…。」と思ったことを徹底的にやり遂げんとする性格的には二人は似た者夫婦で、同時にこの手の性格の人物は関心のないことには恐ろしく無責任である。

 結果、応仁の乱最中の文明三(1471)年頃、後土御門天皇が富子の侍女に手を付けた際に、後土御門天皇と富子が密通したとの噂が広まる程、夫婦仲は冷却化していた(本当に密通していれば将軍の面子から云っても富子は斬られていた筈である)。
 義尚への将軍譲位の二年後、義政は小河御所を建設して一人で移り、文明八(1476)年一一月に室町亭が焼失した際に富子を迎えはしたものの、五年後に長谷聖護院の山荘に移るなどし、二人は別居と同居を繰り返した。
 憎むでもなく、恐れるでもなく、ただただ我意を押し付け、応じぬと独断専行に走る妻と離れたかったのが義政の本音であろう。もっとも、富子をそんな女にしたのは義政の自業自得と薩摩守は見ているのだが。



恐妻、その背景 大叔母・日野重子の辣腕振りや、下手な商人・政治家顔負けの荒稼ぎ振りや、夫の意向を無視した義尚擁立姿勢などから日野富子はやり手で、夫・足利義政を尻の下に敷いていたイメージが持たれがちだが、二人の間には四人の子が生まれており、義政が政治に倦み疲れた後にも義尚が誕生、つまり夫婦の営みが有った訳だから、元々の夫婦仲は悪くなかったのだろう。
 また、義政が将軍位を譲らんとした義視の正室は富子の実の妹で、富子も義尚の将軍就任を熱望しつつも、義視への害意を持っていた訳ではなかった。
 故に夫婦仲をおかしなものにしたのは、両者の関心事への熱中と、無関心時への冷淡さの両極端性が夫婦仲に反映されたもの、と薩摩守は見ている。

 それゆえ夫婦仲が良い時は連年子供を為し、最初の子供が即日亡くなった折は讒言を真に受けて乳母を誅殺するという暴挙に出た。
 一方で、政治にも夫婦仲にも関心がなくなると夫は夫で趣味に没頭して自分がもたらした後継者問題にも態度をはっきりさせず、妻は妻で金儲けと夫を無視した幕政関与に走った。
 両者が歩んできた人生に同情の余地や環境の悪さを感じないでもないが、やはり無責任過ぎ、これに振り回され、戦乱に命を落とした人々の無念を想えばこの夫婦の在り様には憤りを禁じ得ない。


 少し話が逸れるが、薩摩守は応仁の乱が起こるのを防げず、世を戦国に追いやった事だけをもって足利義政を酷評しているのではない。
 室町幕府の征夷大将軍が有力守護大名の諍いに翻弄され続けたのは始祖尊氏以来の、室町幕府の宿痾のようなものだったし、そんな幕府の将軍に幼くして就任せざるを得なかった義政に同情の余地が無いでもない。
 著名な作家である永井路子氏は、父にして先々代である義教の強権振りとそれによる末路から「周囲の人々は義政を『死なぬように、生きぬように』お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だ。」と評し、歴史学者である赤松俊秀氏は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ。」と評している。
 簡単に云えば、生まれ落ちた環境が悪かったと云えるという事だろう。

 だが、薩摩守は足利義政と云う人物を単なる文弱の徒とは見ていない。将軍就任当初は若いながらも積極的に政務に取り組み、有力守護大名を抑えると云う歴代室町将軍が抱えていた難題にも意欲的に当たり、幾許かの成果も挙げていた。
 同時に、本当に自分が大切と思う権利を握ることにかけては何者も譲らない意志の強さがあり、それ故に母を含む身内とも、師とも、側近とも争うことを辞さなかった。
 つまり、それなりに有能で、物事に本気で取り組む際にはかなりの行動力を見せる人物で、それ故に東山文化の大成者となり得たのであろう。
 実際、文化面では功績は極めて大きく、庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山文化は曾祖父にして三代将軍であった義満の為した北山文化に引けを取っていない。
 慈照寺に代表されるわび・さびに重きをおいたその趣は織田信長をも唸らせた初花、九十九髪茄子など名茶器をも生み出した。これは決して「下手の横好き」で出来ることではなく、才能と資質と行動力のすべてを要した筈である。

 つまり、義政が全くの無能者で血筋に翻弄されただけの人物ならば、薩摩守は彼を憐れみこそすれ酷評はしないだろう。だが、義政には才能もセンスもあり、何より本気で取り組んだことには何物にも譲らず、妨害もさせない意志の強さもあったゆえに、「東山文化を為すのに発揮した能力の一分でも本気で世の安定に向けていれば、戦国の世は無かったかもしれないのに………。」との憤りを禁じ得ないのである。
 勿論戦国時代と云う酷い時代の到来を義政一人の責に帰するつもりはないし、室町政権の構造的欠陥を考えればいずれは訪れたかも知れないが、少なくとも義政が本気で世の安定に取り組めば彼の代に大乱が起きることなく、戦国の世が到来してしまうにしてもかなり後々にまで延ばせ得たのではないか、と思われてならないのである。

 同時に、全力を挙げれば世の中を御し切れずとも、女房や後継者問題ぐらいは御し切れたであろうとも。


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令和四(2022)年四月四日 最終更新