第壱頁 藤原麻呂……辣腕家の中の穏健派

末弟File壱
名前藤原麻呂(ふじわらのまろ)
生没年持統天皇九(695)年〜天平九(737)年七月一三日
藤原不比等(ふじわらのふひと)
五百重娘(いおえのいらつめ)
武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)
官位・立場従三位参議、藤原京家始祖
兄弟仲良好


略歴 藤原麻呂は持統天皇九(695)年、藤原不比等を父に、その異母妹・五百重娘を母四男に生まれた(当時は母親が異なれば兄妹でも婚姻出来た)。

 官人として出仕し始めた時期は不明だが、正六位下美濃介就任を皮切りに養老元(717)年に二三歳で従五位下に昇進。養老四(720)年に父・不比等に死なれ、長兄・武智麻呂が家督を継ぐと翌養老五(721)年に従四位上・左右京大夫と昇進を重ねた。
 神亀元(724)年に甥である聖武天皇が即位すると兄達は次々に昇進する一方で麻呂はなかなか昇進しなかったが、神亀三(726)年に正四位上となった。

三年後の神亀六(729)年、長屋王の変で藤原四兄弟最大の政敵・長屋王が自死を命じられると四兄弟の権勢は至極となり、麻呂も従三位に昇叙され公卿に列した。
天平三(734)年、官人の高齢化に伴い、麻呂は三兄・宇合と共に参議となり、兵部卿・山陰道鎮撫使を兼任し、天平九(737)年に持節大使、と昇進を重ねた。

 役職の関係でしばし陸奥地方に出向していて、天平九(737)年五月末〜六月初旬頃に帰京したが、当時平城京は天然痘による疫禍の最中に在り、麻呂もこれに感染し、七月一三日に薨去した。藤原麻呂享年四三歳。



兄弟 藤原不比等は四人の男児を儲けており、藤原麻呂はその四男にして兄弟における末弟である。長兄・武智麻呂とは一五歳違い、次兄・房前とは一四歳違い、三兄・宇合とは一歳違いだった。
 その中に在って、武智麻呂房前宇合の三人は蘇我娼子を母とし、麻呂だけが五百重娘を母としていた(但し、兄弟の年齢の遠近から、宇合武智麻呂房前と同腹兄弟であることを疑問視する声もある)。

 ただ、母親が異なっても四兄弟の中は良好だった。
 藤原家にとって権勢の基盤となるのは皇室との血縁の近さで、最も近い血縁の天皇である聖武天皇を産んだ宮子も、その聖武天皇に嫁いだ光明子も不比等の娘だった(四兄弟とは異腹で、宮子と光明子も腹違い)。
 麻呂にとって宮子は姉で、光明子は妹だったので、聖武天皇は実の甥にして、義理の弟でもあった。聖武天皇と光明氏は共に麻呂の六歳年下で、兄としても伯父としても年齢的に最も気楽に接する事の出来る存在だったと思われる。
 そんな血縁を重視して不比等は臨終に際して四兄弟に光明子を盛り立てて藤原家の権勢を保持することを遺言し、四兄弟はこれを忠実に守った。

 加えて四兄弟は血縁に頼るだけでなく、有能でもあった。
 武智麻呂は病弱ながらも博識で学問に秀でていたことが史書でも特筆されている。房前は寡黙なやり手で政治的手腕は四兄弟随一で、一時は武智麻呂より先に出世したこともあった。宇合は情に脆い武人で、末弟である麻呂は酒と音楽を愛する温厚人で、四兄弟はそれぞれに得意分野が異なり、各々が自身の得意分野を発揮し、足りないところは他の兄弟が補った。

 長屋王の変で最大の政敵長屋王が除かれると四兄弟にとって政権は掴むよりも手放すことの方が難しい状態となり、四兄弟が相次いで病死した天平九年(737)時、八人の閣僚の半数を四兄弟が占めていたが、武智麻呂が第一位、房前が第三位、宇合が第四位、麻呂が第五位で、上位独占と云っても過言ではなかった。
 二位の地位こそ多治比県守(たじひのあがたもり)に譲っていたが、彼は当時七〇歳の高齢で、年齢的に上位にいただけに等しかった。それだけに天然痘の流行で四兄弟と県守が相次いで死去すると、残った六位から八位は毒にも薬にもならない連中で、政務を停止せざるを得ない状況に陥ったのだった(六位の鈴鹿王は兄・長屋王と似ても似つかぬ大人しい控え目な人物で、七位の橘諸兄は凡庸(後には敏腕政治家となったが)、八位の大伴道足は御老体)。

 ただ、皮肉なことに、兄弟仲の良さは四兄弟が相次いで命を落とす遠因となった。
 上述した様に麻呂の死因は天然痘で、四兄弟全員がこれに感染・落命したのは歴史的にも有名だが、その中で麻呂は二番目の死者となった。
 最初に次兄の房前が病死し、麻呂薨去の一二日後に長兄武智麻呂が死んだ。宇合の病没は翌月だが、四兄弟の相次ぐ感染・病死は兄弟故に相互に見舞った際に感染したものと見られている。
 殊に麻呂武智麻呂の忌日は近く、武智麻呂は長兄故に房前麻呂を見舞ったとことだろうし、時期的に末弟である麻呂を見舞った際に感染した可能性が極めて高い。

 四兄弟が急死した時、その息子達はまだ若く、政権は橘諸兄、吉備真備、玄ム等に委ねられ、大宰府に飛ばされた広嗣(宇合長男)が反乱を起こした悪影響もあって藤原氏はしばしの雌伏を余儀なくされた。
 それでも四兄弟の息子達は血脈と官位を保持し、武智麻呂を始祖とした南家、房前を始祖とした北家、宇合を始祖とした式家が成立し、麻呂の立てた家は彼の官職である左右京大夫に因んで藤原京家と呼ばれた。



特別な立場 まず藤原麻呂の特別な立場として、上述した様に四兄弟の中に在って彼だけ母親が異なったことが挙げられる。そのせいかどうかは分からないが、兄三人がそれなりに凝った名前を付けられたのに対し、麻呂だけが非常に簡単な名前である。現代で例えれば、兄三人がキラキラネームほどではないにしてもそれなりに考えた名前を付けられる中、末弟だけ「太郎」と付けられたようなものと云えようか?
 ただ、これも上述した様に、それを理由に彼が兄達から疎んじられた様子は見られない。当時は異腹の兄弟がいることは珍しくなかっただろうし、不比等の遺言もあって、四兄弟は異腹姉妹宮子が生んだ聖武天皇と、その聖武天皇に嫁いだ光明子との血縁を武器に二人を盛り立てて官界でのし上がったのである。
 それでなくても、当時の皇族・官界は家系図を描けば訳が分からなくなる程血縁関係者だらけで、血縁と対人関係の好悪は必ずしも参考とならなかっただろう。

 ただ、麻呂自身は兄と異なる己の出自にある種の劣等感を抱いていたと見られている。
 弁舌に恵まれた彼は「上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ。」と語っていたという。
 兄達とは異なって、権勢欲や上昇志向に乏しく、四兄弟の中で唯一人の穏健派と見られた彼はその薨去を悲しむ人も多かったと云われているが、その自虐的とも思われる性格は出生が影響していると見られている。
 彼の母である五百重娘は父不比等の異母妹だったが、五百重娘は元天武天皇の夫人であり、『尊卑分脈』(南北朝時代から室町時代初期に完成した姓氏調査の基本図書の一つ)には不比等と五百重娘の間に密通があって麻呂が生まれたとされている。
 出生を理由に兄達から邪険にされた記録は見られないが、神亀元(724)年に甥にして義弟である聖武天皇が即位したとき、それに伴って武智麻呂房前が正三位に昇叙、翌神亀二(725)年に蝦夷征討の功労により宇合が従三位に叙せられる中、麻呂のみ五位に留まりしばらく昇進の機会がなかった。
 もっともその翌神亀三(726)年に麻呂も正四位上(←二階昇進である)に叙せられたので、これは単純に四人が四人とも一度に出世しては身内贔屓過ぎるとの非難が寄せられるのを憚ったか、単純に官職数の問題だったのではなかろうか?

いずれにせよ武智麻呂が学、房前が政、宇合が武で活躍する中、麻呂は酒と音楽を愛した訳だが(『万葉集』に 三首の和歌、『懐風藻』に五首の漢詩が採録)、四兄弟の得意分野は概ね子孫達にも継承された。最終的に藤原家の栄耀栄華を極めたのは最も政治的手腕に優れていた房前を始祖とする北家で、麻呂を始祖とする京家は早々に政治家としては埋もれたが、文化面で細々と続いたと見られる。


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令和六(2024)年四月四日 最終更新