第弐頁 源行家……THE・連絡係

末弟File弐
名前源行家(みなもとのゆきいえ)
生没年永治元(1141)年〜文治二(1186)年五月一二日
源為義(みなもとのためよし)
鈴木重忠(すずきしげただ)の娘と云われるが不肖
義朝(よしとも)、義賢(よしかた)、義広(よしひろ)、頼賢(よりかた)、頼仲(よりなか)、為宗(ためむね)、為成(ためなり)、為朝(ためとも)、為仲(ためなか)
官位・立場従三位参議、藤原京家始祖
兄弟仲希薄
略歴 源行家は永治元(1141)年に清和源氏の棟梁・源為義の一〇男として(康治二(1143)年生まれとも云われるがはっきりしない)。出生地も、母親の出自も明らかではない(鈴木重忠(すずきしげただ)の娘らしい)。
 同母姉が熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(後に第一九代熊野別当に就任)に嫁いでいた縁があってか、熊野新宮に住んでいたことで一般に「新宮十郎」と呼ばれた。尚、初名は「義盛」だが、本作では「行家」で統一させて頂く。

 前半生の経歴は明らかでなく、平治元(1159)年の平治の乱で長兄・義朝に従って源氏方として参戦したと『平家物語』にあるが、敗戦の結果義朝、その長男義平、次男朝長が落命し、頼朝以下の息子達も捕らえられたことを考えると行家に何の記録も無いのは不可解で、義朝軍に従軍していたする『平家物語』(←そもそも厳密には史書ではない)の記述は信憑性に欠ける。

 いずれにせよ清和源氏一族に在って影の薄い存在だった様で、その後歴史上に名前が出てくるのは、治承四(1180)年になってからで、平治の乱から二〇年以上が経過してからだった。
 行家は遠縁に当る摂津源氏の棟梁で、平家政権にあって唯一人優遇されていた源頼政に召し出され、頼政と共に平家打倒を画策していた以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第二皇子)の令旨を全国各地の源氏の元に伝えに走った。
 この時、伊豆の代官山木兼隆を倒して挙兵しようとしている源頼朝の元に山伏姿で現れたのを行家像としている人が大半ではなかろうか?

 メッセンジャーとしての役割に従事していた行家だったが、その間に頼政と以仁王は平家との戦いに敗れて落命しており、行家は三河・尾張で勢力を保ち、頼朝の弟・義円とともに墨俣の戦い(←勿論織田軍対斎藤軍のそれでは無い(笑))、矢作川の戦いに挑んだが、いずれも大敗し、甥である頼朝を、次いで同じく甥である源義仲(木曾義仲)を頼った。

 義仲が倶利伽羅峠の戦いに勝利して寿永二(1183)年に都入りすると行家も共に後白河法皇に拝謁し、朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家として、彼自身は従五位下・備後守に叙任された。
行家は二人の甥に劣ることを抗議し、備前守とされ、平家没官領九〇ヶ所余りを与えられた。やがて山村育ちで都の儀礼を知らない義仲が法皇や貴族等の不興を買うと熊野育ちで弁舌が立つ行家は院内に入り浸り、法皇に取り入った。結果、義仲とも不和となり、平家討伐に出ると称して京を脱出し、播磨室山で平知盛・重衡軍と戦ったが、ここでも敗れた。

やがて義仲が頼朝の派遣した源範頼・義経兄弟に敗れて戦死すると行家は元暦元(1184)年二月に院の召し出される形で帰京。鎌倉軍による平家追討には参加せず、義経に接近しながらも鎌倉にも向かわず、頼朝からは半ば独立した立場をとって和泉と河内を支配していた。
これにより頼朝と対立した行家は文治元(1185)年八月に頼朝が行家討伐を計るに及ぶと直前の壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、一〇月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、四国地頭に補任された。
しかし行家等に賛同する武士は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、一一月三日に行家・義経一行は都落ちした。
西国渡航を図るも暴風雨の為にならず、和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷に潜伏したが、文治二(1186)年五月、地元民に密告され、頼朝の命を受けて鎌倉からやって来た北条時定の手兵によって捕らえられ、山城赤井河原にて長男・光家、次男・行頼とともに斬首された。永治元(1141)年生まれ説が正しいなら、源行家の享年は四六歳。



兄弟 新宮十郎の名前が示す様に、源行家は源為義の一〇男で、長兄の義朝 (保安四(1123)年生まれ)とは一八年が離れている。勿論当時としては兄と弟が親子ほど年齢が離れているのは珍しい話ではなく、末弟ともなると兄の子である甥の方が年上であることもままあった話ではある(義朝の三男である頼朝とは六歳しか違わず、義朝長男の義平とは同年生まれ)。
 また、これだけ兄弟が多いと丸で顔を合わせないことも珍しくない。まして義朝行家の兄弟は数々の戦いで袂を分かちまくっている。そこで兄弟関係を整理する為に下の表を参照して頂きたい。

源行家の兄達
兄弟順位 名前 生年 行家との年齢差 没年
長男 義朝 保安四(1123)年 一八年 平治二(1160)年一月三日(平治の乱から逃亡中に謀殺)
次男 義賢 不詳 不詳 久寿二(1155)年八月一六日(兄・義朝の子・義平と争い、敗死)
三男 義広 不詳 不詳 元暦元(1184)年五月四日(源義仲一味として追討されて戦死)
四男 頼賢 不詳 不詳 保元元(1156)年七月三〇日(保元の乱に敗れて父・弟と共に刑死)
五男 頼仲 不詳 不詳 保元元(1156)年七月三〇日(保元の乱に敗れて父・兄弟と共に刑死)
六男 為宗 不詳 不詳 保元元(1156)年七月三〇日(保元の乱に敗れて父・兄弟と共に刑死)
七男 為成 不詳 不詳 保元元(1156)年七月三〇日(保元の乱に敗れて父・兄弟と共に刑死)
八男 為朝 保延五(1139)年 二年 嘉応二(1170)年四月六日頃(伊豆七島で暴れ、追討されて自害)
九男 為仲 不詳 不詳 保元元(1156)年七月三〇日(保元の乱に敗れて父・兄と共に刑死)

 まず行家兄弟の兄弟仲は御世辞にも一枚岩とは云い難く、特に長兄義朝、八兄為朝はかなり乱暴である(当時としては「頼もしい」とされたのだが)。
 行家が一五歳の時、次兄・義賢が自分と同い年の甥・義平によって殺されている。また八兄為朝は赴任先の九州で暴れた為に父・為義が検非違使を解任される有様だった。
 そんな兄弟が大きく袂を分かったのが保元元(1156)年の保元の乱で、崇徳上皇と後白河法皇の諍いに関与して父・為義と七人の兄が上皇方についた。長兄義朝だけが天皇方についた訳だが、周知の通り乱は天皇方の勝利に終わり、後白河天皇から論功行賞を一人された信西は天皇方についた源平の面々に斬首を云い渡した。

 信西が云い渡した極刑は多くの人々を驚愕させた。
 というのも、平安京では大同五(810)年の薬子の変で藤原仲成が処刑されて以来、死刑は敗死されていた。厳密には残っていたが、「主上の恩情により死を一等減じ………。」として流刑に留まるのが慣例化していたのだが、それが三四六年振りに復活したのである。
 敗戦に際して、為義は徹底抗戦や逃亡を訴える息子達に対して、「義朝が自らの勲功に替えても自分達の命を助けてくれる筈。」と説得して出頭したのに斬首刑に処されたのである。それも義朝の手で執行することが命じられたのだから、後々信西が多くの人々に嫌われたのも無理なかった。
 上皇方についた者として、平忠正も打ち首となったのだが、信西は懇意にしていた平清盛の叔父といえども助命を許さず、忠正もまた清盛の手で処刑されているから、三五〇年近く行われなかった死刑を命じた信西は酷薄な人物だったのだろう。

 ともあれ、この処分で行家は父と六人の兄(義広頼賢頼仲為宗為成為仲)を失った(武勇で人気のあった為朝だけ流刑に留まった)。一歳しか違わない一七歳の為仲も処刑を免れなかったことから、行家は天皇方・上皇方のどちらにも加わらなかったと思われる。

 保元の乱の三年後、今度は長兄の義朝平治の乱を起こし、『平家物語』では行家義朝軍に加わったと思われるが、上述した様に薩摩守はこれに懐疑的である。
 平治の乱で敗れた源氏方は行家の甥にして一三歳で初陣した頼朝も本来なら処刑される所だった。清盛義母・池之禅尼の助命嘆願で死を一等減じられたのは有名だが、清盛は頼朝より更に若いその弟達も捕らえ、仏門に入ることを条件に助命しているのだから、平治の乱当時一九歳だった行家義朝方に従軍していれば、必ず捕らえられ、死罪を免れたとしても流刑は免れなかった筈である。

 歴史的に、頼朝挙兵の重大イベントに居合わせたことでそこそこ知名度のある行家だが、義朝から為仲までの九人の兄達の兄弟仲、各々が従事していた役割を思うと、行家は九人の兄達との関りは薄く、血縁で云えば同母姉との繋がりの方が深かったと思われる。
 それが父・義朝による源氏族滅を避ける為の配慮だったかどうかは定かではない。



特別な立場 源行家は源氏一族に在って、知名度は決して低い方ではない。それは上述した様に甥の中でも有名な源頼朝・義経・義仲と微妙に関わっているからと思われる。
 行家自身、その経歴が詳らかな訳ではないが、義朝為朝以外の兄達は更に影が薄く、その人生は不詳である。まあ、父か伯父に等しい程年齢の離れた義朝、早くに命を落とした義賢と関りが薄かったのはままあり得る話だろう。
 また八兄の為朝は早くから乱暴者として父にも疎まれて九州に飛ばされていた程(←そしてそこでも暴れている)だから、為朝もまた殆んど繋がりは無かったことだろう。

 そして一六歳の時に行家は父と六人の兄を失った。三人の兄の内一人は既に故人で、一人は流刑となった。ここまで行家の経歴を追ってきて思うのだが、どうも行家の人生は誤解を恐れず云えば武士らしくない。恐らく、様々な思惑があって、九人の兄達とは異なった立場に置かれたと思われる。
 薩摩守の推測だが、恐らくは「一族滅亡を避ける為の保険」的な存在として、「武士」よりは熊野新宮の一員としての立場に置かれたと思われる。

 何せ、保元の乱に敗れたことで、清和源氏は後白河天皇方についた義朝一家を除けば、為義一家は族滅に等しい厳罰に処されている。行家と一歳しか違わない為仲も処刑を免れなかったのだから、もし行家が父・兄と共に上皇方に加わっていれば間違いなく処刑されていただろう。
 そして僅か三年後の平治の乱ではその義朝一家が族滅に等しい扱いを受けた。歴史の結果だけを見れば、頼朝以下の兄弟が助命されたことで彼等が成長後に平家を滅ぼした訳だが、当然清盛自身はそのことを警戒し、流刑・出家等の手段を講じることで源氏若武者達の牙を抜いた(筈だった)。
 やがて二〇年の時を経て、皇族・貴族・全国各地の源氏の中で平家に対する反感が燻ぶり、唯一平家の覚え目出度かった源頼政が挙兵した訳だが、頼政がすぐに声を掛けられる源氏の者と云えば、新宮の行家しかいなかった(他の者はすべて甲斐・木曽・伊豆・蒲等の遠隔地在住)。

 ただ、特別ついでに云えば、この時まで命を長らえていた行家は恐らく武士として成長して来なかったのであろう。墨俣の戦いで敗れたのを初め、行家の武将としての戦績は可哀想なぐらい芳しくない。長兄・義朝、八兄・為朝の勇猛さとは比べものにならず、甥である義平・義仲・義円・義経の戦巧者振りを思うと同じ源氏とは思えない程である。
 勿論、身内が猛者・名将だからといって、同族の者がそうであるとの決まりなど無いが、行家は後白河法皇が「戦下手」、「富士川の戦いにおける勝利はまぐれ。」と云った頼朝と比べても敗戦続きだった。
 そうなったのも、行家が武士ではなく、山伏として育ったからであろう。そしてそのことを行家自身も自覚していたのだろう。行家は自分に軍才が乏しく、その一方で弁舌や交渉には長けていたことを知っていたから、頼朝・義経・義仲、と常に誰かを味方に即けつつ、一方で誰にも心を許さず、独立勢力としての地歩を固めながら世の推移を見守り、介入していたように見える。

 歴史にifを云い出せばキリが無いが、行家に強力な後ろ盾があれば、頼朝・義経とは異なった形で武家の棟梁としての足跡を残したのではなかっただろうか?


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令和六(2024)年四月四日 最終更新