第拾頁 末弟の持つ「立場」と「武器」

 本作で採り上げたいと思いつつ、採り上げなかった人物が何人かいるのだが、その一人に鳳壽三郎(ほうじゅさぶろう)という人物がいる。この人物の名前自体は有名ではないが、「「君死に給うことなかれ」に歌われた与謝野晶子の弟」と云えば、多くの人々がその存在を知っていることと思う。
 同歌は「御国の為に戦で死ぬのは尊いこと。」とされた時代に「旅順要塞が落ちようと落ちまいとどうでも良いこと」、「天皇は戦場に立たない」といった詩文が多くのバッシングを受ける一方で、「身内の生還を願う人間の本音を詠ったもの。」として密かに共感された。
 特に「末に生まれし君なれば」や、「親は刃を握りて人を殺せと教えしや」という部分は末弟に生まれたが故に親や兄・姉の愛情を一身に受け、その身を案じられた様子が見事にクローズアップされている。
 幸い、壽三郎日露戦争で戦死することなく復員し、昭和一九(1944)年に家業である菓子屋の主人として天寿を全うした。
 これ程「末弟」という立場を考察するのに格好の人物を取り上げなかったのは、上記以外のことを薩摩守が知らなかっただけである(苦笑)。誠にまだまだ勉強不足であることを恥じ入るばかりである。

 ともあれ、同歌が共感されるのは、戦争への批判もあれば、身内を案じる想いもあれば、壽三郎が家族に如何に愛されていたかが垣間見えるからと云うのもあるだろう。その中で少し思ったのが、もし壽三郎が「末に生まれし君」では無かったら、この歌のグレードがやや変化したのでなかろうか?と過去に薩摩守は思った。
 勿論壽三郎晶子にとって末弟であろうと長兄であろうと、戦果に関係なく生きて帰ってきて欲しいと思ったことに変わりはないだろうし、反戦歌としての評価は変わらなかっただろう。それでも壽三郎が末弟であったことで想いや共感は増幅され、かなりのスパイスとなっていたのではなかろうか?と自らは長男に生まれた薩摩守は思った次第である。
 本作の締めとして、薩摩守なりに思いを馳せた「末弟」という存在を振り返り直してみたい。



最終検証壱 親から見た末弟
 要するに「末っ子は可愛い。」という一般論である。勿論これは末っ子以外の子供が可愛くないと云う意味ではない。要は比較要素だろう。
 例えば、男ばかりの三人兄弟、或いは女ばかりの三人姉妹にあって「真ん中は可哀想。」と云われるのがそれである。性別に関係なく、「最初の子」・「最後の子」は無条件に可愛いとされる。つまり、「最初」と「最後」が大きなインパクトとなり、中間は影が薄くなるとの一般論である。
 これが、三兄弟でも「最初男、二番目女」または「最初女・二番目男」」とくれば、第一子も第二子も「最初の男の子・最初の女の子」または「最初の女の子・最初の男の子」として「最初」を接頭語(?)に可愛がられ、三番目の子は性別に関係なく「最後の子」として愛される。
 まあ、古代程兄弟の数が多いし、幼児死亡率が高いのでいつ長兄になったり、末弟になったりするかも分からないし、養子行きや早世が珍しくないため、影の薄くなる子は枚挙に暇がないだろう。

 勿論これは「比較の上」でしかない。徳川秀忠の妻・お江は長女・千姫が大坂の豊臣秀頼に嫁ぐのに同行し、その地で産気付いて四女を産んだ。生まれてきた子が四度目も女児だったことに落胆したお江は、姉・常高院に請われ、四女を子のいない姉の養女に出し、四女は叔母と同名の初姫と命名された。
 これに対して秀忠は江戸に戻ったお江に、女児といえども勝手に他家に出すようなことをしてくれるなとして彼女を咎めた。
 とはいえ約束は履行され、初姫は常高院の下で育てられ、最初の取り決め通り京極忠高(常高院の夫・京極高次が側室に産ませた子)と夫婦になったのだが、不幸にして夫婦仲は悪く、それを知らされていた秀忠は初姫が二八歳の若さで父に先立った際に、忠高の葬儀参列を許さなかったと云う。それほど秀忠は四番目にして、顔を合わせたことも無い娘ですら溺愛していた。

 それを考えると、末弟が親から見て特別視されるのは別の要素もあるのだろう。薩摩守は「相続の問題」と見ている。大名家にあって、通常は嫡男が家を継ぎ、親の持つ権力・財力・武力をすべて受け継ぐ。ただ、嫡男が家を継ぐ前に世を去ることはいくらでもある話で、庶長子が家を継ぐこともあれば、嫡男の同母弟である次兄・三兄が後継者となった例はごまんとある。
 ただ、さすがに四男・五男となると確率はぐっと下がるし、「保険」としての役割の要不要も怪しい。そうなると某時代劇ドラマの貧乏旗本三男坊じゃないが、「兄の厄介者」となる者も出てくる。まあ、さすがにそれでは生き甲斐が無さ過ぎるので、出家したり、武士以外の生き方を求めたり、子がない遠縁の養子となったりするのだろうけれど、親から受け継ぐものはかなり小さいものとなろう。
 物凄く力のある家なら別家を立てる(例:藤原四兄弟家、徳川御三家等)ことも可能かもしれないが、後継者である長兄がその独り占めを図ったらそれすらも期待出来ない。

 皆が皆そうなるとは限らないが、末弟ともなると死後に残してやるものが無いかも知れないとなると、せめて自分が生きている間は愛情だけでもふんだんに注ぎたくなるのかもしれない。年数で云えば末弟は愛される期間が一番短い故に。



最終検証壱 長兄から見た末弟
 様々なケースがあるから難しい。徳川信康徳川頼房の様に末弟が生まれたときに既に長兄が死んでいる例も枚挙に暇がない。まあ、頼房にしてみれば秀忠が事実上の長兄だったのだろうけれど。
 ただ、古代程長兄と末弟ともなれば親子ほど年齢が離れている例も多い。場合によっては、長兄の子よりも末弟の方が年下のこともあろう。またそれだけ年齢が離れているとなると、兄と弟で母が異なることの方が多い。
 となるとも、問題は、「年の近い長兄と末弟」のケースだろう。同母兄弟なら仲良くなり、異母兄弟なら時として後継者争いを巡るライバルとなることもあり得よう。既に長兄が後継者の地位を完全に確保していて、長兄の後継者まで成人していれば、末弟は兄にとっても可愛い弟にして、我が子への良き補佐役となってくれるかもしれない。
 医学が未発達で、何時若くして命を落とすか分からない時代故に兄弟も多くなるのだろうけれど、それ故に対立の種も増える。兄弟でも、企業でも、国家でも、トップの継承ルートが万全であることで新参者達=その都度生まれる末弟が純粋に可愛がられる社会であって欲しいと願われてならない。



最終検証参 兄弟順による特権
 兄弟の中で、二番目、三番目に位置する者から見れば、長兄と末弟が一番得しているように見えるのではないだろうか?
 まず長男は親から与えられるものがまず新品で、次男・三男はその「お古」を与えられることが珍しくない。また高貴な云えともなれば、周囲にも「後継者」として紹介されるので、内外における待遇も異なる。
 実際、織田信長は食事の際、長男の信忠には膳の後片付けをさせず、家臣にさせていたが、次男・信雄と三男・信孝には自分で膳を片付けさせ、後継者としての信忠の立場を明確化していた。それだけに本能寺の変で信長と信忠が共に他われた際に清洲会議は紛糾し、信長嫡孫で、信忠の子である三法師(秀信)が三歳でありながら後継者となったのだろう。
 勿論これには明智光秀を打って発言権を高めていた羽柴秀吉の力量が大きいのだが、信忠が固めていた立場も無視出来ないだろう。

 翻って、末弟はそんな特権は享受出来ないが、ある意味自由であり、「兄のくせに。」、「兄なんだから。」という責任追及から無縁でいられる。かつて読んだある雑誌に、「末っ子とは、力は無いが親という最大の武器を持つものなり。」という一文が有った。恐らくこれに賛成にするのは長兄で、末っ子は余り共感しないと思う(笑)。
 要するに人間は無い物ねだりをすると云えばそれまでなのだろう。勿論令和の世は長兄と末っ子の違いも権利もかつてほど厳格でもなければ極端でもない。
 民法上、一家の当主が亡くなれば、遺言が無い限り遺産の半分は配偶者が継ぎ、残る半分は子供達に平等に分配される。逆にこれが明文化されている故に、絶対とされる筈の遺言が妻子にとってあまりに向受け入れ難い内容だと、「死を前にした錯乱状態で発せられたもので無効。」との名目で訴訟が行われる。
 まあ、それはともかくとして、余程大企業の後継者か古代から続く名家の当主でもなければ子供達は基本平等である。また極端な話をすれば兄弟のどの順位に生まれようと実力があれば新たな事業や家を興すことは可能である。逆に親から受け継いだものばかりで自分で新たに何かを為さない後継者は「親の七光りに頼るボンボン」との揶揄が付きまとう。

 何より大事なのは、長兄に生まれようと末弟に生まれようと、最終的には自分が何を為すかである。
 長兄は親から受け継げるものが大きいだろうけれど、受け継いだものを小さくすれば世間から後ろ指を指され、余程大きくしないと普通にしか見て貰えない。
 一方の末弟は親から貰えるものが少なく、酷い時には裸一貫で物事を始めない行けないが、得た者はすべて自分が成したとして世間から賞賛される。
 長兄にも末弟にもその立場故に与えられた特権がある。ただ、それをどう活かすかは結局個々人の努力に委ねられる。勿論人間誰しもいつ不幸に身まれるか分からないので、長兄・末弟の立場が変動することもあるし、一人っ子だと、長兄も末弟も無い。
 個人的に物凄く極端に思うのは井伊直弼である。直弼は彦根藩主井伊直中の一四男に生まれた。出生時に既に父親は隠居し、三兄・直亮が藩主となっており、長兄・次兄・四兄・五兄は死んでいた。当然直弼達に井伊家当主となれる見込みなど無く、六兄から一三兄までの兄達は家臣や他の小大名の養子となった者も多く、直弼は何処かの養子になることを期して文武両道に励んでいた。
 結局直亮に子が無かったことで最初は一一兄である直元がその養子となったが、直元は家督継承前に亡くなり、一四男である直弼にお鉢が回り、彦根藩主となった直弼に、家臣の養子となっていた兄が使えると云う珍現象も起きた。世の中何がどう転ぶか分からない。
 他の兄達も早世した者以外は他家に養子に行き、直弼の後生まれた弟も同様だった。

 まあ、直弼は末弟ではないので、本作では採り上げなかったが、古今東西受け継ぐものが巨大だと兄弟仲がこじれた際に深刻化し、互いに自らの立場が持つ特権に腰を掛ける一方で、自分にない者を持つ兄弟をやっかむのだろう。
 同じやっかむにしても、純粋に兄弟順だけに文句を云う現代は何だかんだ云って平和なのかもしれない。願わくば武力に限らず兄弟相克など起きない世であり続けて欲しいものである。

令和六(2024)年四月四日 薩摩守



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令和六(2024)年四月四日 最終更新